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木村太

6月27日「イエスへの期待」(ヨハネの福音書12章12-19節)

■はじめに

 クリスチャンが祈っていることがらと初詣やお墓参りで願っていることがらとに大差はありません。例えば「家族が健康であるように/世界が平和であるように/コロナが収まるように」といった、いわば幸福を求める願いはクリスチャンであってもそうでなくても願うものです。ただしクリスチャンの祈りには特徴があります。それは「神のみこころがなりますように。」という祈りです。言葉を加えるならば「願いごとは叶って欲しい。けれども神のみこころを優先します。」となるでしょう。今日はイエスがエルサレムに入る出来事から、イエスに期待することについてみことばに聞きます。


Ⅰ.群衆はイエスをイスラエルの王として迎え入れ、ローマ解放のメシアを期待した(12:12-16)

 イエスと弟子たちはベタニアでたいへんな歓迎を受けました。そしていよいよ過越の祭りのためにエルサレムに向かいます。


 大勢の群衆とあるように、とてつもない数の人々がイエスをエルサレムに迎え入れています(12節)。彼らはなつめ椰子の枝を手にしていました(13節)。これはユダヤ民族の復興を熱狂的に喜ぶ行為で、今で言えば凱旋パレードとなるでしょう。この時代から約160年前にユダ・マカバイオスという人物が圧政からイスラエルを救い出した際にこの出迎えをしました。ですから「イエスはイスラエルをローマ帝国から解放するメシアだ」とエルサレム中が歓喜しながら迎えているのです。


 さらに彼らは「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」と叫んでいます(13節)。ホサナは「今、救ってください。」という意味ですが、一般には人をほめたたえる呼びかけで使います。「イスラエルの王に。」と叫んでいることから、そこにいる人々全員が「神によってイスラエルの王が来た。」とイエスを喜んでいるのです。イエスをエルサレムに迎え入れる人々の光景から、民衆がどれほどイエスに期待しているのかが伝わってきます。


 一方のイエスも不思議な行動に出ます(14-15節)。15節のことばは、預言書のゼカリヤ書9:9のことばです。これは、戦争を終わらせる平和の王がエルサレムに入って来る様子を描いたもので、やがてこのことが実現するとユダヤ人は信じています。ですから、群衆がなつめ椰子の枝を手に取り、ホサナと叫んでいる中を、預言と同じようにイエスがろばの子に乗ってエルサレムにやって来るのを見たら、誰でも「約束のメシアが来た」と思うのは当然です。「イエスによってイスラエルがローマから解放されて、あのダビデ時代のように神の国が再びできる」と誰もが期待するのです。


 ただし、神のみこころに従ってイエスが目指している神の国イスラエルは、群衆が期待している国とは違います。イエスがメシアとして樹立する神の国は地上の国家ではありません。というのも、イスラエルは信仰による国であり、イエスを救い主と信じる者が神の民として住む国だからです。イエスは人を滅びから救うメシアであり、新しい天と新しい地と呼ばれ、やがて来る天の御国の王なのです。


 ですから、群衆が期待しているメシア、神の国はイエスによって実現しません。でもイエスは彼らの熱狂的な期待が間違っているのを指摘せず、そのままにさせています。なぜなら、期待外れの失望がイエスを十字架に至らせるからです。これからイエスがなすべきことは過越の祭りにおける十字架刑です。だからイエスは群衆が真実とは違う期待をしてもそのままにしているのです。


 ここでヨハネは弟子たちの様子も記しています(16節)。実は弟子たちも群衆と同じように、やがて来る神の国をもたらすメシアではなく、ローマから解放するメシアとイエスを理解していました。その証拠にイエスが逮捕された時、全員がイエスを見捨てて逃げたからです。彼らはイエスの栄光、すなわち十字架での死とよみがえりを目撃して、この出来事の本当の意味に気づきました。あの時は、地上の国家イスラエルをもたらすメシア・王として迎えたけれども、真実は滅びから永遠のいのち、完全な平和が永遠に続く天の御国の王として迎えていたことがわかったのです。大祭司カヤパの提案やマリアの香油注ぎも、当人はわかっていなかったけれども、これからイエスに起きることを示していたのと同じです。


