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木村太

6月25日「信仰によって称賛された人々④苦難とやがて受ける誉れ」(ヘブル人への手紙11章32-40節)

■はじめに

 キリストを救い主と信じる者は、滅びから救ってくださった神に感謝する気持ちから、良いこと・正しいことをしようとします。けれども、そういった行いは必ずしも社会から良い評価を受けてはいません。それとは反対に弾圧や迫害を受けることがしばしばあります。例えば、宗教改革の源であるルターは、ローマ・カトリックの免罪符を批判したために破門にされた上、ローマ帝国から追放されました。また、ドイツの牧師・神学者であるボンヘッファーはナチスに抵抗したため処刑されました。日本でも戦時中、ホーリネス系の教職者が天皇を神と認めなかったので逮捕され拷問を受けました。今日は、信仰によって生きる者が受ける苦難とその先にある報いについて聖書に聞きます。


■本論

Ⅰ.神に従った歩みに神はわざをなすが、権威者の脅威になるから苦難を受ける(11:32-38)

(1) 信仰によって生きる者は何をしたのか

 この手紙の著者は、ユダヤ人であれば誰でも知っている信仰の偉人を取り上げて「信仰によって生きる」とはどういうことなのかを語りました。いわば、彼らにお手本を見せたのです。ただし、モーセについては王というこの世の権威者からの苦難があることを明らかにしています。これをきっかけにして、著者は偉人伝を締め括るにあたり信仰ゆえの苦難を読者に語ります。


 32節「これ以上、何を言いましょうか。」という問いかけによって、「信仰によって生きることの説明はここまで登場した人物で十分だ。」と著者は言います。もし、さらに偉人を取り上げ解説するとしたら延々と語らなければなりません。それほど、イスラエル民族においては信仰を貫いた者がいるのです。ギデオン、バラクといった読者たちの誇りである人物も当然、それぞれの時代において信仰を貫きました。


 ここで著者はキリストが来られる以前に、信仰によって生きた者が何をしたのかを語ります(33-35節)。ユダヤ人であればどれもが「あの出来事だ」とわかるものばかりです。ただし、私たちにとっては聖書を読み込んでいなければすぐに思い浮かばない出来事なので、簡単に解説します。

①国々を征服した:イスラエルの民を他民族や他国から守った(士師、ダビデなど)

②正しいことをした:ダビデは主と一つになっていた、主の目にかなうこと行った

③約束のものを手に入れた:ダビデは神の約束通り、カナンに神の国イスラエルを建国した

④獅子の口をふさいだ:サムソン、ダビデ、ダニエル

⑤火の勢いを消した:ダニエルと一緒に来た3人

⑥剣の刃を逃れた:ダビデはサウルの槍から守られた。エリヤはイゼベルの殺害命令から守られた。

⑦弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を敗走させ:ギデオンは300人で大軍に勝利した

⑧女たちは、死んだ身内の者たちをよみがえらせてもらった:エリヤ、エリシャが子どもをよみがえらせた


 ここで大事なのは、それぞれの出来事は神に従った人間の働きですが、そのとき神が大いなるわざをなしている、と言う点です。神のことばに従う時に「自分にはこれは無理かも知れない」と思ったとしても、神が不思議なわざをなしてくださるから、信仰を貫く者は神に忠実であればそれいいのです。


(2) 信仰によって生きる者はどんな苦しみを受けたのか

 信仰を貫く者は神に従って、神から見て正しいこと、良いことをしました。けれどもそれが自らに苦しみを生むこともあります。その事実を著者は語ります。


 35節で言う「釈放」とは、神よりも権威者に従うこと、すなわち信仰を捨てる告白によって刑罰を逃れることを言います。ところが信仰を貫く者はそれをしなかったために、拷問といった刑罰を受けました。なぜなら、「もっとすぐれたよみがえりを得るために」とあるように、信仰を否認して得られる恐れ・痛みからの解放あるいは時の権力に迎合して得られる安全や安心よりも、天の故郷における永遠のいのちの方がはるかに価値がある、と信じたからです。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。(マルコ8:36)」とイエスが教えるとおりです。


 しかしながら、神のみこころに反している権威者の命令を拒めば、当然ながら苦しみが待っています。36節は支配者から受ける刑罰であり、聖書ではダニエルやエレミヤがその典型でしょう。さらにひどいのは37節前半「石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され」といった拷問と殉教です。ステパノやヨハネの兄弟ヤコブ、さらにエリヤと同時期の預言者は時の支配者によって殺されました。ただし、「のこぎりで引かれ」については、「イザヤの殉教」という当時広まっていた偽典の引用と思われます。


