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木村太

5月9日「イエスは神を冒涜しているのか」(ヨハネの福音書10章31-42節)

■はじめに

 人は誰でも譲れないことがあります。例えば、自分の信仰や信念はその典型ですが、ライフスタイルや自分の目標というのもありますね。皆さんはどうでしょうか。実はイエスにも譲れないことがありました。自分があざけられたり、非難されるといったご自身の尊厳にはこだわりませんでしたが、「これだけは絶対に歪めることはできない」というものがあります。そこで今日は、ユダヤ人との神冒涜議論を通して、イエスは何を絶対に譲らないのかを見てゆきましょう。


Ⅰ.イエスは神に属する者であり、神からこの世に派遣されたから、ご自身を神と呼んでも冒涜にはならない(10:31-36)

 イエスは敵対するユダヤ人に向けてイエスに属する羊について語り、彼らが羊ではないことを明らかにしました。そして、最後に「わたしと父とは一つです。」と言いました。これがさらなる議論を引き起こします(31節)。


 ユダヤ人にとって「わたしと父とは一つです。」は「わたしは神です。」と言っているに等しいことばでした。すでにイエスは仮庵の祭りにおいて「わたしはある」と言い、神であることを告げていますから、もう見過ごせません。それで神冒涜のかどで石打にして殺そうとしました。


 そこでイエスは彼らにこう語ります(32-33節)。「父から出た多くの良いわざ」とイエスが言うように、人知を越えた不思議なわざをイエスは父なる神から託され、神に代わって地上で神のわざをなしています。だからご自分のやっていることを良いわざと言えるのです。反対に、神から出ていないこと、いわば神のみこころを無視して自分勝手にやっているのなら「良いわざ」とはなりません。これが神冒涜になります。なぜなら、神のみこころに従わないのは神よりも自分を上に置いて、神の権威をないがしろにするからです。つまり、「自分のやっていることはすべて神から出ているのに、どれが神冒涜に当たるのか。」とイエスはユダヤ人に問いかけているのです。


 これに対してユダヤ人は「わざではなくて、人間でありながら、自分を神としているから」神を冒涜していると答えます。もし、イエスが神の子であり、神と同じ性質を持っていると分かっていたならば、イエスが「わたしはある/わたしと父とは一つです」と言っても神冒涜にはなりません。彼らはイエスの羊ではないからイエスが何者であるのかを全く悟っていないのです。


 冒涜と言われてイエスは答えます(34-36節)。律法を含む聖書はユダヤ人にとって唯一絶対の真理であり規範であり、永遠に廃棄されず永遠に有効です。それでイエスは聖書を根拠に論じます。34節「わたしは言った。『おまえたちは神々だ』」は詩篇82篇のことばです。ここでの「おまえたち」は律法を授かった民、あるいは神からことばと権威を預けられた王や預言者を指しています。いわば神の代理人を神が神々(詩篇では「いと高き者の子」)と呼んでいるのです。


 これを前提として、「父が聖なる者とし、世に遣わした者」とあるように、イエスはご自身が聖なる者すなわち神に属する者であり、神からこの世に遣わされた神の代理人であると言っています。だから自分が神であると宣言しても、「神の代理人を神々と神が呼んでいる」という聖書にかなっているから神冒涜には当たらないのです。イエスは「わたしはある/父と一つです」が何を意味するとか、自分がどういう意図で言ったのかのような、ことばの説明はしません。あくまでも「自分が神に属する者であり、神からこの世に遣わされた者」これに土台を置いています。


 ユダヤ人はいつも言葉尻を捉えて表面的なことしか見ていません。本質をはずしています。けれどもイエスは「神の子が神からこの世に遣わされ、神の代理としてわざをなしている。」この本質をはずしません。これは絶対に譲れないのです。と同時に私たちもイエスを伝える際に、決して歪めたり否定できないことがらです。


Ⅱ.神のわざを行うことが神と一つである決定的なしるしとなる(10:37-42)

 ところで、イエスが神から出た神の子であり、神からこの世に遣わされた者であることにどうすれば気づくのでしょうか。ことばや立ち居振る舞いからは単なるユダヤ人としか見えません。それでイエスはことばを加えます(37-38節)。


