■はじめに
新型コロナウィルスの感染が広まって以降、「不要不急の外出を控えましょう」というアナウンスを連日耳にします。ただ、人によって不要不急の判断が違うので、他者の行動に疑問や不満が出ることがあります。まさにこの世の中では「何が大事なのか」という価値観、「何が良いことなのか」という倫理観は十人十色です。神の子であり滅びからの救い主であるイエス・キリストについても人によって重んじ方が違います。今日は、「イエスを尊ぶ」ということについて聖書に聞きます。
Ⅰ.マリアはイエスに高価な香油を注いでイエスを尊ぶ心を表したが、ユダはそれほど価値のある人と信じていなかった(12:1-8)
神は我が子イエスをこの地上に誕生させて2つの使命を与えました。一つは、奇蹟とことばを通して「イエスが神の子救い主である」と明らかにすることであり、もう一つは人の罪を赦すために犠牲になることです。この犠牲こそが過越の祭りにおける十字架刑であり、その時が迫ってきました。
前回触れたように、イエスは過越の祭りで裁判を受ける必要がありました。なぜなら、そこで与えられる恩赦によってバラバが赦免され、イエスが十字架刑に決まるからです。それで一時避難のエフライムから過越の祭りが開かれるエルサレムに向かいます。エフライムからエルサレムへの道のりで最後に通る村がベタニアで、この村にはよみがえったラザロと彼の姉妹マルタとマリアが暮らしています(1節)。
イエスがベタニアに入るとイエスを主賓とする晩餐が開かれ、ラザロはイエスや弟子たちと共に席に着きました。死からよみがえったラザロは怖がられたり嫌がられたりされず、普通の人として受け入れられて暮らしています。また、マルタは当時の女性がしていたように食事の世話をしていました(2節)。ここでマリアは食事とは別の行動を取ります(3節)。
ナルドの香油はナルドという木から採られる油で、香りが強く、化粧品や薬品、香料、葬儀用品(遺体や衣服に塗る)などに使われていました。また、旧約聖書では王や祭司を任職する際に香油を頭に注いでいます。ただ、ユダが語っているように純粋なナルドの香油は非常に高く、1リトラ(約328g)で300デナリ、約10ヶ月分の賃金に相当します。ですから1リトラの香油はマリアにとって最高の財産であり宝物だったのです。これを用意するのにはたいへんな労力が必要だったでしょう。
けれども彼女はその香油をイエスの足に注ぎました。マルコの福音書では「香油の入った壺を割った(マルコ14:3)」とありますから、マリアには惜しむ気持ちはありません。「これっぽっちも惜しくない」というのは本当に驚きです。マリアはラザロのよみがえりを目の当たりにし、イエスが永遠のいのちをすでに与えてくださったと分かったから、マリアにとってイエスは何よりも大切なお方なのです。言い換えれば、マリアはイエスを神の子救い主と確信しているからこそ、イエスを尊んで最高のもてなしをしたのです。髪の毛で香油をぬぐっているのもイエスがどれほど尊いのかを表しています。
食事の席にいた全員が香油の良さに気づいたと思われます。そこでイエスの弟子であるイスカリオテのユダが口を開きます(4-5節)。ユダはマリアの行為をムダと見なして批判し、イエスに注ぐよりも貧しい人たちに施しをする方が有効に使えると言います。「イエスは300デナリの香油を注ぐほど大切ではない」と言っているようなものです。ここでヨハネが解説しているように(6節)、ユダの価値観は人の尊さではなくて金を掛ける値打ち、すなわち自分にとってどれほど金になるかでした。だからマリアの気持ちを一つもわからないのです。
ユダの批判に対してイエスが言います(7-8節)。イエスは香油について、これから受ける十字架の死のためにしてくれた、と受け取っています。マリアがこれを意図していたかどうかは分かりませんが、いずれにしてもイエスは彼女の行為を良いものとして認めています。なぜなら、彼女が1リトラの香油を取っておいて、用いるチャンスにその香油を使ったからです。
「純粋で非常に高価なナルドの香油1リトラを取っておく」というのは、イエスに自分の出来る最高のことをしたいという気持ちの実践です。そしてベタニアに来たイエスにそれを注いだのは、「イエスにできるのはこの時しかない」と判断したからなのです。8節にあるように、イエスに会えるのはいつになるか分かりません。だからマリアは今できる最善を尽くしたのです。「彼女にとってとてつもなく高価な香油を、機を逃さずイエスに注いだ」この行為はどれほどイエスを尊んでいるのかを表すものであり、どれほど自分が犠牲を払っているのかを表すものなのです。それをイエスは分かっているからマリアの行為を受け入れているのです。
