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木村太

6月6日「ラザロのよみがえり」(ヨハネの福音書11章30-44節)

■はじめに

 キリスト教では「救い」ということばがひんぱんに使われます。神学者J.I.パッカーは救いについてこう説明しています。「信じる者は何から救われるのか。彼らが救われるのは、神の怒りと罪の支配と死の力の下にいた以前の立場からであり、世と肉と悪魔によって支配されていた生まれながらの状態からであり、罪の中に生きる生活が生み出す数々の恐れからであり、罪の生活の一部である多くの悪い習慣からである(聖書教理がわかる94章,いのちのことば社,p184-185)」罪の支配と聞くと「私は犯罪をしたことがないから関係ない」と思われる方もおられるでしょう。ところが何気ない日常の中でも罪の支配が私たちを覆っているのです。今日はラザロのよみがえりの出来事を通して、イエスはどんなことから信じる者を救うのか、このことを聖書に聞きます。


Ⅰ.ユダヤ人たちは「人は死で終わる」という罪の世に縛られていた(11:30-38)

 ラザロの姉妹マルタは待ちに待ったイエス到着の知らせを聞いて、イエスを出迎えました。ここでイエスはご自身がよみがえりでありいのちであることをマルタに告げましたが、マルタはラザロのよみがえりをいまだ分かっていませんでした。そしてマルタがマリアを呼びに行きます(28-30節)。


 マルタの知らせを聞いてマリアは家を出てゆきます。家の中でマリアをなぐさめていた人々は、マリアが墓でラザロの死を泣くために出て行ったと察しました(31節)。当時、女性は埋葬されてから1週間は墓へ行って嘆き悲しむという習慣があったからです。


 マリアは墓ではなく、村の外までイエスを出迎え、足もとにひれ伏し尊敬と敬愛を表しました。何としてでも自分の気持ちを伝えたいのです。そこでマリアは「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。(32節)」とイエスに語り泣きました。彼女もまたマルタと同じようにイエスに期待していないばかりか、イエスがここに来てもラザロはもう生き返らないとあきらめています。


 マリアやマルタをはじめ人々の姿を見てイエスは言います(33-34節)。「彼女が泣き...ユダヤ人たちも泣いていて」の「泣く」は「泣きじゃくる/むせび泣く/嗚咽する」様ですので、ここにいるすべての人がラザロの死を深く悲しみ、そして「もうどうにもならない」という絶望に包まれているのです。


 それを見てイエスは霊に憤りを覚え、心を騒がせました。「霊に憤りを覚える」というのは霊すなわち神に関わることがらに怒っているのです。なぜなら、神が造った世界と彼女たちの有り様が全く違うからです。本来人は死なない存在だったのに、罪が人を死に引き渡しました。しかも、人は「死んだら終わり/死んだらどうにもならない」という罪の支配下にあり、無意識のうちに罪の世に縛られていたからです。パウロはコリントの手紙でこう書いています。「最後の敵として滅ぼされるのは、死です。(Ⅰコリント15:26)」神の創造した世界に死という敵が君臨しているから、イエスは憤ったのです。


一方でイエスは涙を流します(35節)。これはラザロの死を悲しんでいるのではありません。もし、「ラザロは死んで、もうどうにもならない」と悲しんだら、罪の支配を認めることとなるからです。イエスは嗚咽している人々の心情に涙しているのです。イエスは決して冷たいお方ではありません。


 イエスの涙を見て、ある人々は「愛するラザロの死を悲しんでいる」と言い、またある人々は「あのイエスでもラザロの死はどうにもならない」と言いました(36-37節)。このことばを聞いて再びイエスは憤ります(38節)。イエスは遠く離れていても重体を回復できます(4:46-54)。ですから、もしイエスがラザロの死を悲しんだとしたら、イエス自身が自分の力、権威の限界を認めるのと同じです。マルタやマリアを含めてユダヤ人たちは「イエスでも死はどうにもならない」と判断しています。つまり、イエスに限界を定め、神の力を侮っているからイエスは憤るのです。


