■はじめに
聖書には「神はなぜこんなことをさせておくのか」と思う出来事がいくつも出てきます。例えば創世記では、ヤコブの息子ヨセフは兄弟たちのねたみによって荒野の穴に投げ込まれています。次の出エジプト記では、エジプトを脱出したイスラエルの民が前方を海、後方をエジプト軍に挟まれ絶体絶命のピンチになっています。この瞬間だけを見れば「どうして」となりますが、読み進めていくと、これらの出来事は神の絶対的な支配、あわれみ深さ、人知を越えた計画といった神の栄光を人々に示すためになされたと分かります。ラザロのよみがえりもイエスの驚くべき力を世の中に明らかにしていますが、それで終わりではありません。今日は、よみがえりの出来事がどのようにイエスの十字架につながって行くのかを聖書に聞きます。
Ⅰ.よみがえりを目撃した者の多くはイエスをメシアと信じたが、最高法院はイエス殺害を企てた(11:45-53)
イエスは埋葬されて4日になったラザロをよみがえらせ元の生活に戻しました。そして、この出来事を通して、ご自身が神から遣わされた者、神に属する者であることを証明しました。ここでヨハネは目撃した人々の反応を記しています。
ラザロのよみがえりを目撃した人々の多くは、イエスが死をも支配できる全能者いわば神の力を持つ者と信じました(45節)。というのも、後ほどイエスがエルサレムに入る際に、ユダヤの人々はイスラエルの王としてイエスを迎え、神の力によってローマの支配から解放するメシアとイエスに期待したからです。(12:13) また、宗教指導者たちもローマを倒すメシアとしてイエスが担ぎ出されるのを恐れています。人々は罪による永遠の死を救うメシアではなく、ローマを倒して神の国を樹立する預言されたメシアと信じ、期待しています。
一方、イエスに敵対している者はエルサレムにいるパリサイ人にラザロのことを報告しました(46節)。これを受けて宗教指導者たちが動きます(47-48節)。最高法院はユダヤ人の政治、司法の最高機関であり、その役割をローマ帝国から認められていました。それで「ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろう。」とあるように、民衆がイエスをメシアに立ててローマに背いたら、強大なローマ軍が来るので恐れているのです。それほどイエスに脅威を感じています。
ただし、彼らが心配しているのは民衆の命や生活ではありません。「われわれの土地も国民も取り上げて」と彼らが言うように、自分たちの財産や権威が失われるのを恐れているのです。宗教指導者たちは神の国を人々に言っておきながら、ローマの庇護の下で自分たちの特権を守ることを最優先にしているのです。だから、イエスがイスラエル解放のメシアとなるのを何とかしたいのです。
ここで最高法院の議長である大祭司カヤパが口を開きます。カヤパは議員たちの知恵のなさを批判し、自分の考えを言います(49節)。彼はイエスを亡き者にすればローマ打倒の勢いが無くなると状況を分析しています(50節)。「国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策」とあるように、民衆のためではなく、あくまでも保身のためにイエスを殺すのです。そして53節のようにカヤパの提案が採用さました。これまでもイエスを殺す企てがありましたが、最高法院という公的な機関での決定をラザロのよみがえりがもたらしたのです。
ここでヨハネはイエスの殺害決議について解説しています(51-52節)。イエスの死は「国民のため」
すなわちユダヤ民族の救いのためであり、さらに「散らされている神の子らを一つに集めるため」すなわち異邦人の救いのためなのです。つまり、現実にはカヤパの考えですけれども、カヤパを通して「イエスの十字架による救い」という神のご計画が進められているのです。
ラザロがよみがえった出来事によって目撃者の多くはイエスを神の国樹立のメシアと信じ期待しています。その動きを受けて、最高法院はイエスがメシアになるのを阻止するために殺害を計画します。どちらもイエスを罪による永遠の死を救うメシアと信じていません。しかしそれぞれの思惑がイエスの十字架を実現させるのです。このことは、私たちの知り得ない所で、この世のあらゆる物事を通して神のみこころがなされているのを示しています。
