■はじめに
イエスは十字架で死んで3日目によみがえり、弟子たちにご自身の姿を現した後、弟子たちが見ている中で天に上られました。そして今は父とともに天に住み、私たちの住まいを準備しています(ヨハネ14:2-3)。その準備が整ったらイエスは私たちを迎えるためにこの世にやって来ます。それが再臨です。その時、罪が支配するこの世は終わり、新しい世すなわち神の御国が始まります。つまり、私たちは世の終わりが刻一刻と近づいている中で生きているのです。ただし、イエスを信じた者は天の御国が決まっているからといって、この世を好きなように生きて良いのでしょうか。今日は、終末の時代だからこそクリスチャンは何をすべきか、このことを聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.世の終わりまで私たちは欲望に従わず、神のみこころに沿って生きる(4:1-6)
この手紙が書かれた紀元60年頃、クリスチャンは苦難を受けていました。それはローマ帝国による迫害ではなく、単にクリスチャンという理由で意地悪され、憎まれるという苦難です。それで使徒ペテロは、イエスが再臨したときに受け取る栄誉に向けてどう生きるのかを手紙に書いたのです。ペテロは大きく2つのことを語りました。一つはイエスゆえの試練は金の精錬のように信仰を純粋にして高めるということ、もう一つはイエスに従って生きるということです。
イエスは人を救うために善を行ったにもかかわらず、人々から不当な苦しみを受けました(1節)。このイエスの苦しみはむち打ちや十字架刑のような身体的なものと、あざけりやののしりのような精神的なものがあります。ですから肉体における苦しみとは、人がこの世で受けるすべての不当な苦しみを指しています。
それゆえ「同じ心構えで自分自身を武装する(1節)」必要があるのです。ただし、「自分自身を武装」するとは苦しみを覚悟することではありません。ペテロは「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。(Ⅰペテロ2:20)」とイエスについて語っています。つまり「今の苦しみは神の喜びであり、神の栄光を現すため」というイエスの心構えで身を固めるのです。イエスと同じように、私たちも善いことをしても不当な苦しみがあるでしょう。その時、神の喜びと神からの栄誉に目を留めれば、苦しみを忍耐できるのです。
そして、肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っています(1節)。イエスと同じように不当な苦しみを受けている人は罪を犯しません。なぜなら、2節「もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるため」と変えられているからです。神の喜びのためにふるまっているから、神の名を汚したりイエスの十字架を台無しにするような行為はしません。「神の喜びのために」という心構えがある人は自然に罪から離れてゆきます。
ただし、この世には神のみこころから引き離そうとするものごとにあふれています(3節)。ここでの異邦人は文字通りユダヤ人ではない人に加えて、天に国籍のない者いわば信仰における異邦人も含まれます。3節に挙げられたものごとは神以外に喜びや安心を求めるものであり、いつの時代にもどの地域にもあります。一方、イエスを信じた者は神からの喜びや安心に満たされるから、これらのことはすでに過ぎ去っています。
ですからこれまでと同じふるまいにならないから、4節のように不審や中傷に会うのです。例えば、「どうして止めたの/何かあったの」と驚かれたり、「つきあいが悪い/和を乱すやつ」と言われることがあります。しかし、かつて味わった欲望の誘惑を受けたとしても、かつての仲間から驚きや悪口を受けたとしても、罪を犯してはならないのです。なぜなら5-6節のように、この世の終わりには神による審判があり、その場で背きについての説明を求められ、イエスを救い主と信じていない者は永遠の滅びという判決が下るからです。神はすべての人が救われることを望んでいますから、私たちは自分の生き様を通してイエスによる救いを明らかにするのです。
私たちは欲望のままに生きず、神のために生きています。とはいえ、かつて味わった欲を満たすという誘惑があります。さらに、クリスチャンゆえの不当な苦しみや中傷によって、「神のために」という思いがくじけそうになります。けれどもそんな私たちを救うためにイエスは十字架にかかってくださいました。それによって私たちは世の終わりにおいて永遠のいのちが与えられました。しかも私たちの中にイエスが生きておられます。ですから、「神のみこころのために、神の喜びのために生きよう」という思いは無くならないのです。
Ⅱ.クリスチャンが互いに神の愛を実践することで、教会が神の国を証しする(4:7-11)
ペテロは「終末の時代において神のみこころに生きる」ために、クリスチャンゆえの不当な苦しみや中傷があっても欲望の誘惑を断つことをまず命じました。続けてペテロはすべきことを語ります。