 ヨハネの黙示録には罪のない天の御国、言い換えれば罪が入る前の本来の世界がこう記されています。「もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである(黙示録21:4)」一方、私たちの世界は死があり、悲しみがあり、叫び声があり、苦しみがあります。死に対しては完全な暗やみです。「人は死んで終わり。どうにもならない。」もし、このことがすべてだとしたら、私たちには希望はありません。けれども父なる神は罪の支配を断ち切る道を備えてくださいました。それがイエスです。


Ⅱ.ラザロのよみがえりは「イエスが信じる人々を罪の支配から解放すること」を明らかにした(11:39-44)

 イエスは憤りを覚えながらもラザロの墓の前に来ました。イエスは死んだラザロに何かをしようとしますが、マルタのことばからは「この状態では無理」という気持ちが伝わって来ます(39節)。そこでイエスはこう言います(40節)。


 死で終わるこの世界はやみ、すなわち死への不安、恐れ、絶望の世界です。その中でイエスは死んで数日経った者をよみがえらせるから、イエスがやみの中の光となるのです。同時に、イエスをこの世に遣わし、イエスに全能の権威を与えた神のすばらしさを人々は体験するのです。この時点ではマルタはまだイエスが何をするのか分かっていません。けれども、イエスを神の子救い主と信じる彼女にイエスはラザロのよみがえりを通して、神の栄光を見せます。それが自身の使命だからです。


 イエスは神の栄光を見せる前に語ります(41-42節)。「目を上げて」とは天におられる神に訴える仕草であり、5つのパンと2匹の魚の時もこのようにしています(マルコ6:41)。そして、父なる神が自分の願いをすべて聞きその通りにしてくださったことを、ことばによって感謝しました。


 神とイエスは父と子の関係、しかも完全な信頼関係ですから、わざわざことばにする必要はありません。しかし42節のように、これから起きることがらが自分の力ではなくて、神の力であると人々が信じるために、天の神に向かってご自身との関係を語ったのです。もし、いきなりラザロをよみがえらせたら、「イエスはすばらしい」となるでしょう。でもゴールはこの出来事を目撃した人がイエスと神との関係を信じ、神の栄光を体験することです。ここにイエスの使命とそれに忠実なイエスの謙遜が表れています。


 いよいよ神の栄光を人々に明らかにする時が来ました。イエスは遺体に手を置いたり、まじないを掛けるといった何らかの所作をせず、「出てきなさい」と大声でラザロに叫びました(43節)。イエスはラザロを死者として扱っていません。まさに、イエスにとってラザロは眠った者なのです。


 イエスの呼びかけに応えてラザロが出てきました(44節)。「巻かれていた包帯をほどく」というのはラザロの肉体が生きている人とまったく同じだからできるのです。つまり、死んだ肉体がどのようであっても、神はイエスを通してその人を完全によみがえらせることができるのです。


 イエスは以前こう語っています。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。(10:28)」罪に支配されているこの世では、死に引き渡されたらそれでお終いです。けれども、たとえ死であってもイエスの手からイエスを信じる者を奪い去ることはできません。「神がイエスに死を支配する権威を与えたこと」そして「死という罪の支配から人を解放したこと」これをラザロのよみがえりは人々に明らかにしたのです。マルタとマリア、よみがえったラザロはやみの中にあってイエスという光を体験し、イエスの栄光とイエスを遣わした神の栄光を見たのです。


■おわりに

 「イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。(11:25-26)」ラザロのよみがえりは、このことばが真実であることを世の中に証明しました。ですから、イエスを神の子救い主と信じている者は永遠に死ぬことはありません。たとえ肉体が死んでちりになったとしても、新しいからだで永遠に生きるのです。私たちにとって死は終わりではなく、永遠のいのちの始まりなのです。


 そして、もう一つの真実をラザロのよみがえりは私たちに明らかにしています。それは、この世の知識ではどうにもならないと判断しても、イエスが何とかしてくださる、という希望と平安がいつもあることです。マルタとマリアはラザロの死をどうにもならないと認め、深い悲しみと絶望にありました。けれども、イエスは彼女たちが思いもつかない方法、すなわちラザロのよみがえりによってマルタとマリアを悲しみから平安、絶望から希望へと変えました。私たちにもこのイエスがともにいてくださるのですから、イエスは思いもよらない方法で、私たちを悲しみから平安、絶望から希望へと変えてくださいます。たとえ世の中がくらやみであったとしても私たちにはイエスが光として輝いているのです。

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