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木村太

5月8日「終末の時代を生きる-キリストゆえの試練-」(ペテロの手紙 第一 4章12-19節)

■はじめに

 現代の日本では思想信条の自由を憲法が保証していますから、キリスト教の信者という理由で逮捕や迫害あるいは公に差別を受けることはありません。ただし、他の宗教の葬儀や行事に際して「どう対応すればよいのか」といった悩みや、「信仰を貫こうとするときの不安や恐れ、恥ずかしさ」という感情は現代でもあります。日本においてクリスチャンは圧倒的な少数者ですから、このような出来事は誰にでもあるのです。今日は、キリストゆえの苦難について聖書に聞きます。


■本論

Ⅰ.神の栄誉という喜びがあるから、火の試練を忍耐できる (4:12-13)

 この手紙でペテロは「善を行って受ける不当な苦しみを神は喜ぶ」とすでに語っています。ここで再びクリスチャンの苦難に触れるのは、キリストの再臨を待っている終末の時代においてキリストを証ししなければならないからです。ただしそれには大変な試練を伴うから「愛する者たち」ということばでペテロはクリスチャンに覚悟と励ましを与えています(12節)。


 ペテロはキリストゆえの苦難を「燃えさかる試練」と言います。これは炎の熱さから一瞬たりとも逃れられないような苦しみであり、決して軽いものではないという忠告です。しかも、この世では間違いなくあるから「何か思いがけないことが起こったかのように不審に思うな。」と命じるのです。


 なぜなら、キリストに従った考えやふるまいをすべての人が理解したり受け入れるとは限らないからです。場合によっては拒否や反発もあります。キリストに基づく生活には辛さがあるから貫くには葛藤が生まれ、勇気が必要です。また国によっては逮捕や処罰のような肉体の苦痛もあるでしょう。キリストに従った生活には、逃げ出したくなるような試練を伴うのです。


 ただし、この燃えさかる試練は単にクリスチャンを苦しめるためではありません。12節「あなたがたを試みるために」とあるように、この試練はキリストにとどまれるかどうかのテストなのです。かつてペテロが「イエスの仲間ではないかと疑われた」出来事と同じです。キリストとは無関係なふるまいをすれば、燃えさかる試練には遭いません。けれども、自分のいのちを差し出したキリストを見捨てることになります。キリストを見捨てるのかそれともキリストに従うのか、まさに信仰が問われるのです。別な見方をするならば、平安を約束したキリストを信頼するかどうかが問われるのです。イエスとの関係を3度否定したペテロだからこそ言えることばです。


 それでペテロは燃えさかる試練についてこう言います(13節)。キリストゆえの試練は辛さではなくて喜びになります。なぜなら「キリストの苦難にあずかる」とあるように、キリストの受けた苦しみを、キリストと一緒に担っているからです。この地上で最も大きな試練を受けた方がキリストです。福音を伝えて人を滅びから救うために、ののしられ、さげすまれ、むち打たれ、永遠に父なる神から見放されるような絶望を覚え、そして十字架で死なれました。つまり、キリストもクリスチャンも福音を伝えるために苦しんでいるから、燃えさかる試練にある者はキリストと同じ苦しみを21世紀の日本で受けているのです。


 それゆえキリストの栄光が現れるとき、すなわち再臨においてキリストと共に苦しんだ者を神はほめたたえるのです。「よくやった忠実なしもべだ」この神のほめことばこそが私たにあふれるほどの喜びとなるから、私たちは苦難を喜びとして受け取ることができ、この試練というテストをクリアできるのです。


Ⅱ.キリストにより苦しんでいる者の上には神の力が働く(4:14-16)

 先ほどペテロは、試練が「再臨の時に受けるすばらしい栄誉/この上ない喜び」となると教えました。その上でペテロはキリストの苦難にある者は幸いだ、と励まします(14節)。「キリストの名のためにののしられる」とあるように、キリストを証しすることによって、けなされたり、悪口を言われたり、バカにさることがあります。これも私たちにとって燃えさかる試練であるけれども、それを受けている者は幸いとペテロは言うのです。普通に考えたら全然幸いではないですよね。


 なぜ幸いなのか、その理由が「栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださる」からです。「栄光の御霊、神の御霊」とは、神がキリストを通して与える助け主なる聖霊を指しています。キリストを救い主と信じている者は、キリストの教えをはじめとして聖書のことばは真実だ、と直接的・間接的に語っています。それはイエスのことばを借りれば、本当の罪とは何か、本当の正しさとは何か、本当のさばきとは何かを世の中に明らかにしているのです(ヨハネ16:8)。だから「栄光の御霊、神の御霊」である聖霊が助けてくださるのです。例えば、キリストを証しするための勇気、からかわれたりバカにされるという不安や恐怖の払拭、平和を目指しながら証しするための知恵や語り方などが聖霊によって与えられるのです。神はキリストゆえに苦しんでいる者を助けます。だからその者は幸いなのです。