クリスチャンが「神のみこころのために/神の喜びのために」を考えて決断し実行するためには、祈りを通して神に向き合い、知識の聖霊と啓示の聖霊を求めなければなりません(7節)。知識の聖霊とは神を知る意欲を起こさせる聖霊の働きであり、啓示の聖霊とは神のみこころをわからせる聖霊の働きです(エペソ1:17)。ですから、神との対話に集中するために心を整えて身を慎むのです。簡単に言えば、感情的にならず冷静になり思慮深くなるのです。スポーツで良い結果を出すためにはコンディションを整えて、競技で実践すべきことがあります。それと同じように、神のみこころに生きるためには信仰というコンディションを整えた上で実践しなければなりません。
その実践が8~11節に示されています。ここには「(あなたがたは)互いに~しなさい」という命令が多いことから、クリスチャン同士のあり方、つまり終末における教会のあり方が指示されています。
①何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。(8節)
「何よりもまず」とあるように、これがクリスチャン同士のあり方で一番大切です。「熱心」は「切に/いつまでも変わらず」という意味ですから、どのような状況でも変わることなく神の愛を実践し続けるのです。当然、感情的にならないで心を整え、冷静でなければできませんね。
なぜ、互いに愛し合うことが一番大切なのか、その答えが「愛は多くの罪をおおう」です。「罪をおおう」とは罪を覆い隠すというよりも、愛によって互いに罪を赦し合い、罪があったことさえわからなくなるようにするのです。これを成し遂げた方がイエスです。イエスは愛によって十字架にかかり人の罪をおおったから、人は罪のさばきを免れました。イエスの姿から「罪をおおう愛」とはこう言えるでしょう。「罪を犯してしまった苦しみや痛みに同情し、責任を担い、罪からの回復を支え、神と人へのとりなしをする。」これが教会に求められる愛なのです。神が罪を赦した兄弟姉妹なのですから、私たちも罪を赦し、弱さを共に担うのです。罪をおおう愛に満ちた教会には不安や恐れはなく、平和と安らぎが満ちています。
②不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。(9節)
不平とは「何で私が/どうしてこんな人を」の類であり、「互いにもてなす」とはどんな相手でもその人の必要に十分に応えるということです。イエスは自分に頼ってくる者を拒むことなく、相手の要求に応じました。大切なのは相手の慮る意志です。
③それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。(10節)
すべてのクリスチャンは神から賜物を受け取っています。一つもないということはありません。大事なのはそれをどう用いるかです。「仕え合う」の「仕える」には助ける、世話をするという意味がありますから、賜物は人の必要のために用いるのです。その用い方が「神のさまざまな恵みの良い管理者として」です。物品の良い管理者は何がどれくらいあるのかを知っていて適切に使います。つまり、賜物をよく管理する人は、自分にはどんな賜物があって、どれくらいできるのかを正しく把握し、必要に応じて惜しみなく発揮できます。11節「語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい。」はこのことを言っています。ただし、助けたいからといって持っていないものまでムリに用いることはありません。神は一人一人にふさわしい賜物を与えていますから、一人で何でもする必要はないのです。
「賜物を用いて互いに仕え合う」目的、それは11節「イエス・キリストを通して神があがめられるため」です。人に仕えるのは相手を喜ばせたり、自分がほめられたいからではありません。福音書を見ると、イエスが病を治したとき、治った人が神を崇めています。それと同じように、私たちがほめたたえるのは、賜物を与えてくださった神であり、その人を動かしている神であり、賜物を用いているときにそこに働かれている神なのです。
愛をもって互いに仕え合うとき、「この方に栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン。」と神をたたえることばがあふれます。この世は人間の欲望にあふれ神を見出すのは難しいです。けれどもクリスチャン同士あるいは教会においては神の愛を土台にしているから、神の存在と神の愛、そしてイエスの愛を見出すことができるのです。
■おわりに
この世におけるクリスチャンの目的は自分のふるまいを通して神を知らせることです。同じように教会の目的も地域の人々に神の国を味わってもらうことです。一人一人を通して、教会を通して、すべての人が救われるのを神は望んでいます。イエスをこの世に遣わしたのもそのためです。イエスの再臨に備えて、神と人に仕えてゆきましょう。
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