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木村太

6月18日「信仰によって称賛された人々③モーセ」(ヘブル人への手紙11章23-31節)

■はじめに

 今も昔もユダヤ人にとって出エジプトは最も重要な神のわざ・神の恵みです。それで彼らはこの出来事を決して忘れないように毎年過越の祭りをしています。出エジプトにおいて中心人物は何と言ってもイスラエルの民を率いたモーセでしょう。ユダヤ人はアブラハムと並んでモーセを民族の誇りとしています。ただし、モーセはアブラハムと違って最初から神に従順だったわけではありません。神がイスラエル民族を脱出させるリーダーにモーセを召したとき、彼は「はい。わかりました。」と即答していません。むしろ杖とツァラアトのしるしを見てもなお「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。(出エジプト4:13)」と訴えました。しかし、神に従ってエジプトを脱出し荒野を旅している中で、モーセは自らの不安に左右されなくなり、神と民との間をとりなす者に変えられました。そしてカナンを前にしてモーセはヨシュアと民に「【主】ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」と語りました。神に従って生きる中で神の働きを経験し、ますます神に信頼する者に変えられていったのです。そこで今日は、信仰に生きる者に神は何をなすのかを聖書に聞きます。


■本論

Ⅰ.モーセは神からの報いに目を離さなかったから、エジプトの王を恐れずに神に従った(11:23-27)

 今、読者であるユダヤ人クリスチャンはキリストを信じたゆえの迫害の中にあります。そこで手紙の著者は、神を信頼して生きたイスラエルの偉人たちを語り、読者が信仰に留まるように叱咤激励するのです。著者はまず、「祝福は神から来る」と信じたアベル、エノク、ノアを取り上げ、次いで「見に見えないはるか遠くの約束」を信じたアブラハムなどイスラエルの父祖たちを取り上げました。そして今回はモーセを取り上げます。


 ヨセフたちヤコブの家族は総勢70名でカナンからエジプトに移り住みました。それから何世代も時が過ぎ、イスラエルの民は爆発的に増え、同時にヨセフを知らない王が君臨するようになりました。エジプトの王はイスラエルの民が敵に寝返るのを恐れて、イスラエルの男の赤ちゃんを皆殺しにするよう命じました。


 そんな中、モーセの両親は生まれたばかりのモーセを見て、その子を3ヶ月間隠しました(23節)。「かわいい」というのは、単にかわいらしいというのではなく、「神の目にかなった美しい姿(使徒7:20ステパノの証言)」を言います。つまり、両親はこの子に神からの何かを感じたのです。それで両親は父祖たちから受け継いだ信仰ゆえに、王を恐れて子を失うという神を恐れない道を選ばず、王を恐れないで子を生かすという神を恐れる道を選んだのです。


 ところが、赤ちゃんが大きくなるにつれて密かに育てるのが限界となり、両親はパピルスのかごにモーセを入れてナイル川に流しました。誰かが見つけて養ってくれると期待したのです。そしてはからずもモーセは王の娘に見つけられ、王女の息子として育てられました。


 モーセは王女の息子ですから何不自由なく欲するがままに生きることができます。しかし、それは神の民である同胞を奴隷として苦しめることになります。それでモーセは欲望のままに生きる人生を捨てて、神の民として生き同胞と一緒に苦しむ道を選びました(24-25節)。ただしこの選択は「神の民」という自覚だけから生まれたのではありません。


 26節「エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。」とあるように、モーセは神ではなくこの世の制度に従い王家の財産を用いることができました。けれども神の民として苦しみを受ける人生の方がはるかに大きな財産だと見なしました。なぜなら、「与えられる報い」すなわち神に従った先にある神からの報いの方が王家の財産よりもはるかに価値があると確信したからです。25節「はかない罪の楽しみ」とあるように、莫大な王家の財産による人生であってもモーセにとっては一時的で空しいのです。両親がモーセを「神の目にかなった美しい姿」と見たとおり、モーセは神に従ったゆえの報いが何よりもすばらしいと確信しそこからぶれなかったのです。それでモーセは王の怒りを恐れないで民を率いてエジプトを脱出しました(27節)。


 ただし、王を恐れず神を恐れて神に従った人生には苦しみがあります。王に従わないのですから、王からの仕打ちや罰があるのは当然です。この苦しみを著者は「キリストのゆえに受ける辱め」と言っています。キリストも父なる神に従順だったゆえに、宗教指導者たちから非難や侮辱を受け、最後は民衆から十字架を叫ばれ、ピラトはキリストを十字架刑に定めました。それで著者は、モーセが受けている苦しみはキリストの苦しみと同じ、と言う意味で「キリストのゆえに受ける辱め」と語るのです。


