私たちは経験や習慣、文化から物事を決めつけてしまう傾向があります。例えば「男なのに/女なのに」のような性別による決めつけはその典型でしょう。聖書でも使徒の働きを見ると、救われるのは神の民ユダヤ人だけで異邦人にはあり得ないという風潮が記されています。それゆえ私たちは神に関することでも「きっとこうに違いない」と考えてしまうことがあります。今日は、イエスが二人の弟子を召した出来事を通して、人知の及ばない神のお考えについて見てゆきます。
Ⅰ.ピリポはナザレ出身のイエスをメシアと信じたが、ナタナエルは評判の悪い地域ゆえに疑った(1:43-46)
アンデレが兄ペテロ(シモン)をイエスの所に連れてきた日の翌日、イエスはガリラヤ地方に行きピリポを見つけました(43節)。「見つける」は「探して見つける」という様を言いますから、イエスはピリポを弟子に必要としていたのです。ガリラヤに行ったのはそのためでした。
ピリポはガリラヤ湖の真北にあるベツサイダ出身で、アンデレやペテロもそこの出身です(44節)。ガリラヤはイスラエル最北の地域で、そこにはベツサイダ、イエスの出身地ナザレ、ナタナエルの出身地カナがあります。イエスの時代からおよそ700年前、北王国イスラエルはアッシリアによって滅亡し、この地域には複数の民族が入り込みました。それゆえガリラヤは他の民族と混じり合い、独特の文化や血縁を形作っていました。またガリラヤの人には訛りがあり、首都エルサレムでは言葉でガリラヤ出身がわかるほどでした(マタイ26:73)。ですから、ガリラヤは卑下する意味で田舎と見られていました。しかもこの地方からは熱狂的な愛国主義者や偽キリストが出ていたので、ユダヤ人からするとここは大変評判の悪い地域になっていました。そんな背景の中でピリポとナタナエルはイエスに出会います。
ピリポはイエスに招かれて、イエスこそが律法や預言書で預言されているメシアだとナタナエルに話しました(45節)。「モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている」とあるように、この二つの書は神が人に与えたことばですから、「ナザレの人でヨセフの子イエスが神の定めたメシアである」とピリポは確信しているのです。彼もアンデレと同じように、探していたメシアに会ったので、その驚きとうれしさからナタナエルに伝えたくてしょうがなかったのです。「ピリポはナタナエルを見つけて言った。」という様子がそのことを物語っています。
もっとも、アンデレやこのあと登場するナタナエルもイエスに会ってすぐにメシアだとわかっていないので、おそらくピリポは同郷のアンデレやペテロからイエスについて教えられていたと思われます。それでイエスに出会ってすぐに「この人はメシアだ」と信じたのでしょう。ただ、イエスの驚くべき能力を見ていないのに、単なる普通の人を神の定めたメシアと信じるところにピリポの純粋さが表れています。
一方のナタナエルはピリポにこう答えます(46節)。ナザレは田舎で評判の悪いガリラヤ地方にあり、さらにここにはユダヤ人が嫌っているローマ軍の駐屯地がありました。それでナタナエルは、そんなひどい所から優れた者が出るはずがない、と決めつけたのです。もしこれが首都エルサレムで祭司の家系であれば、そのまま受け取ったのかもしれません。この反応にピリポは、「イエスの所に行って、よく見て確かめなさい」と勧めました。こう言えるのですから、ピリポはわずかな疑いも持っていないのです。ナタナエルはピリポとは全く逆の反応ですが、これが偏見とか決めつけが当たり前になっている人間社会の姿なのです。
信仰において、私たちにもナタナエルと同じような決めつけや偏見の傾向があります。例えば、「あの人は熱心な門徒さんだからキリスト教は必要ない」「規模の大きい活発な教会にしか人は来ない」このような思いです。けれども神のお考えは私たちの知識を越えています。「ナザレという町から、しかもヨセフという一般人からメシアが出るのはあり得ない」という決めつけは神に適用できません。私たちにとっては「あり得ない」「不可能」「奇蹟」だとしても、神にとっては当然であり必然なのです。
Ⅱ.イエスはナタナエルに人にはあり得ない能力を明らかにし、さらに驚くべき真実を見ることを約束した(1:47-51)
ピリポに勧められてナタナエルはイエスのところに行きました(47節)。ナタナエルもまた預言されているメシアを求めていたのでしょう。イエスはナタナエルを初めて見るのに、生粋のイスラエル人という彼の血筋と正直者という彼の性質を口にしました。前の日にペテロを見た時と同じです。ナタナエルが「どうして私をご存じなのですか。」と言っていることから、イエスの指摘は当たっていました(48節)。
