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木村太

5月24日「イエスについての証言」(ヨハネの福音書1章14-28節)

 皆さんには頼れる人がいますか。困った時や悲しい時、つらい時にその人の元に行けば安心できる、そんな人です。おそらく職場や家庭あるいは地域社会といった生活の様々な場面ごとにいるのではないかと思います。一方で、人間関係が希薄な現代社会では「誰にも頼れない」という状況もあります。そこで今日は、私たちはどのような状況でも常に頼れる方を持っていることを聖書に聞きます。

Ⅰ.ことばなるイエスは人としてこの世に来られ、神の恵みとまことを完全に実行した(1:14-18)

 ヨハネは、イエスが神の性質を持ち、神とともにことばとしてすべての初めから存在していたと証言します。さらに、イエスは人の光であり、このお方を受け入れて信じれば神の子どもとなる特権が与えられると言います。ヨハネはこの書の冒頭からイエスについての真実を明らかにします。そしてここから、この方がこの世に来て何をなさったのかを語ってゆきます。

 ことばは血肉を持つ人としてこの世に来ました(14節)。それがイエスというユダヤ人です。マタイとルカはイエスがマリヤから赤ちゃんとして産まれ成長したことを記録し、イエスがまさに人であると証しています。この方が私たち、すなわち民衆の中で生活しました。興味深いことにヨハネは「住むこと」を「天幕を張る」という単語で表しました。ユダヤ人において天幕とは神が臨在する場所であり、ご自身の栄光を現す場所として根付いています。つまりヨハネは、イエスが神として人とともに生きており、人と直接関わりを持っていると語るのです。

 それでヨハネを含めてこの世の人々は彼の栄光をしっかりと見ました。言葉を加えるなら、畏敬の念を抱くこと、比べようのない輝きを放っていること、能力においても知識においても慈しみにおいても誰よりも優っていること、こういったことがらを誰もがイエスに認めていたのです。なぜなら、イエスが恵とまことに満ちていたからです。

 ①恵み:あわれまれるにふさわしくない者に注がれる神のあわれみ

 ②まこと:恵みがその通りに実行されること。人を選んだり、悩んだり、躊躇することはありません。


 そして「満ちておられた」とあるように、イエスは神の持つ恵みとまことに完全に一致し、ほんのわずかでも逸れていたり、おろそかにしたりしません。例えば、ツァラアトのように汚れた者として忌み嫌われている人でさえも、その人に触れて治しました。また、パリサイ人のように権威者であったとしても、間違いをはっきりと指摘しました。「恵みとまことに満ちている」とは、自己中心ではなく何よりも神と人を大切にすることなのです。

 それゆえヨハネはこのように語ります(18節)。子どもが父のふところに抱かれてるように、神のひとり子であるイエスだけが神と直接につながっています。人は神が実際にみわざを成したり、語っているところを見るのはできません。神は霊なる存在ですから神そのものを目にできないのです。けれども、イエスの行動もことばもお考えも神と同じだから、イエスを見れば神がどんなお方であるのかがわかるのです。

 さらにヨハネは「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」のはバプテスマのヨハネではなくイエスであることを2つのことがらで証明します(15-17節)。一つは15節のように、バプテスマのヨハネ自身が、自分よりも後に来るイエスの方が優れていると証言しています。もう一つは16-17節「この方の中から恵みの上にさらに恵みを受けた/恵とまことはイエス・キリストによって実現した」とあるように、バプテスマのヨハネではなくイエスから神の恵みを惜しみなく受けたと言っています。

 人にとっての善や正しさの基準は律法としてモーセを通して与えられました。イエスはその律法を完全に成し遂げることで、人々は神の恵みとまことを受け取りました。律法とは神と人を愛することだからです(マルコ12:29-31)。

 「ことばなる神が人となった」とヨハネが語るのは驚くべきことです。というのもユダヤ人は「神が人になる」のはあり得ないと信じていたからです。神は直接見たら直ちに死ぬほどの聖さと力のお方です。誰でも双方向のやりとりはできません。人と神の間には越えられない隔たりがあります。そのようなお方であるのに、ヨハネは神が人としてともに生き、自分と関わりを持ってくださっていると認めたのです。誰が何と言おうとも、「絶対にあり得ない」と否定されても、イエスの姿は神のご性質そのものだから、ヨハネは神が人となったと確信できるのです。同時に「神が一緒に住んでくださる」これはヨハネにとっても私たちにとっても、この上ない安心であり喜びなのです。

Ⅱ.祭司たちの質問に、バプテスマのヨハネは自分の役割とさらに優った方が来ることを答えた(1:19-28)

