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木村太

6月4日「信仰によって称賛された人々②イスラエルの父祖たち」(ヘブル人への手紙11章8-22節)

■はじめに

 箴言13:12「期待が長引くと、心は病む。望みがかなうことは、いのちの木。」とあります。人は誰でも望んでいることが実現したら生きる力が湧いてきます。反対になかなか叶わなかったら、だんだんやる気が失せてきます。まさに人の本質をついたことばです。ところで、キリストを信じる者は天の御国という目に見えないものを待ち望んでいます。ただし、それがいつなのかはわかりません。同じように、聖霊による助けも信じていますが、それがいつどのように来るのかもわかりません。ですから、キリストを信じていても、いくら忍耐しても願いどおりにならなかったり、願っているものとは全然違う状況が続くと、望みを叶えてくれそうな何かにすがりたくなるのです。この手紙の読者であるユダヤ人クリスチャンは迫害が続く中でまさにそのような思いになっていました。そこで今日は、見えないものに希望を持つ人生について聖書に聞きます。


■本論

Ⅰ.アブラハムは神が真実な方と信じていたから、神のことばに従った(11:8-12)

 手紙の著者は「信仰によって神が称賛した者」として、最初にアベル、エノク、ノアを語りました。その次に彼が取り上げたのがアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフです。彼らはいわゆるイスラエル民族の父祖と呼ばれる者たちで、中でもアブラハムはユダヤ人たちが「父」と呼ぶほどの偉大な人物です。最初の3名と今回の4名はいずれも神を信頼して生きた者ですが、「神の約束を受け取る」という点では父祖たちは生きている内に受け取っていないのが特徴です。ではまずアブラハムから見てゆきましょう。


 神はアブラハムを選んで、このように約束しました。「【主】はアブラムに言われた。『あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。』(創世記12:1-3)」


 アブラハムは神が真実なお方であると信頼し、この約束を受け取り従いました(8節)。たとえどんな場所に行くのか知らなくても「神が示す場所だから」という理由で故郷を離れたのです。しかも、「大いなる国民とする」約束は、「天の星のように、また海辺の数えきれない砂のように」無数の子孫が誕生するのですから、自分が生きている間に実現しないのは明らかです。それで、アブラハムは約束の地カナンで定住しても自分の国を建てるどころか、あたかも外国人のように仮住まいである天幕で生活しました(9節)。10節「堅い基礎の上に建てられた都」とあるように、神の用意した都は移り変わるこの世の都ではなく永遠で不変な都が後の世にあることを確信しているからです。


 アブラハムがどうして神を信頼したのか聖書には記されていません。明らかなのは、ただ神だから信頼したという事実だけです。これが信仰です。もし、信頼に足る何かがあって神を信頼するのであれば、神よりも人の方が権威が上になります。このような信頼の仕方だと、自分の基準を満たさないことがあったときに神への信頼は小さくなります。アブラハムは信頼に足る証拠が何一つなくてもただ神だから信頼し従ったのです。たとえ約束の地がどんな場所なのかわからなくても、たとえ大いなる者となるのが自分の生きている内に実現しないとわかっていても、ただ神だから信頼しました。それゆえ、聖書において信仰の人といえばアブラハムになるのです。


 このアブラハムの信仰ゆえに、子孫を残すのは絶対に不可能なアブラハムとサラに神はイサクを誕生させました(11-12節)。「天の星のように、また海辺の数えきれない砂のように」大いなる国民とすると言う約束はその通りとなる、イサク誕生によってこの確信がますます強まるのです。驚くような出来事があったから信頼するのではなく、「ただ神だから」神を信頼するのです。そしてこの信頼に対して神はおおいなるわざをなすのです。


Ⅱ.天の故郷を目指す者は地上の人生を寄留者と自覚する(11:13-16)

 ここで著者は、「はるか後に実現する神の約束を信じる者」がどのような人生だったのかを語ります(13-14節)。「これらの人たち」はアブラハムを初め、今日登場する4名の父祖たちを指します。彼らは、天の星のような子孫を見ることもなく、神の約束した都に入ることもなく人生を終えました。けれども、彼らはそんな人生に不服を唱えることなく神に従って生きました。


