今日から約2年をかけてヨハネの福音書を味わいます。この福音書はイエスの12使徒の一人ゼベタイの子ヨハネが書いたとされています。新約聖書には4つの福音書があり、このうちマタイ、マルコ、ルカは「イエスはどんな人生だったのか」に焦点が当てられています。今で言えばドキュメンタリー映画のようなものです。
一方、ヨハネの福音書は「イエスは神の子であり、イエスを信じる者は永遠のいのちを持つ」このことを証明する目的を持っています(ヨハネ20:31)。というのも、当時「イエスが神であり同時に人である」という真理を疑う間違った教えが勢いを増していたからです。そのため、イエスの出来事に加えてヨハネの解釈が含まれているのが特徴です。有名な聖句である「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(3:16)」はその典型と言えます。それで「イエスは救い主」という真理が文面から伝わってくるのです。
この書を通してイエスと自分がどう関わっているのかを深く知り、ますますイエスを信じるようになるのを願います。
Ⅰ.この世に来る前のイエスはことばとして神とともにおり、いのちであり、人の光であった(1:1-5)
ヨハネの福音書1:1-18は「ロゴス(ギリシヤ語で"ことば")賛歌」とも呼ばれ、この書の要約になっています。
ヨハネは、イエスがこの世に来る前はことばとして存在していたと語ります(1節)。旧約聖書を見て明らかなように、ユダヤ人はことばを聞いたり、人知を越えた出来事を見て、神の存在を知っていました。いわば、ことばは神の本質、神そのものなのです。ですからヨハネも、この世に来る前は目には見えないけれどもイエスはことばとして存在したと言うのです。後の手紙にあるように、ことばが人となったからヨハネは「ことばとして存在していたお方を聞いて、見て、触れた」と証言しています(Ⅰヨハネ1:1)。
ヨハネはことばについて3つのことを語ります。
①初めにことばがあった:天地創造以前の最初からことばは存在しました。天地万物のように神によって造られたのではありません。
②ことばは神とともにあった:「神の所に存在していた」と直訳できるように、神とは別個の存在です。
③ことばは神であった:ことばは神の性質を持っています。
そしてヨハネはこのことばを単なる存在としてではなく「この方」と人格を持つ存在として認め、1節のことがらを次のように強めています(2-3節)。ヨハネは地上でのイエスしか知りませんし、この世に来る前のイエスを見てもいません。けれどもイエスが自然や悪霊、病、死などあらゆるものを支配できるのを見ています。また、教えられていないのに神の教えやこの世の摂理を熟知しているなどあらゆることを知っているのを見ています。そしてイエスが父なる神とご自身の関係を語ったのを見ています。何よりも予告通り死んでよみがえり天に昇った事実を見ています。それでヨハネはイエスが何者であるかを理解したから1節のように証言できるのです。
さらにヨハネはことばについて語ります(4-5節)。冒頭の3節までは、ことばすなわちこの方と神との関係を述べ、ここでは「人の光」とあるように人との関係を述べています。4節「いのち」とは永遠のいのちであり生命の源をいいます。この方が天地万物を造ったことがそれの証拠です。このいのちが闇の中の光となっています。闇とは不安、恐れ、絶望のように生きる力を失わせることです。けれどもこの方のいのちが人に安心、喜び、希望といった生きる力を与えるのです。だからいのちは人の光になるのです。しかも「闇はこれに打ち勝たなかった。」とあるように、どんなにひどい世の中であっても、あるいはどんなに惨めで汚い自分であっても、この方は光として輝き続けます。決して、闇に消えることはありません。つまり、ことばなるこの方は人のためにあるのです。
神は天地万物を造り支配し、ことばとわざによってこの世界に介入しています。イエスもそのようなお方です。ただしヨハネは「闇に勝つ光」と語って、イエスの存在する理由が人のためであることを明確にしています。「闇を生きる私たちのためにイエスはいる」と言っているのです。イエスは歴史上の人物ではなく、今まさに生きている私たちと関わっているのです。
Ⅱ.神はバプテスマのヨハネに「イエスが光であると」証言する任務を与えた(1:6-8)
ここまで語ってヨハネは話題を変えます(6-7節)。「その名はヨハネ」とあるように客観的な言い方なのでヨハネ本人ではなく、バプテスマのヨハネを指しています。当時は、ヨハネといえばバプテスマのヨハネを指すので、ヨハネだけで通じたのでしょう。この箇所は非常に唐突な感じを受けますが、この時代イエスよりもバプテスマのヨハネの評価が高かったので、「イエスの方が優れていること」をはっきりさせるために書いたと思われます。8節で「ただ光を証するために来た」を念押ししていることからも、イエスとヨハネの立場をはっきりさせたい気持ちが伺えます。
