使徒ヨハネはこの福音書でイエスによる7つのしるしを取り上げています。「カナの婚礼(2章)」はその一つであり、他には「5千人の給食(6章)」「ラザロのよみがえり(11章)」などがあります。7つのしるしでは、人には絶対にできない不思議な出来事いわゆる奇蹟が記されています。これを読むと、私たちはびっくりするような奇蹟に目がいってしまいますが、大事なのはこの奇蹟が「イエスあるいは神の何を明らかにしているか」なのです。今日はカナの婚礼での奇蹟を通して、イエスの真実について見てゆきましょう。
Ⅰ.母はイエスに奇蹟を求めたがイエスはそれを断り、奇蹟の主導権はご自身にあることを明らかにした(2:1-5)
イエスがピリポとナタナエルを弟子に召してから3日目(2日後)、ガリラヤ地方のカナで結婚の祝宴があり、そこにイエスと弟子たちが招待されていました(1-2節)。一方イエスの母は「招かれていた」ではなく「そこにいた」と記されています。また、ぶどう酒の量をチェックしていたり(3節)、給仕たちに指示していることから(5節)、イエスの母は宴会の裏方を任されていたと思われます。
祝宴の最中、大変な事態が起きました(3節)。この当時、ユダヤ人の結婚の祝宴にはすべての親類や友人知人が招かれ、期間は1週間から2週間にも及びました。ですから膨大な量の食べ物と飲み物を用意しなければなりませんでした。特にぶどう酒は招待客をもてなすために不可欠であり、もしなくなったら主催者である花婿の大失態となり、人々のひんしゅくを買うことになります。同時に、宴会の世話役にも大恥をかかせることになります。ですからぶどう酒がなくなったというのは、まさに非常事態であり、絶対に何とかしなければならないのです。しかも容易に調達できる量ではありません。
そこで母は息子イエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言いました。言葉に出してはいませんが、母はイエスなら何とかできると信じ、彼に助けを求めているのです。イエスの母マリアは、イエスを身籠もったいきさつとこれまでの彼のふるまいから、息子には人にはない能力があると確信していたのです。5節「あの方が言われることは、何でもしてください。」という指示も、母の確信を示しています。
この母の求めにイエスはこう答えました(4節)。非常に冷たいことばに思えますが、これには訳があります。「あなたはわたしと何の関係がありますか。」というのは、ユダヤ文化においては「相手の要求が自分のやるべきことではないので断る」ことを意味します。ですから、「ピンチを救う奇蹟は親子故に母から要求されてするものではない」とイエスは言っているのです。さらにイエスは「わたしの時はまだ来ていません。」と答えています。ヨハネの福音書において「わたしの時」は「イエスの死とよみがえり」を指しますから、イエスは人々を苦難から救う時は今ではない、とも言っているのです。つまり、奇蹟の主導権はイエスにあり、また単にピンチを救うためではないから、イエスは母の求めに応じていないのです。
イエスは人々の求めに応じて病を治したり、悪霊を追い出したり、死んだ人をよみがえらせたりしています。一見すると求められるがままのようですが、そうではありません。「わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。(ヨハネ5:30)」とご自身が語るように、人にはできない奇蹟をなすかどうかは神のみこころに基づいているのです。しかも人の窮地を救うためではなく、その奇蹟を通して人が神を知り神を崇めるために行うのです。私たちはこのことをわきまえていないと、思い通りにならない時に「神は何もしてくれない」とか「神は私を見放している」となり、信仰が弱められてしまいます。奇蹟をいつどのようになすのかはイエスが定めることなのです。
Ⅱ.ぶどう酒の奇蹟は「イエスのことばは真実である」というしるしとなった(2:6-12)
イエスは母の要求を断りましたが、それで終わりではありませんでした(6-7節)。1メトレテスは40リットルですので、宴会の会場には80~120リットル入る石の水がめが6個ありました。ユダヤ人はこの水を使って手や食器を儀式的に清めます。イエスはこの水がめに水を満たすように給仕たちに指示し、彼らは従いました。さらにイエスはこう命じます(8節)。