 神に従い通す者は「羊ややぎの皮を着て」といった貧困、様々な妨害による圧迫、人として尊ばれない虐待をこの世から受けるのです。その理由を著者はこう言います(38節)。ダビデやエリヤは迫害を逃れるために荒野や洞穴で身を隠しながら生き延びました。もし、神の目から見て良いことをなしたとき、権威者や社会から「良い評価」であれば逃げるよりもむしろ人前で褒められるでしょう。でもそうならないのは、この世では「神から見た正しさとか善」がふさわしい評価にならないからです。だから著者は「この世は彼らにふさわしくありませんでした。」と語るのです。まさにボンヘッファーやホーリネスの教職者はふさわしい扱いを受けませんでした。


 神の正しさとこの世の正しさとは必ずしも一致しません。さらには王のような権威者に反することがらもあります。だから私たちは信仰を貫くときに、からかわれたり、ばかにされたり、のけ者にされることがあるのです。さらには弾圧や迫害のように命を奪われる場合もあります。しかし、そういった苦難こそがキリストの苦難であり、神のお役に立っている証拠なのです。と同時に、そういった苦難は私たちが天の御国に計り知れない価値と希望を置いている証拠なのです。


Ⅱ.キリスト以前の信仰者よりも私たちの方が、天の御国という約束が明らかにされている(11:39-40)

 さて、「信仰によって称賛された人々」の最後に、著者は彼らにとって神の報いがどうなったのかを語ります。読書も私たちも気になるところです。


 キリストが来る前、いわば旧約時代の信仰の偉人たちは自分の力で約束されたものを手にできませんでした(39節)。言葉を加えるならば、約束のものを得るために正しいことをしたのではありません。つまり、行いは神の約束を得る手段ではないのです。天の故郷という約束が決定しているから、それをくださった神に従うのです。神との約束は「~をやったら~をあげる」ではなく「~をあげるから~しなさい」だからです。


 ただし聖書には、彼らの人生が終わった後に、キリストと同じように新しいからだとなって天の故郷すなわち天の御国に入ったという記述はありません。「死んだこと」あるいは「死んで葬られたこと」が記されているのみです。なぜ、「信仰の偉人たちが約束されたものを手に入れることはなかったのか」その理由が40節です。


 「旧約の信仰者たちが完全な者とされることはなかった」ということばから「神は私たちのために、もっとすぐれたものを用意しておられた」は明らかにキリストによる救いを指しています。神はキリストといういけにえとキリストという大祭司を天地創造のときから用意しておられました。とき至って、十字架におけるキリストの死がいけにえであり、よみがえりと昇天によって神と人とをとりなす大祭司がキリストであることを人にはっきりと示しました。


 キリスト以前の信仰の偉人たちは、天の故郷を確信していたものの、そこにどのようにすれば入ることができ、どのようにして入るのかは分かっていませんでした。一方、キリスト以降の者たちはキリストを救い主と信じれば罪が赦されること、そして肉体が死んでもキリストのように新しいからだによみがえって、キリストのように天の御国に入れることをわかっています。「キリストによる救い」が完全であり、完成なのです。だから、「もっとすぐれたものを用意した」と言えるのです。


 違う見方をするならば、もし「旧約の偉人たちはこんな風にして天の御国に入った」という、いわば「完全な者」が明らかにされているならキリストは必要なくなります。天の御国という約束においては、キリスト以前の信仰者よりも私たちの方がより確信を持てるのです。


■おわりに

 信仰によって称賛された人たちと同じように、私たちも信仰ゆえの苦しみがあります。先ほども申しましたように、「何が大切なのか」という価値観あるいは「何が正しいのか」という倫理観において、神とこの世では必ずしも同じではないからです。だから世の中からの評判や仕打ちだけを気にしてしまうと、信仰を貫く人生は苦難しかないからムダとか意味がないとか損と思えてしまうのです。


 けれども神は私たちにキリストという救いの道を備えてくださいました。神はこの世の称賛よりもはるかに価値がある永遠のいのちを私たちに約束しました。そして神はこの世からの苦しみよりもはるかに長い天の御国での人生を私たちに約束しました。私たちにとってこの世はあくまでも寄留地です。私たちは天の御国という故郷を目指しています。だから人生という一時の苦難を忍耐できるのです。

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