■はじめに
イエスは地上の人生を終えて天へ戻るに当たり弟子たちにこう言いました。「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。(ヨハネ14:27)」イエスは助け主とも呼ばれる聖霊を遣わして、ご自身が一緒にいたときと同じように平安を与える、と弟子たちに約束しました。ここにキリスト教の特徴があります。新興宗教のように「入信すれば悪いことは起きません。」といった、いわゆる御利益を保証してないのです。では御利益がないのなら、キリスト教は私たちの人生にとって何が良いのでしょうか。今日は伝道者の書6章から「人にとって本当に良いこととは何か」を受け取ってゆきましょう。
■本論
Ⅰ.「欲望の実現」だけに喜びを求めるなら、人生はそれを追い求めるだけで終わる(6:1-9)
伝道者は「人の労苦も、労苦による報いも、報いによる喜び楽しみも神からの賜物」と見極めました。それで「神が下さったから人はこれに満足すべきだ」と言っています(2:24,3:12-13,5:18-20)。ただし、世の中には満足していない事実がたくさんあります。このことを伝道者は指摘します。
2節「富と財と誉れ」は人が手にしたい代表であり、このために労苦していると言っても過言ではありません。それら望んだすべてを神から与えられているのですから、世間からすればこの人は「最も幸せな人」と言えます。けれども伝道者はこの人を見て「悪しきこと(1節)/悪しき病(2節)」すなわち「不幸/悲惨/苦しみ」と言います。なぜなら、彼は何らかの理由で手にしたものを用い、味わい楽しめなかったからです。たとえて言うなら、素晴らしい食事を用意して「さあこれから食べよう」という時に食卓に着けず、代わりに見ず知らずの誰かがそれを楽しむようなものです。人は「望んだものを手にすること」に喜びと満足を持ちますが、神からすればそうではなくて、「手にしたものを自由に用いること」これが神から与えられた喜び楽しみなのです。
ここで伝道者はもっと悲惨な例を挙げます(3節)。「彼の年が多くなる」とは年ごとに名誉が大きくなることを意味します。ですからこの人は「子だくさん/長寿/名誉」という、当時において神から最も祝福された人なのです。しかし、彼はこれほど良いものを手にしても不満で、ふさわしく応じることもしませんでした。それで「墓にも葬られなかった」とあるように、彼は家族の一員であることを拒否されるほどに嫌われたのです。
ここで伝道者はこの人よりも死産の子の方が良くて、安らかだと言います。4-5節のように、この子は日の光も目にできず、何一つ感じ得ない空しさに生まれ、名もなく闇に行きます。そのためこの子はこの世での喜怒哀楽に与れません。一方、素晴らしい祝福を受けた彼は、他者とは比べ者にならないほど喜び楽しめるのに不満しかないから、伝道者は彼の人生を悲惨だと言うのです。6節「彼が千年の倍も生きても、幸せな目にあわなければ。」とあるように、どれだけ長生きしても神からのものを用いて喜び楽しまなければ、この子と同じように闇のまま命を終えるのです。「望みが満たされることだけ」に喜びや楽しみを求めると、空しいだけでなく幸せを味わえない人生になるのです。
このことを伝道者は別なことばで説明します(7-8節)。知恵がある者も、愚かな者も、知恵を活かしている貧しい者も労苦の報いで空腹を満たします。けれどもそれは一時的であり、時間が経てばまたお腹は空きます。つまり知恵があってもなくても、欲望を満たそうとする人生には空しさがあるのです。それを伝道者はこう言います。9節「欲望のひとり歩き」は欲望をそのままにしている様であり、「目が見ること」は欲望がかなうことを意味します。「期待が長引くと、心は病む。望みがかなうことは、いのちの木。(箴言13:12)」とあるように、人は望んでいることが実現するのを喜びます。けれども「欲望の実現」だけに喜びを求めるなら、人生はそれを追い求めるだけの繰り返しで空しく終わります。
