■はじめに
万物の創造において神は最初の人アダムを造ったとき「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。(創世記2:18)」と語り、彼に女性エバを与えました。神は人が単独で生きるのを善しとしていないのです。というのも神ご自身が、造り主なる神、救い主なる御子イエス、助け主なる聖霊の体制、いわゆる三位一体をとっているからです。そのことをJ.I.パッカーはこんな風に言っています。「父、子、聖霊は救いを成し遂げるためにチームとして協力して働く」今日は「人本来の生き方は共に生きること」これを伝道者の書から見てゆきます。
■本論
Ⅰ.なぐさめる者を持たない者も、ねたみを生きる力としている者も、どちらも人本来の生き方ではない(4:1-6)
伝道者はこの世でのものごとすべてを観察して、そこから様々な真実を見出しています。この4章では人と人との関係に注目しています。
伝道者は、この世界には虐げる側と虐げられている側があると言います(1節)。虐げるとは「涙/慰め」とあるように、権力ある者が弱い者を不当に扱って心身の苦痛を与える様です。例えば、エジプトでのイスラエルの民、イエスの時代では障害者や特定の病気の者などが虐げられています。ただ、彼は虐げられている者そのものではなくて、「慰める者がいない」者たちをかわいそうに思っています。虐げで苦しむ者にとって辛いのは、そこから脱出できないことはもちろんですが、自分の辛さを受け止めてくれる人がいないことです。慰めがなければ虐げの辛さは積み重なるばかりで、希望は決して生まれません。
それゆえ彼は「慰める者がいない」人々について、2-3節のように「死んだら虐げから解放されるので、そっちの方が良い」と語ります。そしてそれよりも、「今までに存在しなかった者」すなわちこの世に生まれて来なかった方が「人間の悪いわざ」である虐げに会わないから良い、と結論付けるのです(3節)。現代においても武力による侵略や民を顧みない指導者の国、あるいは地域・学校・職場・家庭での虐げが止むことはありません。そういった人々に無関心でいること、見方を変えれば孤独にさせることが生きる気力を失わせるのです。これが伝道者の指摘です。
ここで伝道者は虐げられている者と逆の立場の者について語ります。この世において、人が仕事を成功させようとする動機はねたみ、すなわち自分が他者よりも上になりたい気持ちだと、伝道者は見ています(4節)。全員とは言いませんけれども「あんな生活をしてみたい/あんな旅行をしてみたい/あんな物を手にしたい」のように、世間では誰かと比べることが働く力を生み出しているのも事実です。しかし、人を追い越してもいずれは自分も追い越されるし、何よりも老いればできなくなります。だからねたみによる人生は空しいのです。
しかも、ねたみにかられた者は空しさに気づいていないから両極端な生き方になる、と伝道者は言います。一方の極端は5節のように、破綻してまでも欲を満たす生活です。他の人よりも優位になりたいがために、自分の持っている財産や社会的信用、あるいは人との信頼関係を失う生き方です。もう一方の極端は6節のように富を増やすことに夢中になることです。6節の「片手」は手のひらのくぼみを意味し、「両手」は両手をお椀のように丸める様を意味します。つまり、手のひらのくぼみのごとく「これで十分」という安心がないから、両手の労苦のごとく「もっともっと」となるのです。そして自分のことしか頭にないから虐げにつながってゆくのです。
「慰めてくれる人が誰もいない辛さ」「富や権力を際限なく求める気持ち」これは他の人を押しのけ退ける、いわゆる排他的社会の特徴です。「虐げられている人に無関心」なのは排他される側であり、「ねたみによって富や権力を際限なく求める」のは排他する側の姿です。最初に申しましたように、神は助け合うために男と女を造りました。そして「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。(創世記1:28)」と命じ、共同体で生きるようにしています。ですから、他者を省みないだけでなく、他者を退ける生き方は人本来の生き方ではないのです。伝道者が日の下でのものごとを見たように、私たちも自分を含めて世界で起きていることを見聞きします。その時、現在の価値観や倫理観で見るのではなく、「神は何を求めているのか」この視点から見ることが大切です。
Ⅱ.私たちが平安に生きるには、何があっても決して崩れない信頼関係が必要である(4:7-16)
ここから伝道者は共に生きることについて語ります。おそらく「慰める者がいない人生」「ねたみに支配されている人生」そこから他者との関わりに目を向けたのでしょう(7節)。
