5月3日「神の武具を身に着ける」(エペソ人への手紙6章10-20節)
- 木村太
- 2020年7月19日
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私たちが生きているこの世界において、平和と平安に満ちている神の国(天の御国)に一番似ている場所は教会です。なぜなら、神の国と同じように教会にはキリストによって罪が赦され、神を喜び、神のために生きようとしている人が集まっているからです。ただし、私たちが教会で過ごす時間はほんのわずかでしかありません。礼拝だけを取り上げれば1週間の中で1時間半ほどですから、人生のほとんどはキリスト教とは違う価値観にさらされています。だから、日々の生活の中で信仰が試されたり、揺さぶられたりするのです。そこで今日はエペソ人への手紙の締めくくりから、私たちが生きているこの世界で信仰を保つ方法について聖書に聞きます。
Ⅰ.目に見えない悪い霊がクリスチャンを信仰から引き離す(6:10-13)
パウロは手紙の終わりに、これまでの内容とは一変した勧めをします。ここまでパウロは神の作品にふさわしい生き方について、あるいは教会の形成について述べてきました。それを受けて、読者はいよいよその教えを実践してゆきます。しかし、彼らにとって現実の世界は神を証する前に信仰を維持することが困難でした。なぜなら、キリストを信じる者いわゆるクリスチャンの数は少数であり、さらには「ナザレ人の一派(使徒24:5)」と呼ばれているように宗教とさえ見なされていなかったからです。そのためパウロは、この世界では信仰を妨げるものが存在すること、そしてそれらに勝つ方法を手紙の最後で教えようとしたのです。少数派という意味では、現代の日本におけるクリスチャンも彼らと同じ状況と言えます。だから私たちにとってこの教えは重要なのです。
10-11節を見ると、パウロはクリスチャンの敵である悪魔に対抗するには主の大能の力、すなわち主の権威が必要だと言っています。悪魔は策略を練ってほえたける獅子のように(Ⅰペテロ5:8)、クリスチャンを神あるいはキリストから引き離し、聖霊による気づきや希望を奪おうとします。彼らは私たちを信仰から離れさせようと常に企んでいます。
ここでパウロはクリスチャンの戦いをこう解説しています(12節)。「血肉」とは人間を意味しますから、我々の戦う相手は人間ではなく、「暗闇の世界の支配者」つまり悪霊ともサタンとも言われる悪魔です。しかも彼らは霊の存在ですからその姿を見ることはできません。私たちは物事がうまくいかなかったり、人間関係が悪化したり、病気や事故など災いが続くと信仰がくじけそうになります。私たちの目には現実の出来事しか見えませんが、それを支配して信仰に揺さぶりをかけているのが悪魔なのです。旧約聖書のヨブ記におけるヨブへの災いはその典型でしょう。また、サウルとダビデの関係に亀裂を入れたのも「わざわいの霊」でした。私たちの相手は目に見えない悪魔だから、全ての支配者である主の権威が必要なのです。
そして、主の力を身に帯びる手段が11,13節「神のすべての武具を身に着ける」になります。パウロは13節「邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように」と武具を身につける理由を示しています。邪悪な悪魔の攻撃から身を守り、悪魔の戦いに勝利し、神を証する役割を成し遂げるためには、神の全ての武具をいつも身に着け神の権威を身に帯びるのです。見方を変えれば、人間の能力では悪魔の策略にとうてい太刀打ちできないのです。
私たちは悪魔の標的であり信仰の妨げを受けます。だから様々な出来事があったときに、神を疑ったり、信仰に失望したり、「信仰があるからこんなことになる」と怒りを覚えたりするのです。でもそのときに気づきましょう。「これは出来事をきっかけにして、自分を神から引き離そうとする悪魔の働きだ。私の力ではなく神の力によって乗り越えることができる。」ということです。私たちは悪魔の存在を否定したり、悪魔の働きを無視したり、悪魔の力を侮ってはいけません。けれども過度に恐れてもなりません。なぜなら、神の権威によって私たちは絶対に勝つことができるからです。
Ⅱ.悪霊(悪魔)との戦いには神の全ての武具が必要(6:14-17)
さて、パウロはクリスチャンが身に着けるべき神の武具を具体的に解説します。この「すべての武具」ということばはローマ兵士の完全武装を意味し、パウロは一つ一つの武具に対して神の性質に由来するものを当てはめています。おそらく、パウロは身に着けるべき性質を考えたときに、自分をいつも監視しているローマ兵を見て、このたとえを思いついたのでしょう。それぞれの武具について見てゆきましょう。
①腰には真理の帯を締める:着物を着た人が自由に動くためには帯をしっかり締めなければなりません。つまり、クリスチャンの活動はすべて神の真理に基づくのです。換言すれば、神のことばに基づくのです。
