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木村太

6月5日「御霊(みたま)の賜物(たまもの)」(コリント人への手紙 第一 12章1-11節)

■はじめに

 今日はペンテコステ(聖霊降臨日)です。こんにち、キリスト教会とクリスチャンは全世界に広がっています。これらは、キリストの弟子たちに聖霊が下ったことから始まりました(使徒1:8)。それで、キリスト教では聖霊が下った出来事を記念してお祝いするのです。また、弟子たちに聖霊が下ったのは、キリストのよみがえりから50日目でした。「50番目」をギリシャ語では「ペンテコステ」と呼ぶので、聖霊降臨日をペンテコステと言うのです。

今日は、全世界にキリストを知らせるために、私たちには特別な役割が与えられていることを、コリント人への手紙から見てゆきましょう。


■本論

Ⅰ.全てのクリスチャンに聖霊(御霊)が働いている(12:1-3)

 本論に入る前にこの手紙が書かれた背景を簡単に話します。この手紙は使徒パウロがコリントにある教会のクリスチャンに宛てた手紙です。当時、コリントの教会は不品行、分裂、食べ物や献金についての論争など、たくさんの問題を抱えていました。また、この教会には常識では説明できない能力を持った人が現れて、教会の中は混乱していました。それでパウロはこれらの問題の解決と教会に秩序を持たせるために、この手紙を書きました。


 当時、ユダヤ人以外の人々いわゆる異邦人は、像や細工などしゃべらないものを神として崇めていました(1-2節)。その一方で彼らは、ところ構わず身を投げ出したり、取り憑かれたように語ったりするような人を「神の霊が宿った人」とか「神から特別に扱われている人」と認めていました。2節「ご存じのとおり、あなたがたが異教徒であったときには」とあるように、コリント教会の人々もそういった考えを持っていました。ですから、洗礼を受けた人が急に知らない言語で語ったり、誰も知り得ないことを語ったりしたら「あの人には神の霊が宿っている」のように特別扱いしても不思議ではなかったのです。本人も「自分は神に選ばれた」と思ったことでしょう。でもそれが教会の中に混乱や争いを招いていました。それでパウロは、それらの現象は「御霊の賜物」すなわち聖霊がもたらしている能力だ、と全員に伝えるのです(1節)。


 パウロは始めに御霊と信仰について語ります(3節)。神の霊すなわち聖霊が作用している人はイエスを恨み憎まないだけではなく、イエスを救い主と人に告白できます。これはまさしく聖霊に満たされたパウロの経験であり(使徒9章)、聖霊の下った弟子たちに起きた事実です(使徒2章)。つまり、クリスチャンはイエスに関わることすべてを否定せず、イエスを救い主と告白しているから、全員が聖霊を受けているのです。不思議な能力を持っている人だけが聖霊を受けているのではありません。現代の私たちも「イエス・キリストは神の子であり、私の救い主です」と公に告白しているから、全員が聖霊を受けています。公での信仰告白は聖霊を受けている証拠なのです。


Ⅱ.賜物、奉仕、働きは多様であるが、その源は一つである(12:4-6,8-11)

 次にパウロは、全員が聖霊を受けている、という真理を土台として、教会内で起きている不思議な能力について解説します(4-6節)。パウロは「目に見えることがらはいろいろだが、その出所は同じ」これを強調しています。と同時に、賜物、奉仕、働きの出所つまり源を明らかにしています。


・賜物(4節):神からもらったよいもの、能力。御霊(聖霊)が与える

・奉仕(5節):賜物を用いた役割。主(イエス)が与える

・働き(6節):奉仕による効果・作用、人を通した神(父なる)のわざ


 私たちは自分の賜物を発見し、自分の判断や周囲からの依頼で賜物を用いた奉仕をしますが、真実はそうではありません。神がみこころを実現するために、イエスがクリスチャンに奉仕を与え、その奉仕を果たすために聖霊が賜物を与えているのです。さらに奉仕を通して神が何らかのことがらをなします。そのことをパウロは証言しています。「彼らにあいさつしてから、パウロは自分の奉仕を通して神が異邦人の間でなさったことを、一つ一つ説明した。(使徒21:19)」