イエスカリオテのユダもイエスと3年間寝食を共にし、宣教の旅を同伴しました。ですからユダにとてもイエスは大切な方です。ただ、彼の大切さを測るものさしは金銭的価値、いわば300デナリかけるだけの価値があるかどうかという見方です。自分にとってなくてなはならないという存在ではないのです。一方マリアは、イエスのために自分のできる最高のことをしようと日頃から心に決めて準備していました。そしてその時がやって来た時に惜しむことなく、ためらうことなく実行しました。「自分にとってかけがえのないお方」だからできるのです。私たちはマリアのようにイエスをかけがえのないお方と自分の中に置いているでしょうか。
Ⅱ.ユダヤ人の多くはよみがえったラザロを見て祭司長たちよりもイエスを信頼し期待した(12:9-11)
さて、イエスがベタニアにいるのを聞きつけて群衆がやって来ました。彼らは過越の祭りのためにエルサレムに来た人々です。彼らは死人をよみがえらせたイエスを一目見たくてやって来ましたが、イエスだけではなく、死んで4日たったラザロがどんな風になっているのかにも興味がありました。やはりよみがえらせた証拠を見たいのです(9節)。
それで大勢の群衆はイエスを信じました(11節)。ただし、信じたというのは「永遠の滅びから救い、永遠のいのちを与えるメシア」と信じたのではありません。彼らは「ユダヤをローマから解放し、神が約束した神の国を樹立するメシア」としてイエスを信じ期待しているのです。なぜなら11節「彼のために多くのユダヤ人が去って行き」とあるからです。
彼らが過越の祭りに来ているのも、昔からの戒律を守っているのも、すべては預言書に書かれているように、メシアによって神の国が再建されるためなのです。だから宗教指導者は戒律を守るように厳しく命じるのです。しかし、指導者は重荷を負わせるだけで、神の国到来は一向に感じられません。そこに数々の奇蹟を行い、そして死人をよみがえらせたイエスが登場したのですから、期待するのは当たり前です。それで大勢のユダヤ人は宗教指導者を見限って彼らを離れ、イエスに寄って行くのです。ラザロのよみがえりがイエスへの期待を決定的なものにしました。
その様子を見た祭司長たちはよみがえりの証拠であるラザロ殺害を企てました(10節)。イエスが生まれつきの盲人を見えるようにした時も、彼らは本当に目が見えていなかったのかを本人や両親にしつこく聞いています(ヨハネ9章)。宗教指導者にとって大事なのはメシアでも神の国でもなく、自分の権威や立場を守ることなのです。そのためには人を殺すことも厭いません。ここに人の本質が表れています。
「イエスを信じたユダヤ人たちとラザロ殺害を企てた祭司長たち」一見すると真逆のふるまいに見えますが、根底にある思いは同じです。なぜなら、自分の願いや目的をかなえてくれるかどうかで判断しているからです。両者ともイエスが永遠のいのちを与えてくださると信じておらず、自分にとって役立つかどうかでイエスを必要としたり、排除しようとしています。イスカリオテのユダも同じです。ただマリアだけが、人を滅びから救う神の子救い主とイエスを信じているのです。
■おわりに
世の中では人の価値を色々な物差しで測っていることがあります。例えば、血筋、性別、年齢、肌の色、宗教、地位、職業といった所属(何に属しているか)、あるいは善行や悪行、社会貢献といったふるまい(何をしているか)このような物差しがあります。けれども神はそうではありません。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)」と言います。リビングバイブルで「わたしにとっておまえは、愛してやまない、かけがえのない国民だからだ。」と訳されているように、神はただ人ゆえに、かけがえのない存在と言います。この世の価値観からすれば、自分を造った神に背いているのですから、こんな評価にはならないでしょう。
そして神はその思いを思いに留めることなく、実行に移しました。それがヨハネ3:16です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」私たちは神に背いているので、神の怒りによって永遠の滅びに向かうのは当然です。けれども神は私たちを滅びから救うために、我が子イエスに怒りを向けて、私たちの罪を赦すための犠牲にしました。それが十字架です。罪のない我が子を犠牲にするほど、神は私たちをかけがえのない存在としているのです。
イエスをこの上なく尊び、自分にとってかけがえのないお方とできるのは、イエスが自分の役に立っているとかイエスを信じれば思い通りになるからではありません。すでに計り知れない犠牲を払ってくださったからこそ、私たちはイエスに自分のできる最善を尽くすのです。
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