 ユダヤ人の群衆はイエスをイスラエルの王と熱狂的に期待していました。イエスもろばの子に乗ってエルサレムに入り、預言書に記されていた平和の王のようなふるまいをしました。一見すると群衆の期待にイエスが応えているように見えますが、そうではありません。イエスはあくまでも神のみこころである十字架を目指しているのです。ですから私たちが見るべきは、期待通りに物事が進んでいるかどうかではないのです。私たちは「神は何をお考えになってこのことが起きているのか。」ここに目を向けていれば、期待が外れても失望にはならないのです。


Ⅱ.ラザロのよみがえりが「イエスがメシアである」という確信を決定的なものとし、イエスへの期待を加速させた(12:17-19)

 さて、イエスを熱狂的に迎える裏で何が起きていたのかをヨハネは書いています。ベタニアでイエスがラザロを墓からよみがえらせた時に、その場にいた者たちはこの出来事の一部始終をエルサレムで語っていました(17節)。エルサレムに来た人々は、イエスのこれまでの驚くべきわざを知っていて、イエスはメシアかもしれないと思っていました。そこに、死んで4日たったラザロをよみがえらせた、という情報が入って来たのですから(18節)、群衆は「イエスがメシア」だと確信したのです。ラザロをよみがえらせた事実が群衆にメシアを確信させ、ローマからの解放を期待させることを決定的なものにしました。


 その一方で、イエスを殺そうと企んでいたパリサイ人はこの光景を見て言います(19節)。彼らはイエスとラザロ殺害計画が全く進んでいないばかりでなく、人々がますますイエスに期待しているのを悔しがっています。「世はこぞって」と彼らが言うように、ユダヤ人社会全体が宗教指導者を見限り、イエスを信用し期待しているのです。指導者の権威や教えではこの流れをどうにも変えられないという焦りが、このことばに込められています。自分たちの立場を守るためにも、イエスを亡き者にしたい気持ちが強まります。


 過越の祭りを迎えてエルサレムでは2つの動きが高まっています。一つは、イエスがイスラエルを救うメシアと確信し神の国を期待する動き、もう一つは群衆の期待に焦り、イエスを殺そうとする動きです。先ほども申しましたように群衆の期待は見当違いの期待です。一方の宗教指導者の計画は明らかにモーセの十戒に反しています。どちらも止めるべきものですが、イエスはそのままにさせています。なぜなら正反対の2つの動きがやがて「イエスを十字架につける」という一つの思いになるからです。


 「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。(ヨハネ4:34)」とあるように、イエスの行動の源は神のみこころです。どのような苦しみが待っていようとも、神のみこころすなわち人を滅びから救うために十字架にかからなくてはならないのです。これが人に向けられた神のあわれみであり、イエスの愛なのです。だからイエスは十字架に向かっているこの状況をそのままにしているのです。


■おわりに

 ユダヤ人はイエスをイスラエルの王、ローマから解放し神の国イスラエルを再建するメシアと期待しました。イエスも預言書に記された通りの仕方でエルサレムに入り、群衆の期待はますます高まりました。しかしその後、イエスが逮捕されたことでメシアへの期待はなくなり、失望による怒りが十字架に向かわせます。「ホサナ」と叫んだ群衆が、次に叫んだのは「十字架につけろ」なのです。


 けれどもイエスはイスラエルという現実の国よりももっと人に有益なことを成し遂げました。それが十字架の死とよみがえりよって罪の赦しと永遠のいのちを与えることです。この世の国は人の力で何とかできますが、天の御国には能力や行いといった人の力では決して入れません。イエスによって罪赦された者しか入れないのです。イエスはユダヤ人の期待通りにはなりませんでしたが、神のみこころに従い、彼らの期待よりもはるかに善い永遠のいのちと天の御国を与えてくださいます。


 ラザロのよみがえりもこれと同じです。マルタとマリアは、生きているうちにラザロが助かるのをイエスに期待しました。でもその通りにはなりませんでした。けれども、イエスは死んで4日経ったラザロをよみがえらせました。生きている人を助けるということもよりも、はるかに「神は偉大だ」となるわざをイエスはなしました。私たちもイエスにいろいろなことを願い期待しますが、それらがすべてその通りにはなりません。ただ、間違いないのは期待はずれだとしても、結末は「神はすばらしい」となるのです。それをわきまえているから、私たちは何があっても平安でいられるのです。

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