■はじめに
日本において私たちは、住所や家族あるいは職場など自分の所属を証明する手段を持っています。例えば、住民票、戸籍、職場の身分証といったものです。最近ではマイナンバーカードもありますね。では、イエスの所有する羊になっていることを証明するものはあるのでしょうか。今日は「イエスの所有する羊とは何か」について聖書に聞きます。
Ⅰ.イエスの所有する羊は、イエスの不思議なわざを通して「イエスが救い主」とわかる(10:22-26)
イエスは、「ご自身を囲いの門そして牧者、イエスを救い主と信じる者を羊、敵対するユダヤ人を盗人」というたとえで話しました。しかしユダヤ人はこのことを理解できずにいました。
現代の暦で11月~12月に宮きよめの祭りがエルサレムで開かれます(22節)。この時代から約170年前、外国によってエルサレム神殿にギリシアの宗教と文化が持ち込まれ、神聖な宮が汚されました。しかし、ユダヤ人は再び宮を取り戻し異教を一掃したので、この出来事を記念して宮きよめの祭りを定めました。
イエスはたくさんの人に交じって幅の狭いソロモンの回廊を歩いていたところ(23節)、宗教指導者であろうユダヤ人がイエスを取り囲みました。そして彼らは「キリストすなわちメシアなら率直に言ってください。」と願いました(24節)。約2ヶ月半前イエスは仮庵の祭りで「わたしはある」と言い、神を匂わせました。それから何事も起きないので、彼らは「いつまで私たちに気をもませるのですか。」と訴えるのです。宮きよめの祭りですから、神の国をローマから取り戻すという期待もあったのでしょう。
そこでイエスはこう答えました(25-26節)。「わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証ししている」とあるように、イエスが神であり人の子救い主である証拠は、神の権威によって行った不思議なわざだけで十分なのです。そのことをイエスによって目が見えるようになった者が証明しています。イエスは彼に「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。(9:37)」と言いました。目が開いた彼はそのことばでイエスを人の子救い主と信じました。イエスが「わたしが人の子です。」とはっきり言わなくても信じています。
つまり真理に目が開かれた者は、イエスが「わたしはキリストです」と言わなくても、さらなる奇蹟を起こさなくても今の段階でイエスをキリストと信じることができるのです。ですから、イエスがキリストだと分からないのはイエスのせいではなく、ユダヤ人の側いわば彼らの目が閉じているからなのです。「あんな罪人がキリストであるはずがない」という信念にこだわり、イエスのわざを認めない彼らに、たとえ「わたしはキリストです」と告白しても、いろんな証拠を見せても「分かりました。信じます。」には至らないのです。
そしてイエスはこのようなユダヤ人の状態を「わたしの羊の群れに属していない」と言います。羊は牧者の声を分かっているから、盗人の声に従わず逃げてゆきます。目が見えるようになった者はイエスの羊となっているから、自分のためのことばとして受け取りイエスに従ってゆきます。一方、ユダヤ人たちはイエスの羊となっていないから、イエスの声を判別できず、あるいは耳にしたとしても自分のためのことばと理解できないのです。
こんにち、私たちが手にしている新約聖書の福音書と使徒の働きにはイエスの目撃情報が書いてあります。これを読んで内容を事実と認めイエスを救い主と信じる人もいれば、否定して信じない人もいます。ノンフィクションなのにそのまま認めてもらえないのが現実です。でもそれはイエスの羊となっていないからです。ただし、今、イエスの羊かどうか分からないけれども、後になって羊であることが明らかになる事例がたくさんあります。その代表者がパウロであり、また私たち自身もそのような者でした。誰がイエスの羊かどうか私たちにはわかりません。だから私たちはすべての人にイエスを伝え続けるのです。
Ⅱ.神はイエスを通してすべての羊に永遠のいのちを与え、これを完全に保ってくださる(10:27-30)
ここでイエスはイエスの所有する羊について2つのことを語ります。一つは羊となっている証拠であり、もう一つは羊に与えられた特権です。
(1)羊となっている証拠(27節)
羊が牧者の声かそうでないかを判別できるように、イエスを救い主と信じる者もイエスの声を判別することができます。盲目だった人はイエスのことばに従いましたが、ユダヤ人たちの脅しには屈しませんでした。さらに事実を加えるならば、イエスを信じる者は一様に「イエスを主」と呼んでいます。生まれつきの盲人をはじめ、サマリアの女(ヨハネ4章)、王室の役人(4章)、ベテスダの病人(ヨハネ5章)、姦淫の女(ヨハネ8章)はイエスを主と呼んで、イエスのことばに従いました。イエスの羊すなわちイエスをキリストと信じる者は、自分を助けてくださったイエスを主と呼ぶのです。
(2)羊に与えられた特権(28-30節)
イエスを神と認め救い主と信じた者には全員一人も漏れることなく永遠のいのちが与えられています(28節)。「彼らは永遠に、決して滅びることがなく」とあるように、イエスの羊は今持っている肉体すなわち朽ちてゆくからだとは全く別のからだとなります。さらに、滅びをもたらす罪がまったくないので完全な平安の中を永遠に生きることができます。しかも、「だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。」とあるように、完全にイエスの守りの中にあり続けるのです。これが羊だけに与えられているから、永遠のいのちと完全な守りを特権と呼ぶのです。
なぜイエスの守りから羊を奪うことができないのか、その理由は父なる神が羊をイエスに与え、何よりも羊を大切にしているからです(29節)。神が自分の手から羊を奪い取れないようにしているのですから、神と一つであるイエスからも奪い取ることはできません(30節)。別な見方をするならば、神がこの上なく大切にしている羊だからイエスはいのちをかけて羊を守るのです。
「だれもイエスの手から羊を奪い取れない/父なる神の手から奪い取れない」これはあるかどうか分からないことでもないし、将来起こることでもありません。イエスを救い主と信じたイエスの羊はすでに、そしていつも奪い取れない中にあります。なぜなら、奪い取るものの中で最強の死に勝っているからです。死という事実を擬人化して考えてみれば、死にいのちを奪われたら絶対に取り戻すことは不可能です。人や国家あるいは病であれば奪い返す可能性はありますが、死に対してはそうはいきません。
けれども、イエスの死すなわち十字架の死によってイエスを信じる羊は永遠の死にゆくことはありません。つまりイエスがいのちをかけて羊を守ったのです。また、イエスは死からよみがえりました。これは神がイエスを大切にしている故に、イエスを死の支配から解放したからです。だからいかなるものも神が大切にしている羊を神の手から奪い取れないのです。このすばらしい特権をパウロはこう記しています。
「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8:38-39)」
イエスの死とよみがえり、この2つの事実が「だれも羊を奪い取れない」証拠なのです。
■おわりに
かつて私たちはイエスという歴史上の人物を知っていました。そしてある時「私はイエス・キリストを救い主と信じます」と口にし、イエスを主と呼ぶようになります。この信仰告白は自分の意志で公に明らかにするものですが、「イエスを信じる」いわば「イエスの羊となった」のは神の働きです。「わたしの父がわたしに与えてくださった者(10:29)」とイエスが語ったように、イエスについての事実を事実と認め、イエスを滅びからの救い主と信じるようになったのは、自分の努力や行いによるものではなく、ただ神のあわれみによる神の働きなのです。信仰も永遠のいのちもイエスの手の中にある完全な守りも、すべてが神のあわれみなのです。
Comments