■はじめに
イエスは私たちに祈りのお手本を教えてくださいました。それが「主の祈り」です。この祈りには「~してください」という意味の「~たまえ」が6項目あります。そして前半の3つが「主のみこころどおりになるように」、後半3つが「私たちの心身が健やかであるように」という構成になっています。言い換えれば、「私はあなたのみこころを最優先にしています」「私たちはあなたからのもので生きています」という神への信頼を告白しているのです。今日は「私たちは何を頼りにすべきなのか」を伝道者の書5章から見てゆきます。
■本論
Ⅰ.礼拝や祈りなどで神と向き合うとき、神を畏れて神に聞く態度が最も大事である(5:1-7)
伝道者は様々な角度からこの世界、とりわけ人間の営みを観察して、この世の真実を明らかにしています。その中で、ここでは人は何に頼っているのかに焦点を当てています。
神の宮とも呼ばれる神殿で神を礼拝し、神に祈りをささげに行くときには「自分の足に気をつけよ」と伝道者は言います(1節)。「足早に立ち去る/足取りが重い/足が地に付かない」のように足にはその人の気持ちが現れます。ですから、伝道者はどんな態度で行くのか自分を吟味しなさい、と命じています。 なぜなら、神は自分の悪を顧みずただささげ物をささげれば良いという自己中心で表面的な信仰よりも、「近くに行って聞く」ことを良しとするからです。神を最優先にするという態度が、まず神に聞く行動を生むからです。
それで伝道者は吟味する内容を3つ挙げています。
①自分のことだけを一方的に語っているかどうか(2-3節):「神は天におられ、あなたは地にいるからだ。」とあるように、全知全能の神は人のすべてをご存じです。だから、落ち着いて語るべきことばを選んで神に語ります。特に「仕事が多ければ夢を見る」のように、やるべきことがたくさんあるときには、夢すなわち「こうして欲しい、ああなって欲しい」とたくさん言ってしまいます。でもそれは、自己中心になっている愚か者と同じであり、神に聞くという姿勢が欠落しているのです。
②誠実かどうか(4-5節):神に誓ったことをだらだら遅らせるのは、神をないがしろにしている証拠です。「神にはこれこれをお願いします。」と誠実を求めておきながら、自分は不誠実になっているのです。神は誠実を喜びます。だから、「できもしないのに」あるいは「やる気もないのに」神や人にいい所を見せたくて誓ってはなりません。
③正直かどうか(6節):使者は神殿の祭司からの使者を指しますから、この者へ語るのは神に語るのと同じになります。また「あれは過失だ」は「確かにあれは間違いだった」という、いわゆる言い訳を意味します。つまり、神は言い訳を怒るのです。なぜなら、神にとって口から出たことばは真実であり、実現すべき事柄だからです。イエスが「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。(マタイ5:37)」と言ったように、神は正直を喜びます。
伝道者は吟味することがらのまとめとして、神への態度をこう言います(7節)。人には「こうなって欲しい」という事柄がたくさんあるから、神にたくさん語ってしまいます。けれども最も大事なのは「神を恐れること」ただこの一点です。自分のことばかりに気を取られて言いたい放題になるのではなく、神のみこころは何なのか、神が求めているのは何なのかを落ち着いて神に思いを巡らすのです。それが神に聞くという態度です。
私たちは礼拝をはじめとして様々な場面で神に祈ります。その際、「神は何でもやってくれる便利なお方」のような感覚になっていないでしょうか。私たちは本来、神に祈れる立場ではありませんでした。たとえて言うなら、怒らせている相手に勝手にお願いをするようなものです。しかし、神はイエスという仲立ちを自ら用意してくださり、イエスを通して私たちの祈りを聞いておられます。そこに気づけば、「自らを省みず一方的に語る、不誠実、ウソ・でたらめ」にはなりません。サムエルが「お話ください。しもべは聞いております。(Ⅰサムエル3:10)」と神に語ったように、「神に聞く」という神を畏れる態度で礼拝や祈りに臨みましょう。
Ⅱ.富は神ではないから、人は富によって常に完全に満足できない(5:8-17)
伝道者は話題を変えて、お金や不動産、財宝といった富について語ります。おそらく、神を畏れず神以外を信頼する愚か者への観察から、このことが湧き上がってきたのでしょう。
この当時、役人が民衆を搾取するのは珍しくありませんでした(8節)。ただ、「権利と正義が踏みにじられている」とあるように悪行と不正がまかり通っていたのは、民衆と接する末端の役人だけではなく彼らの上司、その上司というように、より高い地位から腐敗があったからです。だから、不正で富を得ようとするのではなく、9節「農地を耕す」のように「まっとうに働いて生活すること」を勧める王が国家には必要なのです。後で触れますが、一人一人が神から与えられた分で満足する、これが神の求めている社会のあり方です。
