使徒パウロはテモテへの手紙の中で「敬虔を利得の手段と考える者たち」が教会にいることを指摘しています(Ⅰテモテ6:5)。「キリストを一心に信じ、熱心にキリストに従っているように見えるけれども、実は自分の幸福を目的としているクリスチャンがいる」と言うのです。私たちも「パワースポット/縁結び/運気の良い色や方角」など御利益信仰が氾濫している中で生きています。ですから、自分の願いを叶えるために祈りや礼拝を利用してしまう誘惑があります。今日はエルサレム神殿での出来事を通して、イエスの求める信仰について聖書に聞きます。
Ⅰ.イエスは儲けるために神殿を使っている者たちを追い出し、神殿本来の姿を取り戻そうとした(2:13-17)
カナでの婚礼を終えてイエスは家族や弟子たちとガリラヤ湖畔の町カペナウムに滞在しました(12節)。そして今度はエルサレムに行きます(13節)。
「過越の祭り」は、神がイスラエルの民をエジプトから脱出させた事実を記念する祭りで、現在の3月下旬から4月中旬にエルサレムの神殿で行われます。この祭りにはユダヤ人男性は全員参加して、神殿で礼拝しなければなりませんでした。ただし、礼拝者にはいけにえの動物と神殿税として納める専用の硬貨が必要でした。そのため遠方などで動物を持参できない人たちのために牛や羊、鳩を売る者、さらに神殿専用の硬貨に両替する者が宮すなわち神殿の敷地内にいました。
イエスは彼らを見つけてすぐに、葦の縄で作った鞭で動物を追い払い、両替の台をひっくり返して硬貨をまき散らし、そして敷地の隅々から商売に関わるすべてを持ち去るように命じました(14-15節)。実力で徹底的に商売を止めさせたのです。なぜなら16節のように、「わたしの父の家」すなわち神の神殿を商売の店にしてしまっているからです。
先ほど申しましたように、イスラエル全土からエルサレムに来るのですから、いけにえの動物を売る者や両替は必要です。ところが彼らは神殿の外に比べて数倍の値段で動物を売ったり、法外な手数料で両替をしていました。しかも、神殿を管理する宗教指導者たちは、神殿維持のために彼らから場所代を受け取り、悪徳商売を認めていました。
神殿は本来、いけにえをささげて罪をゆるしてもらい神と和解し、神との契約を思い起こす場所です。と同時に、ささげものを通して神の恵みを感謝する場所です。しかし、商売人や両替人、宗教指導者は神殿本来の意義をないがしろにし、自分たちの利益のための建物にしています。弟子たちがこの様子を見て「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と詩篇のことばを思い出したように(17節)、「礼拝者のため/神殿のため」という熱心が神殿を食い物にし、建物はあるけれども、実態はもはや神殿ではなくなっていました。それでイエスは、汚れを落としてきよめるごとく商売人たちを追い出し、神殿本来の姿に取り戻そうとしたのです。
こんにち、私たちは神殿の人々と同じく万物の創造主である神を崇め、神のために生きています。一方で私たちも彼らのように自分の欲望を最優先にしてしまう弱さがあります。ですから「主のために」という熱心が「自分のために」という熱心になっていないかチェックする必要があるのです。
Ⅱ.イエスは自分こそが「罪を赦し、神と和解するための神殿」であることを明らかにした(2:18-22)
イエスのふるまいに商売人たちは文句を言います(18節)。神殿を管理する宗教指導者から許可されているのですから、「こんなことをする権限を見せろ」と抗議するのも不思議ではありません。そこでイエスはこう答えました(19節)。この答えには商売を台無しにする何の権限も見あたらないどころか、商売人たちには全く意味不明です。それで彼らは答えました(20節)。イエスの回答は彼らにとって本当にバカバカしいものでした。
このやりとりにヨハネはこのように解説を加えます(21節)。商売人をはじめユダヤ人は神殿を礼拝をするための建物と捉えているから、「46年もかかったものを3日で建て直せるのか」とからかうのです。一方、イエスは「いけにえによって罪が赦され、神と和解するための手段」と神殿を捉えているのです。後々明らかになるように、イエスは罪のためのいけにえであり、神と和解するための手段です。それゆえイエスはご自身を神殿と言い、破壊すなわち十字架で死んでも、三日でよみがえると言うのです。