そこでイエスは見抜いた理由をこう答えました(48節)。「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました。」この答えにナタナエルが「先生」と驚いていることから、イエスが今いるところからは絶対にいちじくの木は見えないのです。言い換えれば、ナタナエルしか知らないことをイエスは指摘しました。つまりイエスは人にはない神の能力を明らかにしたのです。
イエスの能力を知ってナタナエルは言います(49節)。「先生」という言い方から彼の疑いが消えているのがわかります。ナタナエルは「会ったこともないのに自分の本質を見抜いたこと」「見えないはずの出来事を知っていること」これらからイエスが全知という神の力を持っていると確信しました。それで「あなたは神の子。あなたはイスラエルの王。」と告白したのです。ただし、イエスについての彼の告白は完全ではありません。なぜなら、イエスはイスラエルという特定の国の王ではなく、罪を取り除かれた者が入る神の国すなわち来るべき天の御国の王だからです。
この告白にイエスは言います(50節)。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったから信じるのですか。」これは、全知というイエスの本質の一面しかナタナエルが見ていないことを指摘しています。そのためイエスは、全知という力よりもはるかに驚くべき本質を明らかにします(51節)。
イエスはこれから話すことがイエスに従う者にとって大変重要なので「まことに、まことに、あなたがたに言います。」と最初に言っています。「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りする」とは天におられる神と、地上にいる人の子すなわちイエスとの間で交流している様を描いています。創世記においてヤコブは、地と天とに掛けられている梯子を神の使いが上り下りするのを見ました(創世記28:12)。これがイエスによって実現するのです。ティンデル聖書注解ではこのことを「イエスこそ天と地の隔たりをつなぐはしご」と記しています。
イエスが子羊といういけにえになることで人の罪は赦され、天の御国に入ることができます。それゆえイエスは天に入るための手段、地上から天に行くための梯子です。さらに、イエスが死からよみがえって天に昇った後、イエスは目に見えない霊という形をとって人と神との間をとりなします。これも梯子の役割です。つまりイエスは「ご自身が罪のためのいけにえとなり、神と人とをとりなす」という、ご自身の本質の核心を明らかにしているのです。ただしこのことは十字架で死んでよみがえり、天に昇った後、聖霊が下らないと実現しません。そのため「あなたがは将来見ることになる」と言うのです。
イエスはガリラヤを中心に活動し、「病を治す/悪霊を追い出す/自然を支配する/死者をよみがえらせる」など全知全能という神の力を働かせました。このみわざは「イエスのことばは本当だ」と人々が信じるためでした。ナタナエルと同じように私たちもイエスが神の力を持っている真実を知っています。しかしそれよりももっと大事な真実は、イエスだけが私たちの罪のためのいけにえ・子羊であり、イエスだけが私たちと神とをとりなすお方、まさに天と地の間にかけられた梯子であるということです。このことは、人の理解を超えることですけれども、イエスを信じる者だけでなく人にとって最も必要な真実だから、イエスは「まことに、まことに、あなたがたに言います。」と語るのです。
「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」とナタナエルが言ったように、キリスト教には「あり得ない。そんなばかな」という出来事が一杯です。「神がことばで天地万物を造った/人を土地のちりから形作り息を吹き込んで生き物にした/アダムの生涯は930年/海が割れ、川がせき止められ乾いた地面が表れる/岩に命じて水が出る/天から食べ物が降る」数え上げたらきりがありません。けれども一番あり得ない出来事はこの二つです。「性的関係を持たないマリヤからイエスが生まれた/十字架刑で確かに死んでよみがえった」この二つは事実であり、真実なのです。そしてこれらを信じる時、滅ぶべき私たちを救うために神がイエスを「世の罪を取り除く神の子羊」にした、という神の計り知れないあわれみに目が開かれるのです。今、死んでよみがえったイエスは神と私たちの間をとりなしています。ナタナエルの時と同じように、イエスは私たちのすべてをご存じです。だから安心してイエスに従うことができるのです。
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