 一方でクリスチャンとして避けるべき苦しみもあります。それは15節「人殺し、盗人、危害を加える者、他人のことに干渉する者」として受ける苦しみです。「他人のことに干渉する者」とは「密告者/扇動家/他人のものをねらう者/預かり物をくすねる者」のように、人間関係や社会の平和を乱す者を指します。つまり、キリストゆえの苦しみを受けている者を神は喜ぶけれども、罪がもたらす悪による苦しんでいる者を神はよしとはしません。なぜなら、もしクリスチャンが悪をしたならば神のすばらしさを明らかにしないばかりではなく、神の名を汚すからです。


 そしてこういった悪による苦しみは、神の前に恥じとなります。「神の前に恥となる」とは神の子どもなのにみっともない姿を神にさらし面目ないと思うことです。私たちも罪ゆえに悪をやってしまうことがあります。その悪からもたらされる苦しみにある時、私たちは神に対して恥ずべきことをしたと悔い改めなければなりません。しかし、16節「キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。」とあるように、キリストを証ししたゆえの苦しみは神の前に恥ではなく、神からの栄誉になります。それゆえ「神はこんな私を用いてくださった。」という思いから神をあがめるのです(16節)。


Ⅲ.すべての人の救いのためにキリストによる試練がある(4:17-19)

 ペテロはキリストの再臨を待つ時代における生き方を語ってきました。その最後に、苦難があるにもかかわらずなぜキリストを証しするのかを語ります(17-18節)。17節「さばきが神の家から始まる」とは、契約の民イスラエルからさばかれるという預言書によるもので、初代教会はこう捉えていました。ですからキリストが再びこの地上に来られたとき、神の家すなわち教会(クリスチャンの集まり)から神のさばきが始まります。その時、神の福音に従いキリストを救い主と信じた者たちは無罪判決となり、天の御国に入れます。一方、神の福音に従わない者たちの結末は明白です。有罪判決となって永遠の滅びに行きます。


 ただし「神の福音に従わない者たちの結末はどうなるのでしょうか。」とあるように、ペテロは彼らを気にかけています。ペテロは彼らを「どうなっても構わない」存在と見ていません。というのも18節で旧約聖書を引用しているように(箴言11:31,エゼキエル14:13-14)、「不敬虔な者や罪人」のような福音に従わない者であっても、神は救いたいからです。なぜなら19節「真実な創造者」である神が人を造ったからです。


 人は本質的に無関心です。「あの人/あの国の人はどうなっても構わない」という思いを誰でも持っています。特に、自分を苦しめる人あるいは言うことを聞かない人には大きく出ます。けれども神はそうではありません。神はご自身に似たものとして人を造りました。ですから神にとって人は特別な存在です。たとえ神を無視しても、たとえ神に背いても、その者が永遠の滅びに行くのを放ってはおけないのです。だから神は計り知れない犠牲を払って、我が子キリストという救いの手段を備えてくださいました。つまりクリスチャンがキリストを証しするのは、神の愛に基づいているのです。


 神の救いの計画からすると、現在はキリストの再臨を待っている時であり、計画の終わりの時代です。人々が永遠の滅びを免れて天の御国に入るためには、キリストを信じる他に道はありません(ヨハネ11:25,14:6)。そのためにキリストの代理として私たちがキリストを伝えるのです。一方で、キリストの名のために受ける苦しみ、つらさ、悩みなど、私たちの生涯には試練もあります。だから、将来神からいただく栄誉と今受けている神の助けにいつも目を向け、19節「真実であられる創造者に自分のたましいを任せる」のです。


■おわりに

 私たちがクリスチャンとして証の生活を送るとき、どのような試練があるのかわかりません。でも、恐れることはありません。神はどのような苦しみのときにもなぐさめてくださり(Ⅱコリント1:4)、私たちを耐えられないほどの試練に会わせることはありません(Ⅰコリント10:13)。そして、キリストによって与えられた神の家族があります。何よりも、クリスチャンであるがゆえの苦難はキリストの役に立っている証拠です。神と神の家族が、いつも私たちを支えているという安心の中で、キリストを伝えてゆきましょう。

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