8節「ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もいない人」とは信頼できる者を一人も持っていない人、いわゆる孤独を言います。ただ、伝道者は孤独を空しいと見てはおらず、際限なく富を求めている孤独を空しいと見ています。世の中には孤独の寂しさを紛らわすために蓄財に夢中になる人がいます。一方で、富を手にするために孤独を選ぶ人もいます。そのどちらとも空しく、人としてよくない人生なのです。なぜなら「『私はだれのために労苦し、楽しみもなく自分を犠牲にしているのか』とも言わない。」とあるように、自分の人生がいかに空しいのかを気づいていないからです。あるいは空しさを薄々気づいてはいるけれども直視できないからです。
ここで伝道者は孤独を掘り下げるのではなく、信頼できる者を持つ人生がいかに善いのかを語ります。
①9節「共同」の善さ:同じ仕事を単独でするのではなく、共に協力しあえばより多い報いがある。1+1=2ではなく2よりも大きい。
②10節「助け合い」の善さ:「倒れる」というのは「体がバタッと倒れる」のではなくて、仕事の失敗や苦境に立つことを指す。
③11節「支え合う」の善さ:11節は旅人が寒さに対処するための知恵。安心という暖かさを与え合う仲間、苦しみという寒さを担い合う仲間がいることの善さ。
④12節「仲間が多い方」の善さ:「立ち向かう」は戦うのではなくて「立っていられる」すなわち忍耐を意味。スクラムを組んで苦難を生きるイメージ。
互いに信頼できる人を持てば「慰める者がいない」という状況にはなりません。また、ねたみや不安の解消を生きる力とせず、「喜びを分かち合い苦しみを担い合う」これが生きる力になります。ですから一人で生きるよりも、互いに信頼できる仲間と生きる方が善いのです。
ただし、「何を元に信頼するのか」これについても伝道者は語っています(13-16節)。身分、血筋、経験、財力がなくても知恵があり謙虚で柔軟であれば、民はたとえ若くてもその者を王として求め、高齢で頑固な現在の王を退けます(13.15節)。例えば14節「牢獄から出て王になる。」とあるように、ヤコブの子ヨセフは謙虚さと知恵によって牢獄から出されエジプトで王に次ぐ地位になりました。
けれども、その若い王と民との関係は永遠に続くわけではありません。16節「その民すべてには終わりがない。彼を先にして続く人々には。」とあるように「国民が新しい王を支持する」というのは王位継承ごとに繰り返されます。現在の王も後の世代にとっては高齢で頑固な王となるから、どれほど信頼され支持されていても、いつかは支持が下がり王の座から下りるのです。
つまり自分にとって、あるいは自分たちにとって益となることに基づく信頼関係は続かないのです。これは王と民の信頼関係だけではありません。個人においても成り立ちます。利害や義務感、責任感、ギブアンドテイク的な関係に基づく信頼関係はそれが崩れたら終わります。私たちの生きている社会を見ると、家族や友人、職場、地域、学校、趣味などの人間関係を誰でも持っています。しかし9-12節のことがらが誰でも、どんなときでも実現してはいません。それだけではなく、孤独を感じる人も少なくありません。誰かと共に生きるためには、何があっても断ち切れない間柄が必要なのです。
■おわりに
相互の信頼関係をいつでも、どんなときでも保つためには、やはり神の愛に基づかなくてはなりません。使徒ヨハネはこのように語っています。「イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。(Ⅰヨハネ5:1)」「神が私を愛して下さっているから、私も神が愛している人を愛する。」これが私たちが目指すべき信頼関係です。そしてそのためにはまず自分が神の愛を受け取っていることが大事です。
ヨハネは神の愛についてこう言っています。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4:10)」つまり神の愛であるイエスを信じることが信頼関係を築く土台となるのです。いわば、イエスを中心とした、イエスを仲介とした関係がこの地上に生きる私たち本来の人生なのです。
イエスを信じた人はひとりぼっちではありません。イエスご自身が私たちとともにいるだけではなく、イエスを信じた神の家族がいます。私たちは慰めのない人生、ねたみに縛られた人生から解放され、神の家族と共に生きる人生を送っているのです。
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