今日はペンテコステ(聖霊降臨記念日)です。こんにち、クリスチャンと教会とは全世界に広がっています。これらは、キリストの弟子たちに聖霊が下ったことから始まりました(使徒1:8)。それで、キリスト教では聖霊が下った出来事を記念してお祝いするのです。また、弟子たちに聖霊が下ったのはキリストのよみがえりから50日目でした。ギリシャ語では「50番目」を「ペンテコステ」と呼ぶので、聖霊降臨日をペンテコステと言うのです。
今日は、復活したキリストが語った聖霊の約束から、聖霊によって私たちが何のためにどのように変えられたのかを見てゆきましょう。
Ⅰ.聖霊のバプテスマは神の国(天の御国)のためにある(1:3-7)
イエスは十字架刑で死んで墓に葬られ、死んでから3日目に墓からよみがえりました。そして天に昇られるまでの40日間、大勢の人々の前に姿を現しました(3節)。しかも、会話をしたり食事をするなど、人との交わりを持ちました。これによって死からのよみがえりが疑う余地のない事実となりました。
よみがえった後、イエスが弟子たちに語っていたのは「神の国」についてでした。イザヤ書をはじめとする預言書にあるように、メシア(救い主)が現れて神の国が建てられる、という内容です。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1:15)」とイエスが語ったように、「神の国」はイエスのメッセージの中心でした。
ある時、イエスは弟子たちにこのように命じました(4-5節)。十字架にかかる前、イエスは「私が去った後に助け主すなわち聖霊が父から遣わされる」と弟子たちに語りました。(ヨハネ14:26,16:7)ですから「わたしから聞いた父の約束」とは、助け主とも呼ばれる聖霊が父なる神から与えられる、ということがらです。
そして、聖霊がどのように与えられるのかを、イエスは「聖霊によるバプテスマ」と言いました。バプテスマのヨハネは罪を告白し悔い改めた証として水のバプテスマを授けていました。でもこれはイエスを受け入れるための準備であって、イエスと結びついて新しく生まれ変わってはいません。それでイエスは聖霊のバプテスマによって新しく生まれ変わることを教えているのです。ただし、弟子たちは「聖霊によるバプテスマ」を初めて耳にしますから、何のことだかわからなかったでしょう。
そこで、弟子たちはこう尋ねました(6節)。弟子たちは聖霊のバプテスマを受ける時が、助け主が与えられる時だと理解しました。それゆえ彼らは、メシアによって神の国が建てられるという預言があり、イエスというメシアが来られ、そして聖霊という助け主が与えられる、これらから「聖霊のバプテスマを受ける時こそ神の国ができる時だ」と連想したのです。死をも支配するイエスの力と助け主の力がローマ帝国の支配を終わらせ、あのダビデのときのように、今度はイエスを王としてイスラエルが再び神の国となるのを期待したのです。
しかしイエスはこう答えました(7節)。イエスは神の国がいつできるか、あるいはどんなきっかけなのかは人にはわからない、と答えます。なぜなら、神の国は神の支配の下にあるからです。もっとも、イエスが言う神の国はこの地上世界が滅んだ後にやって来る天の御国のことであり、弟子たちの考えている「帝国」のようなこの世の国家とは全く違います。
ただここで注目したいのは、イエスが「神の国は神の定める時」としか答えていないところです。視点を変えれば、聖霊によるバプテスマと神の国の再興との関係をイエスは否定していないのです。この時点では、どのように関係しているのかまだ明らかではありません。けれども、神の国のことを語ったイエスが「聖霊のバプテスマを待ちなさい」とだけ弟子たちに命じていることからも、聖霊が神の国と関係しているのは明らかです。
聖霊は私たちに罪を気づかせたり、聖書から真理を理解させたり、善への意欲を与えたりなど、私たちが神の栄光を放てるように導きます。と同時に神の国の完成につながっているのです。
Ⅱ.聖霊のバプテスマを受けた者はイエスの証人となり、この地上で神の国を広げる(1:8)
さらにイエスはことばを続けます。8節「聖霊があなたがたの上に臨むとき(人に下った)」が「聖霊のバプテスマを受けるとき」です。ただし、聖霊はイエスが父にお願いし、父が人に遣わしますから、弟子たちはいつそれが来るのかわかりません。しかも聖霊は目に見えませんから、どのようにして下っているのかもわかりません。
けれども聖霊のバプテスマを受けた弟子たちには目に見える形であることが生じます。それが、「力を受け、そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となる」です。「わたしの証人」とは「イエスのことばは真実です。/イエスの死と復活は事実です。/イエスは神の子、救い主です。/イエスを信じる者は永遠のいのちを得ます。/私はイエスのすべてを信じます。」と人前で証言する人を言います。それゆえ力を受けるとは、それまでイエスを証言できなかった人が証言できるようになることを言うのです。
