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  • 木村太

5月5日「走るべき道のり」(テモテへの手紙 第二 4章1-8節) 

■はじめに

 今から約100年前の伝道者オズワルド・チェンバーズはクリスチャンの模範としてパウロについてこう書いています。「パウロは、コンサートの聴衆にはいっこうに興味がなく、師に認められれば事足れりとする音楽家に似ている。」音楽家は聴衆の心が感動で満たされるのを見て喜びます。聴衆が残念な表情で会場を後にしても、自分の師匠が喜んでくれればそれでいい、とはなりません。けれどもパウロはそうではなく、聴衆の反応を全く気にせず師匠の反応をいつも気にしています。このたとえのごとく、パウロはキリストを伝える人生において、人が喜んだとか何人救われたのような結果を気にせず、「自分の師である主に喜ばれること」をどんなときも追求しました。そこで今日は、クリスチャンの使命について聖書に聞きます。

 

■本論

Ⅰ.パウロは、キリストが再び来るときまで、どんなときも自分の務めを果たすようにテモテに命じた(4:1-5)

 手紙の前半でパウロは、世の終わりの時代すなわちキリストが再び来るのを待っている時代において、信仰を保つ難しさをテモテに教えました。と同時に、信仰を保つための秘訣を伝えました。その上でパウロは教会でのテモテの果たすべき役割を命じます。

 

 キリストが再びこの世に来られた時、神を裁判官とする最後の審判が行われます。そこでは「この人は私を信じました」というキリストの証言によって、人は生きている人と死んだ人、すなわち天の御国か永遠の滅びかに分けられます。パウロは、近い内にそのときがやって来ると確信し、同時に自分の死が近いと察したから、重大かつ緊張感を持って2つのことを命じています(1節)。

 

①宣教:2節前半

 人が救われるためには「キリストによる救い」つまり福音を伝えなければなりません。ただし、「時が良くても悪くても」とあるように、自分にとって伝えやすい状況に左右されず、語れるチャンスや語る必要があるときには福音を伝えるのです。私たちは相手の様子を見たり、あるいは予想して伝えるかどうかを判断してしまうときがあります。例えば、喜んでいるとか耳を傾けている、反対に憤慨しているとかだれも耳を傾けていないとかで、どうするか考えます。でも神はすべての人の救いを望んでおり、さらに審判の時が迫っているのですから、自分の都合を優先してはいけないのです。

 

②戒規:2節後半

 パウロはキリストの教えから逸れたクリスチャンに対して、「責め=懲罰、戒め=叱責、勧め=訓戒(教え諭すこと)」といった、いわゆる教会の戒規を命じています。しかも、一律に罰するのではなく、懲罰、叱責、訓戒のように罰の重さと手順をふまえることを教えています。ただし、「忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら」とあるように、どんな状況でも相手の状態に配慮し、みことばを用いて戒めることが重要です。自分の感情や自分の正義を振りかざすのは避けなければなりません。

 

 ここでパウロは宣教と戒規を命じる理由をこう語っています。キリストを信じていても、正しい道から外れている者にとっては、健全な教えすなわち神が定めたことを言われて責められるのは嫌なものです。だからクリスチャンであっても自分にとって都合のよい話をする教師を重宝し、神のことばを自分にとって都合よくなるように解釈してもらうのです(3節)。正しい道から逸れている者が、神のことばで戒められずに、都合の良い言葉で教えられるのですから、ますます真理から遠ざかります(4節)。

 

 こういった人々や雰囲気が広がると、福音を語ったり教会を正しい方向に導くのが難しくなります。それでパウロはテモテに牧師としての心構えを重ねて命じます(5節)。「慎んで」とは「どうでもいいや」のような投げやりにならない、あるいは「どうせ」のような腐ることにならない姿勢を言います。教会の人々が正しい教えに耳を貸さないばかりか都合の良い話に傾いたとしても、目の前の状況に振り回されたり悲嘆することなく、神から与えられた務めを全うするのが大事なのです。

 

 テモテに対するパウロの要求には厳しさがあります。2節「時が良くても悪くてもしっかり/限りを尽くし/絶えず」また5節「どんな場合にも/十分に果たす」とあるように、自分の都合とか気持ちは後回しです。なぜなら、次の瞬間にもキリストが再びこの地上にやって来て、最後の審判を受けるかもしれないからです。キリストがやってきたときに「私はキリストを救い主と信じます」と告白しても、永遠の滅びを免れません。事は「滅びか永遠の命か」を左右し、その時がいつ来るかわからないから、「時が良くても悪くてもしっかり」福音を語る必要があるのです。相手のいのちに関わることという認識が大事です。

 