今必要なのは水ではなくぶどう酒です。にもかかわらずイエスは、水がめの水をぶどう酒の容器に入れて世話役に持って行け、と命じるのです。給仕たちは母マリアの言葉通りイエスの指示に従いましたが、すごく心配だったと思います。
ところが驚くことがここで起きます(9-10節)。世話役が味見したのは確かにぶどう酒、それも上等なぶどう酒でした。当時、ぶどう酒を入れる容器は陶器ですから透明ではありません。ですので、水がいつぶどう酒になったのかは、目では分からないのです。けれども水がめからぶどう酒の容器に入れた時は水だったのに、今はぶどう酒になっているのです。
それで世話役は宴会の主催である花婿を呼んで、出席した人々に聞こえる声で彼に言葉をかけました。というのも、ほとんどの人は酔って味が分からなくなったら質の悪いぶどう酒を出すからです。これは相手を十分もてなそうという気持ちよりも、自分の出費を抑える方を優先しています。しかし、この花婿は招かれた人々が酔ったとしても、さらに酔いものを出しているので、世話役は「すばらしい人だ」とほめました。ただし、もしここで世話役がイエスの指示だと知ったなら、彼はぶどう酒を切らした花婿を責めるでしょう。イエスが裏方の給仕だけに指示したお陰で、世話役も花婿もそして母親も喜び、祝いの席は台無しになりませんでした。イエスの深い配慮が伺えます。結婚式を終えて、母や兄弟、弟子たちは喜びながらカペナウムに向かったことでしょう(12節)。
この出来事をヨハネはこう記します(11節)。水が上等なぶどう酒に変わったのはまさしく奇蹟といえます。けれども、イエスは水がめやぶどう酒の容器に手をかざしたり、「ぶどう酒になれ」と呼びかけるといった、いわば目に見える行動をしていません。嵐をしかりつけて鎮めたり、汚れた霊よ出て行けと命じるような直接的な行動をしていないのです。
ただ一つ、この奇蹟で明らかなのは「イエスのことばに間違いはない」ということです。イエスは水がぶどう酒に変わることを知っていたから、汲んで持って行きなさいと命じました。一方、給仕たちはそんなことを知るよしもありません。しかし、イエスのことばに従った結果、ピンチを脱し全員が喜ぶことになりました。つまり、水がぶどう酒に変わったという奇蹟は「イエスのことばは信頼できる、イエスは真実なお方である」このことのしるし・証拠になるのです。同時に「イエスは真実なお方である」これがイエスの栄光になるのです。給仕をはじめイエスのそばにいた弟子たちは、ことの一部始終を見ています。この者たちがイエスが真実であることを分かり、イエスを信じて行くのです。
イエスが奇蹟をなさるのは、人を安心させたり喜ばすためではありません。結果的にそうなったとしても、奇蹟はあわれみや正しさ、誠実、全知全能のような、いわゆる神のご性質を明らかにするために行われるのです。イエスは弟子を召した後、福音を伝える活動を始めるに当たり、最初にカナの婚礼で奇蹟を見せました。それはまずご自身が信頼できる者であることをこの奇蹟で証明するためでした。そして、イエスが真実なお方であるからこそ、人々はイエスを神の子救い主と信じ、罪を取り除かれて神の国に入れるのです。
一般的に奇蹟は「常識では考えられない神秘的な出来事」と理解されています。「水がぶどう酒に変わる/5つのパンと2匹の魚で5千人を満腹にする」などはその典型です。しかし、キリスト教における奇蹟の理解は世間とは違います。今日見てきましたように、その出来事の中に神の存在やキリストのわざを確信したなら、それが奇蹟なのです。ですから、周囲からは偶然だとか因果関係があると言われても、「これは神の働きだ」と確信すればそれは奇蹟なのです。
私たちは罪故に恐れや不安、絶望を生き最後には滅ぼされてもよい存在です。しかし神はそれを放っておかず、驚くべき出来事を通してイエスの真実を人に示しました。それは人がイエスを救い主と信じ、滅びを免れるためなのです。まさに奇跡は神のあわれみであり、私たちが安心と喜びに生きて欲しいという気持からなされているのです。奇跡を経験したとき、私たちはますます神をほめたたえ、信仰の成長につなげてゆきましょう。
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