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木村太

5月7日「キリストによって神に近づく」(ヘブル人への手紙10章19-25節)

■はじめに

 日本では豊作や大漁、商売繁盛、無病息災といった願い事をするときに大抵は神社に行きます。個人的な場合はお賽銭を入れて、柏手を打ち礼をして神に願います。また、団体だったり厄払いの時では神主に必要な儀式をしてもらいます。自宅に神棚を設けている人であれば神棚に向かって願い事を捧げることもあります。一方、キリスト教ではいつでもどこでも神に祈ることができます。神社や神棚のように特定の場所に行く必要はありません。定められた作法もありません。ですから、教会という建物も神殿や幕屋のように神が来られる特別な場所ではなく、人が集まるために必要な場所と言えます。なぜ、そんなことが可能なのでしょうか。そこで今日は、キリストによって神の前に出ていることを聖書に聞きます。


■本論

Ⅰ.キリストを信じる者はキリストという垂れ幕を通して神の前に出られる資格を持っている(10:19-21)

 この手紙はユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれました。当時、彼らはキリストを信じているが故に迫害を受けていました。彼らはキリストが迫害を終わらせると期待して信仰を保っていましたが、一向に収まらないので、信仰から離れ元のユダヤ教や御使い礼拝に向かう者が出ました。神殿で儀式をやれば直接神に祈りが届いているように思えたり、御使いの像を家に置けば安心が目に見える形になるからです。


 そんな読者に対して著者は律法による初めの契約(旧約)よりもキリストによる第二の契約(新約)の方が遙かに優れていると語りました。なぜなら、いけにえや祭司といった罪を赦してもらうための手段において、キリストによる罪の赦しが完全で永遠だからです。その上で著者はキリストを救い主と信じた読者が神から見てどんな立場になっているのかを明らかにします。


 著者は「キリストという大祭司がご自身をただ一度神にささげただけで罪は完全に永遠に赦される。それゆえ律法による救いの時代は終わり、キリストによる救いの時代に入った。」とすでに語りました。にもかかわらず律法で定められた聖所での礼拝を用いたのは、ユダヤ人にとって身に染みついている物事でたとえた方が分かり易いからです(19-21節)。


 キリストを救い主と信じた者はキリストの血(19節)すなわちキリストといういけにえとキリストという偉大な大祭司によって(21節)大胆に聖所に入れます。律法では聖所は祭司しか入れません。もし、一般のユダヤ人が入れば死に至ります。けれどもキリストによって罪がない者と神が認めているから、びくびくや恐る恐るでなく堂々と聖所に入れるのです。つまり、律法の規定に則らなくてもクリスチャンは神の前に出て神と対話できる資格が与えられているのです。しかも、至聖所は神の臨在を象徴するものですが、新しい契約では神の家を治めるキリストが主(あるじ)である神に取り次いでいます(21節)。ですから、クリスチャンは直接神に謁見できるから、こちらの方がはるかにまさっているのです。


 さらに著者は聖所に入る様子をこう言います(20節)。聖所に入れるのは祭司だけであり、至聖所にいたっては大祭司しか入れません。それを目に見える形で表しているのが聖所に入るための第一の垂れ幕と至聖所に入るための第二の垂れ幕です。見方を変えれば、垂れ幕は神に近づける聖さを持っているかどうかのチェックポイントと言えます。祭司たちは儀式的に聖い者と定められているからここを通過できます。しかし一般人は聖くないから通れません。


 けれども、今やキリストといういけにえと大祭司が垂れ幕となっているので、キリストを信じた者はそこを通過できるのです。しかも、垂れ幕を通って神に近づく道は謁見の道であると同時に、「生ける道」とあるように永遠のいのちに至る道でもあります。そのことをキリストは前もって弟子に語りました。「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(ヨハネ14:6)」


 聖所の垂れ幕もキリストという垂れ幕も神と人との間に設けられています。ただし、役割は正反対です。聖所の垂れ幕は罪ある人間が神に近づいて死なせないためのものです。一方、キリストの垂れ幕はそれを通って神のところで永遠に生きるためのものです。ここで大事なのは、この垂れ幕は神が我が子のいのちという犠牲を払ったものであり、それを引き受けたキリストの苦難でもあるということです。今私たちはいつでもどこでも神の前に出て、神に直接語ることができます。その時、神のあわれみゆえにキリストという垂れ幕を通ったことを忘れてはなりません。