つまり、聖霊のバプテスマを受けた者はイエスを証言できるように変えられるのです。「イエスは神の子、救い主です。/イエスを信じる者は永遠のいのちを得ます。/私はイエスのすべてを信じます。」これを誰にでも明らかにできる有様が、聖霊が下った証拠、すなわち聖霊のバプテスマを受けた証拠です。言い換えれば、聖霊のバプテスマなしでイエスを証言するのは不可能なのです。
私たちは洗礼を受ける前に複数のクリスチャンによって信仰告白が確かめられます。多くの教会では牧師を含めた役員会がその場になっていると思います。さらに、洗礼式においては誓約という形式で教会員の前でキリストを証言します。ですから、私たちはすでに聖霊のバプテスマを受けているのです。
さて、ここで大切なことを申し上げます。それは、イエスの証人によって神の国が広げられることです。最初に申したように、イエスが弟子たちと一緒に活動していたときのメッセージは「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」でした。「イエスを信じれば救われる」この福音が神の国を広げてゆきます。なぜなら、福音を聞いてイエスを信じて救われた者が神の国の住人となっているからです。
天地創造において、この地上は義、聖、善、愛の世界でした。しかし、最初の人アダムとエバに罪が入って以来、この世は不義、汚れ、悪となり、愛は失われ、神の怒りの対象となりました。神の国は破壊されたのです。ところが、神は人を愛するが故にそのひとり子イエスを罪をなだめるいけにえとしてささげてくださいました。それで、イエスを信じる者は滅びから救われるのです。そして、滅びから救われた者は神への感謝、喜びを動機として神に従うから、その人から義と聖と善と愛が放たれるのです。これこそが、神が初めにお造りになった神の国の回復なのです。
イエスは聖霊のバプテスマを語ったのち、天に上げられました(使徒1:9)。再び地上に来られるときまで、「イエスは神の子キリストである」と地上で伝えてゆくのは、聖霊のバプテスマを受けたイエスの証人です。つまり、「福音を伝えて、イエスを信じる者が起こされ、神の国が広がる」この働きをイエスは弟子たちに委ねたのです。現実には、イエスが「エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」と約束したように、弟子たちの証言はエルサレムから始まり、パレスチナ地方全体に広がり、さらに地中海沿岸沿いに広がってギリシャやローマにまで至っています。
聖霊のバプテスマを受けた弟子たちがイエスを証言し、その証言によってイエスを信じる者が広がり、神の国の住人は増え広げられています。こんにち、弟子たちに下った聖霊によってイエスの証言、すなわち福音は全世界に伝えられ、全世界に神の国の住人がいます。私たちもその一人であり、そして私たちもまた神の国を広げる役割を担っているのです。
弟子たちはイエスの逮捕と十字架刑を見て、エルサレムの人々、特に律法学者や祭司たちを恐れました。4節「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」ということばからすると、エルサレムからこっそり逃げたい気持ちもあったのかもしれません。そんな彼らに「エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」という約束は驚きだったでしょう。人前に姿をさらすことも恐ろしいのに、あのイエスを証しするのですから、聖霊の下る前の彼らには決してできない役割です。でも、使徒の働きを見ると、聖霊が下った後、ペテロやヨハネたちが大胆に堂々とあのエルサレムでイエスの死と復活を証言しています。まさにイエスのことばどおりになり、使徒たちはイエスに代わって福音を広げ、神の国が広げられています。神の国の回復は聖霊が下った者たちが担っているのです。
この聖霊が私たちにも下っていて、そして今も必要に応じてイエスが聖霊を私たちに遣わし、私たちに働いています。私たちも「死んでよみがえったイエスは救い主です。」と聖霊の力によって明らかにできるのです。ことばだけではありません。辛さや困難や苦しさの中にあっても落ち着いて安らいでいる姿、さらには決して喜べない状況でも喜びと希望を持っている姿、こういった生き様もイエスを証言しているのです。
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