37節「父のみわざ」とは父なる神のみこころに従って、神にしかできない不思議なことを指しています。ですから、神から遣わされた神の子であるかどうかは「イエスが何をなしているのか」で判断できるのです。もし、だれでもできることであれば神と思えませんし、あるいは人には絶対にできないことであったとしても殺人や姦淫など神のご性質に反するものであれば、聖なる神のわざと認めないでしょう。


 しかし、もし神のわざを行っているのなら、イエスという人物を信頼できなくても、行っているわざを信じなさい、とイエスは命じます。なぜなら行っていることがらそのものが、イエスと神が一つである決定的な証拠だからです。わざは意志、神であればみこころの現れです。つまり、イエスのわざを通して神のみこころがわかるから、わざを信じることが大切なのです。ルカの福音書では、イエスによって病が治った人が神をあがめて帰って行く様子がいくつも記されています。神はイエスのわざを通してご自身の偉大さやあわれみを人に知らせます。そして人はイエスのわざを通して神を知るのです。イエスが語ったことばや人物を信じられなくても、イエスが何をやったのかを知って認める、このことがイエスと神とが一つである真理を知らせ、その先にイエスを神の子救い主と信じる信仰に至らせるのです。


 ところがユダヤ人たちはイエスのわざすら認めないので、イエスを単なる人としか見ることができません。それで再びイエスを神冒涜の罪で捕らえて殺そうとするのです(39節)。「神が人になるはずがない」という信念にこだわり、イエスのわざを事実として受け入れないので、まことの救い主を見つけられないのです。


 さて、ユダヤ人の手を逃れたイエスはヨルダン川を渡り、かつてバプテスマのヨハネが活動していた所に行きました(40節)。いまだ十字架の時に至っていないからです。ただしここにも人が集まってきました(41-42節)。ヨハネはイエスが何者であるのかを人々に伝える使命を神から委ねられていました。彼は自分のことばの正しさを奇蹟のようなしるしで裏付ける役割ではなく、ただイエスが救い主であることを告げる者でした。なぜなら、イエスご自身が神のわざを通して、神から遣わされた神の子救い主を明らかにするからです。そしてその通り、イエスの所に集まった人々はイエスのわざを通して、ヨハネのことばが本当だったのを認めました。イエスがヨハネの語った通りの者であると信じたのです。


 イエスを石打にしようとしたユダヤ人たちは、イエスのわざを信じませんでしたが、ここの者たちは信じたのです。イエスについての事実を事実と認めるかどうかが、地上の人生だけでなく永遠に亘る人生をも左右するのです。


■おわりに

 イエスが地上で活動しているときはイエスのわざを直に見たり聞いたり、あるいは直接の体験者から情報を受け取ることができます。けれども、よみがえりのイエスが天に戻ったのちは、イエスはこの地上で見えるかたちを持って活動していません。当然、イエスのわざを見ることもできません。でも困ることはありません。現代でもイエスのわざを見ることができるからです。


 第一に私たちは「イエスの目撃証言集である新約聖書」と「イエスが救い主であることをあらかじめ記してある旧約聖書」を手にしています。この書を書いた使徒ヨハネはイエスの十字架を見てこう語っています。「これを目撃した者が証ししている。それは、あなたがたも信じるようになるためである。その証しは真実であり、その人は自分が真実を話していることを知っている。(ヨハネ19:35)」私たちは聖書を通して神から出たイエスのわざを見ることができるのです。


 第二に私たちは、イエスを信じた方々の変化を通して、イエスのわざを見ることができます。パウロは「キリストが私のうちに生きている」と語りました。イエスを救い主と信じる者の中にイエスは生きていてわざをなし、それが私たちの言動に現れるのです。劇的に変わった者の代表といえばパウロですけれども、「イエスのわざとしかいいようがない」という方々が教会に満ちています。


 イエスの昇天から約2000年後の私たちにも、イエスは私たちの中におられ常に私たちのために働かれておられます。私たちを平安で満たし、ますます神を信じる者にしているのです。同時に私たちを通して神の存在とすばらしさを人々に明らかにしてるのです。

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