神は、イエスとは何者で人にとってどんな存在なのかを、バプテスマのヨハネに証言させました。そして彼の証言によって人々がイエスを信じることを望んでいました。旧約聖書を見ると、神はご自分のことばを直接人々に与えず、預言者のような取り次ぐ者にことばを与え、彼らが人々に説き明かしました。それと同じように、人々がイエスを信じる準備をバプテスマのヨハネにさせたのです。
現代の私たちもこのヨハネと同じ役割が与えられています。私たちも、イエスが何者であるのかを周りの人々に証言し、イエスを信じればつねに光を持つことを証言する役割を持っています。そのためにもまず私たちがイエスがいのちであり、光であることを実感しましょう。
Ⅲ.イエスを受け入れる人は神の子どもとなる特権が与えられている(1:9-13)
次いでヨハネはイエスとこの世界との関わりを語ります(9節)。ヨハネは「世に来ようとしていた」という表現を使って、ことばなるこの方が世に来たいきさつを語ります。「世」ということばはヨハネが好む言い方で、罪に汚れた世界と人々を指しています。つまり闇の世界です。
この世界には闇に勝てそうなものがあります。例えば、お金や権力や能力は不安や恐れや絶望といった闇に光となりえますが、「どんな状況でも、つねに、誰にでも」とはなりません。つまり、人による光は闇に勝てないのです。しかし、イエスは「どんな状況でも、つねに、誰にでも」光となり、闇に勝つ信頼できる光なのです。実際にイエスは、汚れた人、罪人、遊女のように、当時においては闇しかないような人々をいやし、彼らの光となりました。
ただし10節にあるように、罪にまみれた世界は真実に目が開かれません。パウロも同じことを手紙で語っています(ローマ1:20-21)。特に「ご自分のところ/ご自分の民」と呼ばれているユダヤ人たちは深刻でした(11節)。彼らは他の民族とは違い、律法・預言・詩篇を通して神から直接神のことを教えられています。救い主としてのイエスは明らかにされていませんが、イエスのことばや奇蹟によって、ことばなる神が人として来たことをわかるはずでした。けれども、彼らは「神は人にはならない」という自分たちの知識や神観を優先したので、イエスを受け入れませんでした。天の神を父と呼んだことを「神への冒涜」と定めたのはそれの最たるものです。
しかし、罪の世の中にありながらも、その名すなわちイエスご自身を信じ、「この方なら何とかなる」と受け入れた人たちに、イエスは神の子どもとなる特権を与えました(12節)。「神の子どもとなる特権」とは神の持っている財産を相続できる権利を言います。つまり、この世のものとは全く異なる平安や喜びや希望や永遠のいのちを受け取れるようになっているのです。先ほど申しましたように、罪人とか汚れた人と呼ばれていた人々は、イエスを受け入れたことでたいへんな喜びや安心を得ました。周囲の人や世の中の風潮は一つも変わっていないのにです。
そして13節にあるように、神のこどもとなる特権を持つ者として新しく生まれ変わったのは、神のみこころとみわざによります。言い換えるなら、血すなわち家系や民族ではなく、肉の望むところすなわち行いによるのではなく、人の意志すなわち知識や心のあり方ではありません。人に依存するものは一つもなく、すべてはイエスと神によって特権が与えられるのです。それゆえイエスは「すべての人を照らすそのまことの光」なのです。
人の人生には「暗闇しかない/お先真っ暗」と自分の状況を見ることがあります。また、自分の心に闇を見ることもあります。けれども神でありいのちであるイエスを受け入れた人は、神から不思議な安心や慰めをもらい、状況は全く変わらなくても光の中に生きている者に変えられるのです。
イエスはことばとして天地創造以前から神とともにおられ、全てを造り、いのちを与え、全てを治めているお方です。そして、ことばとしての存在が人という形を持ってこの世に来ました。このお方を受け入れた人には神の平安、喜び、希望が与えられます。イエスはキリスト教の開祖でもないし、単なる歴史上の人物でもありません。この世界を生きている私たちと結びつき、私たちの光となっているお方です。しかも私たちの方からではなく、イエスの方から私たちに関わってくださっているのです。だから私たちはイエスに感謝し、イエスをほめたたえ、イエスを語るのです。
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