■はじめに
日本人にクリスチャンのイメージを尋ねたら、おそらく「優しい、まじめ、善良」と答えると思います。というのもマザーテレサやキリスト教ボランティア団体のようにメディアに登場する方がは皆そのような品格を持っているからです。そのイメージゆえに「まじめでなければ信者になれない」と思っている方もおられます。ただしイエスは、子どものように世の中への貢献もなく、社会的な地位もなく、キリスト教の知識もない者が神の国に入れる、と弟子たちに教えています。神の国における永遠のいのちは「何かをやった/何かを知っている」といった人の功績に依存しないのです。今日はラザロの兄妹マルタとイエスの会話を通して、どういう者が永遠のいのちを与えられるのかを見てゆきましょう。
Ⅰ.マルタはイエスと神との関係を信じていたが、死者を直ちによみがえらせることまではわからなかった(11:17-24)
イエスは親愛なるラザロの重体を聞いてもなお2日間、ヨルダン川の向こう岸にとどまっていました。というのも死んでから数日経った者、つまり仮死状態ではなく蘇生する可能性がゼロのラザロをよみがえらせる目的があったからです。そしてラザロのよみがえりを通して弟子たちやユダヤ人にご自身がこの世の光であることを示そうとするのです。
いよいよイエスがベタニアにやって来ます(17-19節)。ベタニアはエルサレムの東約3kmですから、イエスの敵対者がすぐにでも駆けつけられる近さにあります。弟子たちが「またそちらに行くのですか」と心配するほど危ないのですが、イエスはそれを承知の上でここに来ました。イエスにとって、この世の光を明らかにすることが何よりも大事だからです。
イエスが到着した時、ラザロは墓に埋葬されていて4日となっていました。ユダヤ人の葬儀は7日間行われるので、マルタとマリヤのところにはいまだたくさんの人が弔問に訪れていました。マルタやマリアをはじめここに来たすべての人は「ラザロは死んで、この世に戻って来ない」と認めているのです。
そこにイエスが来ました(20-22節)。イエス到着の知らせを聞いて、マルタは家から出てイエスを出迎え、自分から話し出しました。この時点ではまだイエスは村に入っていませんから(11:30)、マルタは自分の思いを何としてもイエスに聞いてもらいたいのです。一方のマリアは家の中にいたままでした。自分から積極的に語る性格ではないためだと思われます。
マルタは「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」とイエスに語ります。彼女はどんな状態でも生きているのなら、イエスは助けることができると信じています。なぜなら、神とイエスの関係を理解しているからです。けれども「私の兄弟は死ななかったでしょうに。」とあるように「いまさらイエスが来てもどうにもならない」といったあきらめがマルタを包んでいます。このことばには彼女の悲しみや辛さ、失望が滲み出ています。「死んで数日経った者でもよみがえらせる」という確信は伝わって来ません。
そこでイエスが答えます(23-24節)。イエスは真実、すなわち死んだ者でさえもよみがえらせるというご自身の全能を語りました。これに対してマルタは「終わりの日のよみがえり」を口にしました。「終わりの日のよみがえり」とは、この世の終わりの時にちりとして大地に眠っている者がよみがえるという、ダニエル書の預言です(ダニエル12:2)。サドカイ人を除いて、ユダヤ人はこのような信仰でした。
つまり、マルタの信じているよみがえりとイエスの言うよみがえりは同じではないのです。マルタは「イエスが直ちにラザロをよみがえらせる」そこまでは分かっていません。だからイエスがそばにいたとしてもマルタにとって死はいまだ暗やみのままで、イエスが光にはなっていないのです。もし、「イエスが直ちにラザロをよみがえらせる」これを確信していたなら、イエス到着を聞いて大喜びするはずです。
マルタがイエスのすべてを分かっていなかったように、ペテロやヨハネといったイエスの弟子たちも、イエスのことをすべて理解できていませんでした。けれども、イエスはそんな弟子たちを追い返したり破門にしませんでした。イエスはご自身に従うことを良しとしたからです。私たちが無限の神、イエス、聖霊を完全に知ることは不可能です。ただ、この世を生きる上で安心したり希望を抱き続けるためには「どのようなお方なのか」を知る必要があります。しかし最も大事なのは「とにかくイエスを信じ従う」ことです。理解の大きさ深さではありません。
Ⅱ.マルタはイエスについて全てを知らなくてもイエスを神の子キリストと信じた(11:25-29)