②胸には正義の胸当てを着ける:致命傷になりやすい胸部を胸当てが守ります。神の正しさを身につけていれば悪がやってきても跳ね返すことができ、信仰が大きくぶれません。
③足には平和の福音の備えをはく:履き物によって足下は堅固になります。平和の福音の備えとは「キリストが平和と平安を与える」という確信を具備することです。悪魔はキリスト以外のもので平和・平安・喜び・満足に引き込もうとします。
④信仰の盾を取る:この盾は大盾であり体全体を攻撃(剣、矢、槍など)から守ります。神、キリストを一つも疑うことなく信じ切れば悪魔の恐ろしい攻撃に揺るがされません。帯や胸当て、履き物も必要ですが、悪魔の攻撃を防ぐために最も必要なのは信仰です。
⑤救いのかぶとをかぶる:頭をおおうかぶとは兵士に安心を与えます。それと同じように「キリストによって救われた」という確信が、人に神の助けという安心を与えます。
⑥御霊の剣、すなわち神のことばを取る:パウロの語る武具の中で剣は唯一攻撃の武具であり、これで相手を倒すことができます。つまり、神のことばが悪魔を退散させる唯一の方法なのです。キリストは荒野においてことばで悪魔を追い払い、また伝道においてはことばで人から悪霊を追い出しました。神のことばには力があるのです。
ここで大切なのはこれら6つの神の武具を常にすべて身に着ける、ということです。パウロは「神のすべての武具を身に着けなさい。(11節)/神のすべての武具を取りなさい。(13節)」と繰り返しています。つまり私たちが神の権威によって悪魔に勝つためには、完全武装しなければならないのです。それほど悪魔の妨げは強いのです。真冬の北海道で外に出てゆくときに、私たちは完全に防寒します。それと同じように、生涯にわたって悪魔の誘惑に揺るがされないためには神の武具の完全武装が必要なのです。そのためにも、パウロのようにみことばを蓄えていつでも取り出せるようにすること、そして神のみわざを体験してますます神への信頼を深めることが大事です。
Ⅲ.戦いに勝つためには祈りによって神の力を得て、仲間との結束を保たなければならない(6:18-20)
パウロは神の武具に加えてもう一つの備えを勧めます(18節)。先ほど申しましたように、信仰を妨げる悪魔との戦いには神の力が欠かせません。同時に、現実の出来事の背後にある彼らの存在や動きに気づくことも必要です。目に見えない存在ですから、「絶えず目をさましていて」のごとく油断せず、祈りによって神からの助け、すなわち聖霊から与えられる気づきを求めるのです。
また「すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。」ともパウロは言います。クリスチャンの戦いは神の家族というチームでの戦いです。パウロはこの手紙の中で何度もキリストにある一致を訴えています。一人一人はそれぞれ弱さがありますが、一致協力すれば互いの弱さを補い合えます。だから、すべての仲間の奮闘や苦闘に目を止めて、すべての仲間のために神の助けが速やかにあるように根気よく祈るのです。一人で苦闘しているように思えますが、見えないところで仲間が支えているのです。19-20節では、パウロ自体も「自分の働きのために祈ってください。」と願っています。あの大使徒であるパウロでさえも仲間の支えを必要としているのです。神のことばに悪魔を退散させる力があるように、互いのたゆみない祈りには、他者に励ましと安心を与える力があります。
キリストはあらゆる権力を越えたお方です。悪魔もキリストに勝つことはできません。しかし、キリストが再び来られる日まで、悪魔の働きはこの地上にあります。私たちがキリストのために生き、キリストを証ししようとするのを全力で阻止しています。悪魔の作戦は人と人との関係にヒビを入れ、平和を壊し、一致を分断し、孤立させて神から引き離すのが常套手段です。しかも、私たちに大きなダメージを与えやすいところを狙ってきます。例えば夫婦、親子、学校、職場、教会といった人間関係、あるいは金銭、健康といった生活の要などがそうです。そして神以外のものに安心や喜びや満足があるように見せて、信仰から引き離してゆくのです。
今、新型コロナウィルス感染防止のため、全国の教会では集会を休会したり、会堂での礼拝を取り止めるなどの措置を取っています。互いに顔をあわせ言葉を交わし、互いに祈るという直接的な関わりが少なくなり、悪魔がつけ込みやすい状況になっています。でも、心配は不要です。常に父に従ったキリストが悪魔の誘惑をすべて退けたように、いつも神のすべての武具を身に着け、互いに祈り支え合えば、悪魔の攻撃を退け彼らを遠ざけることができます。悪魔の働きは狡猾で強力ですが、キリストに結びついている私たちはそれに勝つことができるのです。
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