Ⅱ.パウロは、務めを果たした者に神が義の栄冠を与えると証しした(4:6-8)

 さてパウロは、務めを果たす厳しさと同時に希望をテモテに伝えます。6節でパウロは「(神への)注ぎのささげ物/世を去る時」と語り、自分の死が近いと確信しています。自分を監視している兵士の会話や様子で死刑を察したものと思われます。それでパウロは自分の人生を振り返るのです。

 

 パウロは「勇敢に戦い抜いた/走るべき道のりを走り終えた/信仰を守り通した」と証しします(7節)。パウロはどんな状況でも、どんなに辛い中にあっても、キリストから委ねられた使徒の務めを全うしました。「時が良くても悪くてもしっかりとみことばを宣べ伝える。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧める。どんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たす。」使徒の働きを読めば明らかなように、テモテに命じたことを自分は成し遂げたとパウロは確信を持って告白します。ただし、パウロは「何人救ったとかどこどこの教会を建てた」といった働きの結果を語りはしません。あくまでも神に対して自分がどう生きたのかが大事なのです。ここにキリストへの誠実さとへりくだりが現れています。

 

 「勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通した」人生にパウロは希望を見出しています(8節)。「あとは...用意されているだけです。」とあるように、パウロは神に従った人生には「義の栄冠」がすでに用意されていると確信しています。「義の栄冠」とは、神が正しいと認定した人に与える栄誉であり、人にとって最も喜ばしいご褒美です。

 

 なぜそう確信できるかと言えば「従えば祝福を背けば呪い」の約束に従って神が正しく判断するからです。そしてそのことを明らかにしたのがキリストだからです。完全に神に従ったキリストは肉体が滅んでも、新しいからだによみがえり、天の御国で神の右の座という栄誉を与えられました。パウロは、使徒としての働きを全うしたと自信を持って語れるほど神に誠実、忠実でした。だからパウロはキリストと同じように、天の御国で「よくやった。忠実なしもべだ。」という栄誉が確定しているのを喜んでいるのです。

 

 ただしこの「義の栄冠」はパウロだけに限ってはいません。「私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。」とあります。主の現れ、すなわちキリストの再臨を待ち望んでいるクリスチャンは、神の前にやましいところを持たない者です。信仰故の苦しみ辛さを忍耐し、神から委ねられた役割を果たした者は全員、義の栄冠が待っています。これこそが神に従って生きるクリスチャンの希望なのです。

 

 この世で栄冠を受けた者といえば、莫大な富を築いた人、歴史に名を残すような偉業を成し遂げた人、万人から喜ばれている人といったところでしょうか。ただ、今の日本では「成果を上げることが良いこと」という風潮ですから、何の成果も残せなかった人には栄冠は決して与えられません。でも、成果で評価していたら、最終的にユダヤ人から捨てられたキリストは栄誉なんてもらえないでしょう。あるいは、宣教の難しい所でキリストのために人生を捧げたとしても、キリストを信じる人が一人も起こされなかったら、その人はほめられることはないでしょう。

 

 しかし神はその人の成果で評価しません。神は「何を残したのか」ではなく「神に対してどう生きたのか」を見ています。神に従った人生に神は義の栄冠を用意しているから、私たちは自暴自棄にならず腐らないで「勇敢に戦い抜き/走るべき道のりを走り終え/信仰を守り通す」ことができるのです。

 

■おわりに

 オズワルド・チェンバーズはこう言います。「私たちを失敗させるのは、霊的経験の不足ではない。主に喜ばれるという理想を正しく保つ努力が欠けていることにあると言える。」私たちは「あなたは素晴らしい/立派ですね」のように実感できる栄誉が大好きです。反対に「無視/拒否/侮辱」のように貶められることは避けたいです。だから忖度したりおもねる心が生まれてきます。まして、主の喜びは目に見えないし義の栄冠は将来のことですから、なおさらです。

 

 私たちは本質的に、主の喜びのためにという理想すなわち義の栄冠を見失いがちなのです。それゆえ、良い時を選んだり、あるいはしっかり尽くさず手を抜いてしまうことがあります。「いつもやっているから十分準備しなくてもいいだろう/いくら続けても思い通りの結果が出なばかりか、むしろ後退しているから止めよう/厳しいことを言わなければならないが、怒られたり教会を離れてしまうかも知れないから止めよう」神は時が良くても悪くてもしっかりやることを喜びます。キリストも十字架という神から委ねられた使命を果たしました。そのキリストが私たちの内におられるのですから、私たちも神から委ねられた働きを全うできるのです。その人生には、あのパウロと同じように聖霊の助けがあり、天では義の栄冠が待っているのです。

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