Ⅱ.キリストを信じる者は「神の前に出る」という特権を与えられているから、互いに励まし合ってキリストに留まり、神のために生きる(10:22-25)

 手紙の著者は読者の立場を明らかにした上で、キリストに留まるためにすべきことを勧告します。勧告は大きく分けて2つあり、一つは神と自分との関係すなわち神に対してどうすべきかであり(22-23節)、もう一つは自分と他者との関係すなわち教会の兄弟姉妹に対してどうすべきかです(24-25節)。


 著者が最初に勧めたのは「神に近づいて、希望を告白し続ける(22-23節)」です。「心に血が振りかけられて... からだをきよい水で洗われ(22節)」と語るのは、神の前に完全に聖くなっている様をユダヤ人に理解しやすくするためです。つまり、神の前に出ることのできる資格があるのだから、その資格をまず活かすのです。


 そして神の前でなすことはささげ物や儀式ではなく、希望を告白し続けることです(23節)。「希望を告白し続ける」とは永遠のいのちとこの世での平安・平和を神が必ずなしてくださる、このことを神の前にはっきりと宣言するのです。なぜなら、「約束してくださった方は真実な方ですから(23節)」とあるように、神は約束したことがらを忘れたり、怠ったりしないからです。詩篇や預言書で語られた神のことばがキリストの十字架での死とよみがえりでその通りとなっているのが何よりの証拠です。


 ユダヤ人読者のように人は苦難が続くと神から離れて他の何かに頼りたくなります。けれども人にとっては神のそばにいることが何よりも安心なのですから、神の前に出ているという意識を持って、神への信頼を持ち続けることが迫害のような苦難を乗り越える秘訣なのです。ただし、「全き信仰をもって真心から」とあるように、何があっても決して疑わず、ぶれないでいることが肝心です。そのためにも「本来神の前に出られない者がキリストという垂れ幕で出られるようになった」これが自分にとってどれほど良いことなのかを心に刻む必要があります。


 次に他者との関係について著者はこう勧めます(24節)。「愛と善行を促す」とは神と人のために生きようとする意欲を湧かせる様を言います。キリストを救い主と信じる者は何ものにも代え難い罪の赦し・永遠のいのちをキリストの垂れ幕を通して神から受け取りました。つまり、キリストの時代は神から祝福を得るために何かをするのではなく、もうすでに得ているのだから神そのものや神がお造りになった人のために生きるのです。その代表がイエス・キリストです。


 ただし、人は目に見える物に安心を求めやすい弱さが未だあります。だから「互いに注意を払おう」とあるように、教会のメンバー同士互いに心を配り、神への信頼が弱まらないようにするのです。それの具体的内容が25節です。「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず」とあるように、キリストを信じても意味がないという思いからキリストを離れてゆく人たちに引き込まれないようにしなければなりません。先ほど申しましたように神のそばにいることが何よりも人の安心になるからです。ですからキリストを中心として集まり、互いに慰めたり励ましたりするのです。


 そして「その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」これが人にかける言葉の中心です。その日すなわちキリストが再び来られて神の審判があり、クリスチャンは無罪となって天の御国に入る日は刻一刻と迫ってきて、しかもそこに入るのがすでに決定しています。だから、それを希望としてキリストに留まろう、という励ましです。マラソン大会でゴール目前にしてレースをあきらめようとしている人に「ゴールは目の前だから一緒に行こう」という励ましに似ています。クリスチャンはキリストという垂れ幕を通して神に近づけます。このすばらしい特権を神からすでにいただいているのですから、キリストのように神を愛し人を愛する人生になるのです。


■おわりに

 ユダヤ人が先祖代々守ってきたユダヤ教においては、彼らは神からのわざわいを逃れたり、祝福を得るために律法を守ってきました。その中心が聖所での礼拝です。それゆえキリストを信じても迫害から逃れられないからユダヤ教に戻ろうとするのです。あるいは世間で流行している御使い礼拝に魅力を感じてそちらに行きたくなるのです。日本人で言えば「やっぱり神社でないと願いは届かない」といったところでしょうか。


 しかし、私たちはすでにキリストによって永遠のいのちという最も価値のあるものをもらっています。それに加えていつでもどこでも神の前に出て自由に語り、神からの助けを得ることができます。本来は神の怒りを恐れて神の目を避けたかったのに、今では自分から神に近づけるのです。それがどれほど幸いなのかを日々確かめましょう。

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