 ユダヤ人クリスチャンもキリストを信じ神に従う道を選びました。ローマ皇帝やユダヤ教指導者といったこの世の権力よりも神を恐れました。それゆえモーセやキリストのようにローマからの迫害あるいは宗教指導者からの侮辱や脅迫を受けます。ですから、苦しみを逃れるためにキリストを捨てて御使い礼拝や元のユダヤ教に身を置いた方が、すぐに安心や満足を得られるのです。しかし、それは不安定で、かつ人生という一時的なものであり、天の御国という報いに比べれば質においても時間においてもはかないのです。


 これは現代を生きる私たちにも同じことが言えます。私たちもキリストと同じようにクリスチャンゆえの苦しみを受けています。だから、キリストを信じ神に従った先にある天の御国での永遠の平安と満たしに目を留め続けることが大事なのです。パウロもこう言っています。「私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。(Ⅱコリント4:17)」「この世から受ける楽しみや平安ははかなく、天での楽しみと平安は計り知れず永遠」これが私たちに信仰によって生きる力を生みます。


Ⅱ.指導者によってイスラエルの民はあり得ないことであっても神に従ったから、大いなる神のわざを受けた(11:28-31)

 さて続く28-31節には、この世を恐れず神を恐れて神に従った者たちに何が起こったのかが記されています。一つずつ見て行きましょう。


(1)長子の災いを過ぎ越す(28節)

 モーセは神の命令通り、「過越の食事」そして「鴨居と二本の門柱に羊の血を塗ること」をイスラエルの民に実行させました。その結果、神の命令に従ったイスラエルの民は神の災いを免れました。一方、エジプト人たちは王の長子から捕虜の長子に至るまですべての長子が神によって死にました。


(2)紅海を歩く(29節)

 モーセと民は割れた紅海を通ってエジプトから脱出しました。しかも驚くことに、海が左右に割れただけでなく地面が乾いていました。それで壮年の男子だけで60万人の民族はぬかるみに足を取られることなく海を渡りきりました。一方、彼らを追って来たエジプト軍は渡っている最中に海が元に戻ったため全滅しました。


(3)エリコ陥落(30節)

 イスラエルの民は新しいリーダー・ヨシュアに率いられて約束の地カナンに入りました。そしてカナン最大の町であり、堅固な城壁を持つエリコを陥落しようとします。この時、神は祭司と戦士が7日間町の周りを回るように命じました。それで神の命令通り実行すると城壁は崩れました。


(4)ラハブ(31節)

 ラハブはイスラエル民族を通して神の偉大さを知り、恐れて、イスラエルの神を自分の神としました。それで彼女はエリコを偵察に来た二人を助けるつもりで、ことを荒立たせることなくかくまいました。ラハブは彼らを神の代理者と受け取ったのでしょう。彼女は神を恐れるがゆえの従順によって聖絶を免れました。その一方、イスラエルの神を恐れながらも何もしなかったカナンの住民、すなわち不従順な者たちは滅ぼされました。


 これらはいずれもこの世の常識からすれば理解しがたいどころか、あり得ないものばかりです。しかし、彼らは神の報いを信じて神に従いました。先ほど申したように、神を信じる者はこの世の権力よりも神を恐れますが、同時に人の知恵や知識よりも神のことばを最優先にします。その歩みに神は大いなる不思議なわざをなすのです。


■おわりに

 聖書には現代科学では説明できない出来事であふれています。ですから現代では、聖書をそのまま信じているクリスチャンを不思議に思ったり、茶化したり、ときには笑い者にします。また、王や為政者といった権威者を尊重しながらも神を最優先にするので、迫害や弾圧を受けます。使徒たちも「人に従うより、神に従うべきです。(使徒5:29)」と語り、キリストと同じ苦しみを甘んじて受けました。


 私たちはキリストを信じ神に従って生きているゆえに受ける苦しみがあります。同じ物事であったとしても、キリストを信じた後で苦痛を感じるものは、すべて信仰による苦しみです。それはキリストやモーセ、使徒たちが受けた苦しみと同じです。たとえていうなら、キリストが担いでいる「苦難」という御輿に私たちは肩を入れているのです。けれども、やがて受け取る天の御国という報いがあるから、私たちはその苦難を忍耐できます。しかも神に従った歩みの上に、神は不思議なわざをなしてくださいます。その神の力を経験することで私たちはますます神への信頼を深めるのです。

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