 4-6節から明らかなように、賜物・奉仕・働きには父・子・聖霊の三位一体の神が関わっています。そして先ほど申しましたように、クリスチャン全員に聖霊が働いていますから、全員に何らかの賜物が与えられていて、全員に何らかの奉仕が任命されていて、全員を通して神が何らかの効果をもたらします。


 つまり全てを計画し全てをご存じである三位一体の神が、一人一人にふさわしい賜物と奉仕を与えているのであって、決してその人が立派だとか、優れているというのではありません。また、奉仕の結果は目に見えて違いはありますが、「同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなす(6節)」とあるように、神の働きだからどれもよいものであり、ここにも優劣はありません。


 この真理をパウロはコリント教会に適用しています。8-10節でパウロは教会で見受けられる賜物を列挙しています。けれども「同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり(11節)」と語っているように、賜物も奉仕も働きも一切が神のみこころに基づいています。目に見えることがらに違いはありますが、それらの優劣そして人の優劣は決してないのです。


 今申しましたように、賜物の主導権は御霊すなわち神にあります。ですから、賜物は技術のように練習や努力で身に付くものではありませんし、神に祈り求めてもその通りもらえないこともあります。ただ大事なのは、私たちは御霊によって与えられた賜物を見つけ、それを用いて今すべき務めを誠実に果たし、結果を神に委ねることなのです。神が私たちに求めているのは、与えられた賜物を放っておかないで用いる、これだけなのです。


Ⅲ.賜物は皆の益(教会の益)となるために、一人一人に例外なく与えられている(12:7)

 さてパウロは、御霊の賜物がなぜ与えられているのかについても語っています(7節)。繰り返しになりますが、賜物、奉仕、働きは教会の全てのクリスチャンに与えられています。そして、これらは誰の目にも明らかになります。それが「御霊の現れ」です。


 賜物を用いた奉仕と奉仕の効果は目に見えます。平安や信頼といった人の内側に起きる効果も外側に出てきます。同じように賜物も「あの人は○○の賜物がある」と誰もがわかるようになるのです。そして、これらが誰の目にも明らかになるのは、「皆の益となる」ためなのです。「みなの益」とは、教会の全員に喜びや安らぎをもたらし、信仰が深まり、さらに神をほめたたえるようになる、という現象です。


 それゆえ、賜物は自分自身のために用いるものではありません。また、すばらしい才能を用いて何かの役割を担っていたとしても、それが皆の益となっていなければその才能は御霊の賜物とは呼べません。例えば、学校の先生だったとしても聞く側を顧みず、好き放題語っているのであれば、語る賜物があるとは言えないのです。


 8-10節のように、コリントの教会には様々な賜物が与えられていました。しかし、それによって混乱や高ぶりが起きているのは、賜物の用い方が間違っていたからなのです。私たちもコリントの教会と同じように、他の人の賜物や奉仕を比べたりして、優劣をつけてしまうことがあります。でも、大切なのは賜物を用いた結果が「皆の益」になっているかどうかなのです。一言で言うならば、何らかの賜物を用いて教会の働きをしたときに、「神はすばらしい」となっているかどうかが大事なのです。神は平和と秩序の神ですから、賜物によって教会が混乱したり分裂するのは神のみこころから外れています。賜物が皆の益、教会の益に用いられてこそ、教会の人々は一致し、教会の働きが豊かで実り多きものとなるのです。


■おわりに

 冒頭に申しましたように、神が弟子たちに聖霊を下したのは、全世界に福音が伝えられて、全ての人がイエスを救い主と信じ滅びを免れて永遠のいのちを得るためです。ただ、全知全能の神なのですから、こんなことはご自身の力でできるはずです。わざわざ弟子や私たちを使わなくてもいよのです。でも神は、賜物を与えてそれを用いるという部分を人に任せました。つまり、教会を中心として福音を伝え、人を救うというのは三位一体の神と私たちとの共同作業なのです。それゆえ私たちは神の、イエスの、聖霊の喜びを自分の喜びにできるのです。神はご自身の栄光をこの世の中に示すために、私たち一人一人を必要としています。私たちは全員神から頼りにされています。御霊の賜物があるのはその証拠です。

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