 ヨハネはイエスの生涯を語る前に、神から遣わされたバプテスマのヨハネについて語ります。なぜなら後ほど触れるように、イザヤ書のことばを語ることで「預言されていたメシアがイエスである」と証明するためです。

 祭司とレビ人は神殿礼拝を取り仕切る人たちで、いわばユダヤ教の中心人物です(19節)。この時、バプテスマのヨハネはベタニアという土地で、ヨルダン川に入って水の洗礼をユダヤ人に授けていました(28節)。当時、水のバプテスマは異邦人がユダヤ教に入るための儀式であり、ユダヤ人には必要ありませんでした。それで、律法と聖さに厳格なパリサイ人たちは「ヨハネがユダヤ人を異邦人と見なしているからユダヤ人に洗礼を授けている」と推測したのでしょう。異邦人を徹底的に忌み嫌っているパリサイ人からすれば当然の疑問です。しかも、バプテスマのヨハネのところには大勢の人が集まっていました。そのため、ユダヤ教の総本山であるエルサレムから彼を調べるために人が派遣されました。

 祭司たちは「あなたはどなたですか(19節)/何者なのですか。あなたはエリヤですか(21節)/あの預言者ですか(21節)」と次々に質問しました。最後には「あなたはだれですか。私たちを遣わした人たちに返事を伝えたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」と尋ねて、何としてでも正体を知ろうとしています。一方バプテスマのヨハネはまず「私はキリストではありません(20節)」とメシア(救い主)を否定しました。さらには、メシアが来る前に再来するエリヤでもないし、律法(申命記18:15)で言われているモーセのような者でもないと否定しました(21節)。

 祭司たちひいてはパリサイ人が知りたかったのは、ヨハネが預言された救い主であるかどうかでした。さらにはヨハネが「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。(23節)」と答えた直後で、「キリストでもエリヤでも予言者でもないなら、なぜあなたはバプテスマを授けているのですか。(25節)」と尋ねました。祭司たちはヨハネの権威すなわち「誰からそのような権威を与えられたのか」という彼の所属とか資格を知りたかったのです。ヨハネがやっていることの意義には何の興味もありません。

 ヨハネが言ったイザヤ書のことば「主の道をまっすぐにせよ」とは、罪を告白し悔い改めてイエスを受け入れる準備をすることです。それでヨハネは、罪を告白し悔い改めたことのしるしとして水のバプテスマを授け、人々がイエスを受け入れる備えをしていました。「荒野で叫ぶ者」ではなくて「荒野で叫ぶ者の声」と答えたのは、資格とか権威のように自分が何者かが大切ではなく、自分のしている内容が大切だからなのです。なぜなら、自分の後に来る方を受け入れることで神の子どもとなる特権が与えられるからです。

 そしてヨハネは2つのことがらをそれとなく語っています。一つは、自分の後に来る方が水のバプテスマとは違うバプテスマを授けること(26節)、もう一つは、自分は履き物のひもをほどく奴隷にも及ばない、と後から来る方の計り知れない権威です。バプテスマのヨハネは自分ではなく自分の後に来るイエスに焦点を当てています。つまり、自分の資格とか身分とか権威が大事なのではなく、人にとって大事なのはイエスだと言っているのです。

 祭司やパリサイ人をはじめとするユダヤ教の指導者たちは、「あなたは誰か」という外面にこだわっています。その人が何をしているのか、何を求めているのかという内面すなわち本質ではありません。一方のバプテスマのヨハネは、どんな人であっても罪を告白し悔い改めてイエスを受け入れるという本質すなわち真理を第一としています。後に来るイエスも罪人、汚れた人、遊女、異邦人、子どもや女性のように外面ではなく、信じる者をいやします。これが「恵みとまことに満ちている」という事実なのです。

 繰り返しになりますが、「恵みとまことに満ちている」とは、あわれみに価しない者にあわれみをかけることであり、それは人によって差別はありません。同時に、あわれみをかける側の都合によって中止とか延期はありません。さらに、「恵みの上にさらに恵みを受ける」ごとく1回きりではなく、その人のために何度でも恵みをくださるのです。これがイエスが生涯を通して明らかにした神の姿です。それゆえ、この時代から約2000年も離れ、且つユダヤ民族とは違う私たちも恵みの上にさらに恵みを受けているのです。イエスは「世の終わりまでいつもあなた方とともにいる」と約束しました。「恵みとまことに満ちている」お方は今も私たちとともに住まわれています。そこに私たちの安心があります。

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