Ⅱ.イエスは過越の祭りで「ご自分の時」を迎えるために、エフライムに避難した(11:54-57)
最高法院の企みを知ったイエスが動きます(54節)。イエスは人目を避けてエフライムに滞在します。エフライムはエルサレムの北、約20kmにある町です。以前はガリラヤ地方まで避難していましたから(7:1)、それに比べればずいぶんエルサレムに近い場所です。おそらくイエスはエルサレムでの過越の祭りが近づいているのでここを選んだのでしょう。というのも、この過越の祭りにおいて「わたしの時(2:4/7:6,8,30)、イエスの時(8:20)」と呼ばれている十字架での死と復活が遂行されるからです。イエスは身の安全を確保しつつ、神のご計画である十字架に備えているのです。
一方エルサレムでは最高法院の企みが実行されています。過越の祭りはユダヤ民族に定められた3大祭の一つであり、すべてのユダヤ人が参加しなければなりませんでした(55節)。また、祭りに参加するためには儀式に従って事前に身を清めておく必要がありました(Ⅱ歴代誌30:17)。それで宗教指導者たちはイエスを探していました。
ヨハネはイエス捜索の様子をこう記しています(56-57節)。祭司長、パリサイ人といった宗教指導者たちはエルサレム中に密告の命令を出していました。過越の祭りはユダヤ人の義務であるとともに喜びの時でもありますから、必ず来ると彼らは踏んでいます。と同時に、待ち構えているのが明白なのに来るのか、という惑いもあります。とにかく、祭司長たちは必死になってイエスを探しますが、これも十字架に至るために必要な物事なのです。
ユダヤ地方の総督ポンテオ・ピラトによるイエスの裁判では、このようなやりとりがありました。「『過越の祭りでは、だれか一人をおまえたちのために釈放する慣わしがある。おまえたちは、ユダヤ人の王を釈放することを望むか。』すると、彼らは再び大声をあげて、『その人ではなく、バラバを』と言った。バラバは強盗であった。(ヨハネ18:39-40)」つまりイエスは、過越の祭りの最中に捕らえられ、裁判を受けなければならなかったのです。十字架は人を滅びから救う神のご計画ですから、イエスが過越の祭りに行かない選択肢はありません。だから今はエルサレムに近いエフライムで人目を避けているのです。ラザロのよみがえりでイエスにはますます身に危険が及びます。けれどもそれは十字架での死に向けて必要なプロセスなのであり、永遠の滅びから永遠のいのちに人を救うための経路なのです。
■おわりに
イエスがラザロをよみがえらせたことで、ユダヤの民衆はイエスが神から遣わされた者であり、イエスに不可能はないと信じました。それゆえ、彼らは「ローマ帝国から民族を解放し、神の国を再建するメシア」をイエスに期待するのです。一方、宗教指導者はイエスが民族解放のメシアとなるのを阻止しようとします。なぜなら自分たちの立場を失うからです。それで過越の祭りでイエスを待ち構えます。
この時点では「イエスがメシアになって欲しい」「イエスをメシアにしてはならない」という相反する勢力があります。ところがイエスが逮捕されイスラエルを救うメシアではないと分かると、民衆は失望し、加えてイエス支持者に見られたくないからイエスを見捨てます。そして失望の深さ故に反イエスに翻って最高法院の流れに合流します。その結果人々の声に押されて、裁判で罪が認められなかったイエスが十字架刑となり、重罪のバラバが恩赦を受けるのです。
イエスがラザロをよみがえらせた事実はユダヤ人に一方では信頼と期待、他方では脅威と企みといった思いを起こさせました。一見すると単に人に生じた思いのように見えますが、これらがすべてイエスの十字架につながってゆくのです。この視点からすると、ラザロのよみがえりが十字架を決定的なものにしたと言えます。そしてこれらすべての出来事が2000年後の私たちの救いにつながっているのです。神はあらゆる物事を通して「人の救い」というご計画を進めています。
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