人は誰でも「これが欲しい/こうなって欲しい」という望みが実現するのを願い、その通りとなれば喜びます。けれどもそれにこだわると、私たちは幸せと不幸の間を振り子のように行き来する人生になります。一方、知恵ある人は望みどおりでなくても、神から与えられたものを用い味わうことが喜びと満たしになります。これが何事にも揺るがない安定した人生です。
Ⅱ.神が一人一人にふさわしいものを与えているから、ここに真の満たしがある(6:10-12)
さて伝道者はここで人とは何か、を語ります。ユダヤ人にとって名前はその子の人格や性質を表すものです(10節)。例えばヤコブは兄エサウの「かかと(アケブ)」をつかんで生まれたので「ヤコブ」と名付けられ、イエスはヘブル語で「救い(イェーシューア)」または「主は救い(イェホーシューア)」から名付けられています。さらにユダヤ人は、神が人の人格を定めてこの世に誕生させたと信じています。つまり、「名前が付く」というのは、神が何らかの意図をもって一人一人を誕生させているのであり、人は何らかの役割があることを意味しているのです。
それゆえ人は「自分より力のある者」すなわち神と言い争っても勝つことはできません(10節)。人は自分の容姿や性格、血筋、環境、能力など自分に与えられたことがらについて神にことばを投げつけるときがあります。けれども、どれほどことばを多くしても、神がご自身のお考えに従って人を誕生させているのですから、覆ることはありません(11節)。だからいくら言い争っても空しいのです。このことをパウロは神を陶器師、人を陶器にたとえてこう言っています。「人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。(ローマ9:20-21)」神はご自身の目的のために人を誕生させ、生きるようにしています。言い換えれば、すべての人は神のご支配の中で生きているのです。
ただし、人は神のみこころすなわちご計画を知り得ません。そのことを伝道者はこう言います(12節)。「影のように過ごす、空しい人生において」とあるように人の人生は影のように消えゆくはかないものであり、しかも自分の力でそれを変えられない空しさがあります。しかし、神は人の誕生から死に至る生涯をみこころに従って自由にできるのです。一方、人は神ではないから人生において何が良いことなのか分からないのです。まして「その人の後に、日の下で何が起こるかを」とあるように死んだ後のことなど誰も知り得ません。
例えば、映画監督はオープニングからエンディングまですべてを知っているから、狙った作品とするためにどこにどんなシーンを入れれば良いのかわかっています。けれども観客は「なぜこの場面でこんなシーンがあるのか」わかりません。ストーリーが進む中でようやくわかるのです。それと同じように、人は神ではないので、「どうして願ったものが与えられないのか」あるいは「どうして願っていないものが与えられたのか」の理由はわかりません。「なぜこの時代に/なぜこの国に」生まれたのかもわかりません。それ以上に、「何のために今生きているのか」も人の知恵ではわからないのです。
唯一確かなのは、神がみこころすなわちご自身のご計画に則って、一人一人に固有の人格を持たせてこの世に生まれさせ、人生という道を歩ませていることです。それゆえ人は今生きている状況を神から与えられたものとして受け取り、「神が与えてくださっているのだから大丈夫」という平安で満たされ、これを用いるのです。
■おわりに
現代社会では「望んだことがかない、思い通りに生きる」のが幸いな人生という風潮です。けれども、今の自分にとって喜ばしいことであったとしても、後々の人生にわざわいを引き起こすこともあります。私たちは将来何があるのか分かりません。一方、神はすべて知っておられます。ですから、私たちは神から与えられた命と神から与えられた今の状況を「神からのもの」と受け止め、その中で神に何をすべきなのか聞きながら生きるのです。「御子イエスを犠牲にするほど私を大切にしている神が、今の私にふさわしいものを与えてくださっている。」これを確信することが平安な人生を歩む秘訣です。人にとって良いことは、目に見えるものごとではなく、いついかなるときも神の手に包まれている、これを知っていることです。
Comments