マルタのことばを聞いてイエスが話します(25-26節)。イエスはマルタの理解を非難したり否定したりしません。あくまでもご自身が何者なのかを語ります。イエスはご自身がよみがえりであり、永遠のいのちだと言います。なぜなら「よみがえりと永遠のいのち」すなわち人の死と生を支配できる権威を父なる神がイエスに与えたからです(ヨハネ6:40)。
しかも「生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」と語るように、終わりの日ではなく、今この時永遠のいのちを与えることができるのです。言い換えれば、死んでちりとなった者を終わりの日ではなくて、今よみがえらせることがイエスにはできるのです。それでイエスは「あなたは、このことを信じますか。」とマルタに尋ねました。マルタはイエスと神との関係を信じていますが、イエスは彼女の信じていること以上のことがらを問うているのです。
マルタはこう答えました(27節)。先ほどマルタは「あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」と言いました。彼女はイエスがこの世に来られた神の子であり、キリストすなわちメシアであると信じているから、たとえ死であっても支配する力を神がイエスに与えていると確信できるのです。マルタはひとつの曇りもなくイエスを信じているのです。
ただし、イエスが死と永遠のいのちを支配できると信じていても、今直ちにラザロをよみがえらせることができる、という理解には至っていません。なぜなら、もしラザロのよみがえりを気づいていたなら、たいへんな喜びが湧き上がって来るでしょう。また、墓の石を取りのけた時に「4日も経っているので臭くなっています。」と「これでは無理」という気持ちにならないでしょう。加えて、妹マリアにもラザロは今よみがえると伝えるでしょう。「イエスが直ちにラザロをよみがえらせる」これを分かっていないから、彼女はいたって冷静なのです。
マルタはイエスをその場に残して家の中に入ります(28-29節)。28節「そっと伝えた/あなたを呼んでおられます」とあるように、マルタはマリアが誰にも騒がれず静かにイエスに会えるようにしました。妹への心遣いが表れています。姉の言葉でマリアもすぐにイエスに会いに行きました。彼女もまた姉と同じように自分の気持ちをイエスに伝えたいのです。そしてマリアもラザロが死んだ悲しみや失望をイエスに訴えます。イエスがいるからラザロはよみがえるという期待や喜びは生まれていません。
「わたしはよみがえりです。いのちです。...あなたは、このことを信じますか。(25-26節)」ここには信仰について重要なことがらを含んでいます。イエスは「ラザロをよみがえらせるから信じますか。」とは語っていません。信仰とはただイエスを信じることだからです。もし、「あなたの喜ぶことをするから信じますか。」という条件をつけたのなら、イエスが自分の思い通りになっているかどうかで「信じる/信じない」を決めることになります。世の中は結果から信用や信頼が生まれます。しかし、信仰はただイエスによる救い、すなわち神の約束を信じることなのです。
■おわりに
マルタとマリアはイエスを「世に来ている神の子キリストである」と信じています。イエスはラザロを友と呼び(11:11)、使徒ヨハネも「イエスはラザロを愛しておられた(11:5)」と語っていますから、ラザロもまた姉妹たちと同じようにイエスを信じていたでしょう。けれども、イエスが直ちに死んだ者をよみがえらせるとはだれ一人わかっていませんでした。日本語的には悟っていなかったと言えます。
しかしイエスはそのようなイエス理解でも不満を漏らしたり、けちを付けてはいません。永遠のいのちにとって唯一必要なのは「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」という信仰告白だからです。繰り返し申しているように「ただイエスを信じる」これが肉体の死の後に始まる永遠のいのちへの唯一の道です。
この後、マルタとマリアはイエスによるラザロのよみがえりを体験します。彼女たちはこれまで知らなかったイエスの権威、力を体験して、イエスがこの世の光であると確信し、ますますイエスを深く強く信じるでしょう。それと同じように私たちも信仰の人生を送ってゆく中で、「こういうことも助けてくださるのか」といった体験をするでしょう。そして、その体験を通してイエスの輝きをますます大きく見ることになり、ますますイエスを信じてゆくでしょう。「ただイエスを救い主と信じる」その先に永遠のいのちがあり、地上の人生の上に平安があるのです。
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