 なぜなら、「はるか遠くにそれを見て喜び迎え」とあるように、約束の都はこの地上ではないことを承知していた上に、間違いなくそこに入れるとわかっていたからです。「喜び迎え」は「腕に抱くように迎え入れる」様子を表していますから、あたかも自分の腕で約束の都を抱えたごとく、すでに手にしているから喜んで生きて行けるのです。ただし、約束の都ははるか先にあり、しかもこの世のものではないので、この地上の人生をよそ者のような旅人とか一時的に滞在している寄留者と呼ぶのです。


 彼らが約束の地はこの世の土地ではないと確信していた理由を著者はこう説明します。この当時、生活の場は父の家がある自分の国や地域でした。何らかの理由で旅することはありますが、他民族の土地ではあくまでも外国人であり、よそ者扱いでした。加えて、故郷の墓に家族と共に葬られるのが彼らにとって大事なことでした。ですから、本来であればアブラハムたちは故郷であるウルの地に帰るべきなのです(15節)。


 けれども「彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。(16節)」とあるように、彼らがウルの地に戻らなかったのは、神が約束した都が自分たちの故郷だと承知していたからです。見方を変えれば、彼らは父母といった血のつながった家族があると同時に、神の家族だと認めていたのです。それで、神のおられる天を故郷として人生を送りました。そして神は彼らの信仰ゆえに天の故郷である都に入らせました。その証拠にイエスがこう証言しています。「あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。(マタイ8:11)」


 人はこの世の物事がすべてだと思っています。だから、この世のもので不安や恐れを解消し、安心や喜びを得ようとします。しかし、それが思うように実現できないから、失望して生きる気力を失うのです。一方、信仰を持つ者は違います。自分は天の御国が故郷であり、人生は他国を旅している寄留者だと自覚しています。それゆえ、この世の辛さは一時的だから必ず解放されるという希望と信仰を保てるのです。迫害の中にある読者が「地上の人生は旅人・寄留者」という自覚を持つために、著者はイスラエルの父祖たちを取り上げたのです。


Ⅲ.イスラエルの父祖たちは、常識を越えたことがらであっても神のみこころに従った(11:17-22)

 続けて著者はイスラエルの父祖たちと神のみこころとの関係について語ります。神はアブラハムにイサクを神へのささげものにするよう命じました。神のみこころを最優先にするかどうか彼の信仰を試したのです。この命令に対してアブラハムは我が子イサクをささげました(17節)。ただしそこにも神への信頼があります。18節にあるように、神はイサクから子孫が出るとすでに約束しています。アブラハムはこの約束を信頼したから、イサクをささげたのです。ただ、自らの手でイサクをほふろうとしたのですから、アブラハムの信仰はどれほどのものか、驚くばかりです。


 続くイサクとヤコブでは息子たちへの祝福が取り上げられています。イサクは長男エサウではなく次男ヤコブに長男の祝福を与えました(20節)。この当時、父の財産を受け継ぐのは長男でしたので、この祝福は一般的にはあり得ません。けれどもパウロはこの祝福が神のみこころと認めていますから、イサクは世の中のならわしよりも神を優先したのです。同じようにヤコブもヨセフの長男マナセではなく次男エフライムに長男の祝福を与えました(21節)。これも神のみこころです。


 ヨセフは死に際して、自分の民族がエジプトから脱出し約束の地カナンに入ることを伝え、その時には自分の遺骸を一緒に携えるように命じました(22節)。今ヨセフたちは飢饉の真っ直中にあり、エジプトでなければ暮らせません。世の中の常識に

照らせばあり得ないことがらですが、それも神のみこころだからこのように命じたのです。


 アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフは当時の常識とか慣習に反しても神を信頼して、神のみこころに忠実でした。これが神を完全に信頼する者の姿です。と同時に、この姿を次の世代に明らかにすることで信仰が継承されてゆくのです。神は寄留者である人を用いて、この地上に信仰を広げるのです。


■おわりに

 「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。(ヘブル11:1-2)」神がほめる者はアベルたちやイスラエルの父祖たちのように、ただ神を信頼して従う者です。たとえ理解し難いことであっても、ハードルが高いことであっても、どんな結果になったとしても、天の御国を仰ぎ見ながら神に従う者を神は喜びます。そして神に従う中で神は驚くべきみわざをなしてくださるのです。

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