ユダヤ人たちは神殿での礼拝や儀式が律法に定められているからという理由のみに目を留め、儀式の形式にこだわっていました。しかも、礼拝を公然と金儲けの手段にしていました。イエスはこのことを言葉と行いによって止めさせ、神殿本来の意義を明らかにしているのです。ただし22節にあるように、イエスが罪を赦すいけにえであり、イエスによって神と和解できるというのは、十字架での死とよみがえりで明らかになります。だからこの時点では弟子でさえも「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」を理解できていないのです。
神殿での商売人や宗教指導者をはじめとするユダヤ人は、罪を持つ限り神の怒りを免れず、神の国に入れないことを分かっていませんでした。彼らはただ昔からのしきたりをきちんと守れば救い主が現れて、神の国に入れると信じていたのです。だから神のためと言いながらも義務的、形式的になっていったのです。今私たちは「神が我が子イエスを犠牲にした故に罪を赦された」これを信じているから、神への感謝に基づいて礼拝を中心とした信仰生活を送っています。イエスが罪を赦し神と和解するための神殿であることも理解できます。このことをしっかりと握っている限り、信仰は形式的や義務的にはならず、ましてや利得の手段にはなりません。
Ⅲ.イエスは、人々がイエスを罪から救う救い主と信じていないことを見抜いていた(2:23-25)
さてエルサレムでは神殿の外でも出来事がありました(23-24節前半)。イエスがどんな不思議なわざを行ったのかここからはわかりません。けれども、大勢の人々がイエスのわざを目で見て、イエスを救い主と信じました。おそらく、イエスが神と同じ全知全能を持っていると確信したのでしょう。
ところがイエスは信じた彼らに自分を任せませんでした。「自分を任せる」というのは、ご自身の扱いを彼らに委ねるということです。例えば、「イエスにできないことはない」と評判を流されたり、戦争で勝つために引っ張り出されるようなことです。他の福音書を見ると、活動の初めにおいては驚くようなわざをなした後で「誰にも話していけない」と強く命じています(マタイ9:30,マルコ5:43,ルカ5:13など)。
なぜそうしたのかをヨハネはこう言います(24後半-25節)。「人についてだれの証言も必要とされなかった」とあるように、人間がどんなものなのか証言してもらう必要がイエスにはありませんでした。なぜなら、イエスは気持ちや考え、欲望などいわば心を隅々までご存じだからです。しかも、現在過去未来にわたって、地上に生きている人すべてを知っておられます。
つまり、イエスが信じる人々に自分を任せなかったのは、イエスについての理解と期待がふさわしくなかったからです。言葉を加えるならば、「人の罪を取り除くいけにえの神の子羊」という救い主と信じているのではなく、その偉大な力でイスラエルをローマから開放し、神の国を樹立する救い主と信じ期待しているのです。それゆえ、イエスがこの世に来た本来の目的とは違う立場にさせられるから、イエスは人々のなすがままにさせませんでした。
そしてイエスが見抜いた通り、イエスを信じていた人々はイエスが逮捕されたとたんに見放し、その上、十字架刑を求めました。イエスが自分たちの切望していた通りの救い主ではなかったからです。3年間寝食をともにした弟子でさえも見放し逃げ出しました。この福音書を書いたヨハネもそうです。イエスは自分たちの思い通りにしてくれる救い主ではなく、罪による滅びから救うための救い主なのです。
私たちは目の前の痛みや苦しみ、悩みを一刻も早く取り去って欲しいし、自分の期待通りになって欲しいと願います。けれども私たちにとって最も必要なのは、罪による永遠の滅びからの救いなのです。しかも、私たち自身ではどうすることもできません。
それで、バプテスマのヨハネが「見よ。世の罪を取り除く神の子羊。」と言ったように、神はあわれみによってイエスを神の怒りをなだめるためのいけにえとしました。イエスの犠牲によって私たちは罪を赦され、イエスのよみがえりと昇天によって、地上のいのちが終わっても天の御国に入れることが明らかにされたのです。
だから私たちは最も必要なものをもらったから、神への感謝にもとづいて生きているのです。何かをしてもらうために神に従うのではなく、すでにイエスによって受け取ったから神に従うのです。
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