「不正をしてまでも富を得ようとする」現実から、伝道者は富に頼ることの空しさを語ってゆきます。当時は金銭や貴金属はもちろんのこと家畜や農地、奴隷も富でした。このような富が安心をもたらす、と信じている者は富を愛し最も大切にします(10節)。けれども、富を愛する者は飽き足りるほどの富を持っていても決して安心できません。なぜなら、11節のように富が増えればそれを目当てに人が集まり、財産が減ることへの不安や恐れがいつもつきまとうからです。その日その日の働きと報酬で満足する人は安心して眠れますが、富を愛する者は体は満たされても心は不安だから眠れないのです(12節)。つまり、富は完全な安心を保証しないのです。
さらに伝道者は2つの事実を示して、「富は完全な安心をもたらさないばかりか、わざわいとなる。」と語ります。
①所有者への害(13-14節):人は「不運な出来事」で富を失います。当時であれば自然災害や他国の侵略、強盗などでしょう。しかも「息子が生まれても、その者の手もとには何もない。」とあるように、すべてを失うことがありました。富に安心を求めている人にとって、富がなくなるというのは生きる力を奪います。だから富が所有者に害を加える、となるのです。
②富は死と死んだ後に対して無益(15-16節):「母の胎から出て来たときのように、裸で、来たときの姿で戻って行く。」とあるように、人は何も持たずに生まれ、死に際しては何も持って行くことができません。莫大な財産があってもそれは生きているこの世で有効なだけで、死んだ後には何の役にも立ちません。さらに、どれだけ労苦して富を手にしたとしても死を免れません。だから、死に対して富は所有者の心を痛めるのです。
これらの事実から、「富を愛する人生」言い換えれば「富だけが安心をもたらすと信じている者の人生」について伝道者はこう締めくくります(17節)。「多くの苛立ち、病気、そして激しい怒り」は人が抱く「喜怒哀楽」のうち、怒りと悲しみに相当します。確かに富は喜びや楽しみを与えてくれますが、この世においてそれだけの人生は決してありません。人は他者と関わって生きていますから、金銭ですべてを思い通りにできないからです。また自然にはなすすべがありません。それよりもっと重大なのは生まれること、老いること、病むこと、死ぬこと、いわゆる仏教用語の「生老病死(しょうろうびょうし)」を富では自由自在にできないのです。ですから「人は一生、闇の中で食事をする。」とあるように、何があったとしても富は完全なる光、すなわち常に変わらない安心と喜びにはならないのです。「富は万能かもしれませんが、全能ではない」これに気づくことが私たちにとって大切なのです。
■おわりに
ここまで伝道者は富を愛する人生の空しさや危うさを明らかにしました。ただ、この世に生きる限り人は富すなわち金銭や資産が必要です。だからどうしても金銭に全能を求めてしまいます。そこで伝道者は頼るべきものについてこうまとめます(18-20節)。
すべての人は一生の間、苦痛と疲労を伴った労働で生きています。なぜなら、これが罪ある人間に神が負わせたことだからです。そして「食べたり飲んだり」とあるように労苦による報いで肉体を維持し、心を楽しませています。このことを伝道者は「良いこと。好ましいこと(18節)」と言い、さらに「神は...楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。(19節)」と言っています。つまり、労苦も労苦による報いも、報いによる喜び楽しみも、神が一人一人にふさわしく与えているのです。決して自分の力で獲得しているのではありません。実際には人のふるまいによりますが、それができるのも神の許しによるのです。ですから人が頼るべきは富ではなくて神であり、神が自分にふさわしいものを与えてくださるという確信を持つべきなのです。
そのような人の姿を伝道者は記しています。いつも神の下さったもので満足しているから「あのときはよかった」とはなりません(20節)。どんなときも「神が私にふさわしいものを下さっているから大丈夫だ」となり、喜びと安心の基を神に置いているのです。そのような人は神に対して自分勝手に語らないで神に聞き、誠実で正直であり、神以外に全能を求める気持ちに注意を払います。これが神を畏れる者の生き方です。
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