皆さんはいつイエス・キリストという人物を知りましたか。クリスチャンの家庭に育ったり、あるいはキリスト教系の幼稚園に通っていた人は小さい頃から知っていたでしょう。教会の日曜学校で知った人もいますね。それ以外の方々はおそらく世界史で習ったのが最初ではないかと思います。ただし、ほとんどの人はイエスを初めて知った時に「自分に必要な人」とは気づいていません。でもイエスという約2000年前に生まれたユダヤ人は私たちにとって最も必要な人なのです。今日はバプテスマのヨハネによるイエスについての証言から、このお方が私たちの救い主であることを見てゆきましょう。
Ⅰ.バプテスマのヨハネはイエスを「世の罪を取り除く神の子羊」と証言した(1:29-34)
バプテスマのヨハネを調べるためにエルサレムから祭司とレビ人が彼のところに来ました。その時ヨハネは、自分は預言者やメシアではなく主の道をまっすぐにする役割があること、そして自分よりも遙かに優れた権威ある方が来られることを答えました。
その翌日、ヨハネは自分のところにやって来るイエスに気づきました(29-30節)。ここで彼が周りの人々に発した第一声が「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」でした。興味深いことに、前日に言った言葉「私にまさっているのはあの方だ」はその後なのです。結論から言うと、ヨハネはまずイエスについての真実、すなわち人が神の国に入るために必要なお方だと証言しているのです。
直後に語っているように、この時すでにバプテスマのヨハネはイエスに水のバプテスマを授けていました。彼はその時の出来事と神から遣わされた預言者としての役割から、イエスが救い主であり、どのようにして人を救うのかをわかっていました。悟っていたという言葉の方がふさわしいかもしれません。それが「世の罪を取り除く神の子羊」に表れています。
①世の罪を取り除く:ヨハネは「悔い改めなさい。神の国が近づいたから。(マタイ3:2)」と人々に伝えていました。ただし、悔い改めは神の国に入るための準備であり、世すなわち堕落した人間の罪を取り除く必要があります。なぜなら天地創造のときのように、神の国は神に従う者、言い換えれば背きという罪のない者が住む場所だからです。
②子羊:ユダヤ人にとって子羊は「罪を赦してもらうために神にささげるいけにえ」として定着しています(出エジプト12:5、レビ5章)。加えてイザヤ書では、自分たちの背きの罰を代わりに受けるいけにえとして知られています(イザヤ53章)。
③神の子羊:この子羊は神が用意したものです。
つまりバプテスマのヨハネはこう証言したいのです。「メシア(救い主)は人の罪を代わりに背負ってほふられるいけにえ。このいけにえによって罪を取り除かれた者が神の国に入れる。しかも、このいけにえは神が用意した。イエスがこのいけにえである。」このことはイエスの十字架での死とよみがえりによって明らかにされるので、この時点ではヨハネしか知り得ません。それゆえヨハネはイスラエルの人々に真実を叫ぶのです(31節)。この人こそ人にとって最も必要なお方だからです。
そしてヨハネは「世の罪を取り除く神の子羊」と確信した理由を説明します(32-33節)。ヨハネはイエスに水のバプテスマを授けた時、神が語ったとおり超自然的な現象がイエスに起きたのを確かに見ました。特に「聖霊が留まる」というのはイザヤ書に記されているメシアの預言です(イザヤ11:2)。それでヨハネは、これまでは誰がメシアか全然知らなかったけれども、この出来事によってイエスこそが預言されていたメシアだと確信したのです。同時に「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。(マタイ3:17)」と神が語ったことからイエスを神の子とわかったのです(34節)。
「世の罪を取り除く神の子羊」このことばはイエスが現代の日本にいる私たちにも子羊となっていることを示しています。「世」は特定の世代や特定の地域を言っているのではなく、罪ある人間が生きているこの世界を言います。だからイエスは2000年前のイスラエルにいる人々の罪を取り除くためだけの存在ではありません。神がご自身の子を「いけにえの子羊」として犠牲にした故に、最後の審判において私たちも罪が取り除かれて神の国に入れます。しかも、罪を取り除きたい気持ちも、いけにえの子羊を用意したのも、すべては神ご自身のあわれみによります。見方を変えれば「世の罪を取り除く神の子羊」ここには手柄とか実績とか能力といった人間に由来するものは一切入っていません。バプテスマのヨハネの証言には神のあわれみも明らかにされているのです。
Ⅱ.二人の弟子はイエスに接してイエスをメシア(救い主)と信じた(1:35-42)
翌日また新しい展開がありました(35-37節)。バプテスマのヨハネは二人の弟子を伴っていました。一人はシモン・ペテロの弟アンデレです(40節)。もう一人は使徒ヨハネと考えられています。バプテスマのヨハネはここでもイエスを「神の子羊」と呼んだので、弟子たちはイエスを知ろうとして彼について行きました。自分の師が不思議なことばを口にしたのですから当然かもしれません。ただしヨハネは弟子を引き留めませんでした。ヨハネは自分から教えを受けるよりも、イエスについて行って真理を知る方を優先したのでしょう。
イエスはついて来た二人に気づきました(38節)。イエスが口にした「求める」には「探す/何かのために人を訪ねる/欲しがる」の意味があります。ですからイエスは「この人が何者か知りたい」という思いではなく、彼らの奥底にある「渇望」のような心に目を止めているのです。ヤコブの井戸でサマリアの女に話しかけたときもそうでした。イエスは、彼女の渇きが水分ではなく心が満たされない渇きだから自ら近づいて言葉をかけました。
イエスの問いかけに二人の弟子は「ラビ」と尊敬を込めたことばとともにイエスの滞在場所を聞きました。どうしてもイエスを知りたいという彼らの気持ちが表れています。それでイエスは「来なさい。そうすれば分かります。」と答えて、彼らが求めているものを明らかにしようとしました(39節)。彼らは第十時、現代の時刻で午後4時頃イエスの滞在場所に着き、そのまま泊まりました。
翌日アンデレがある行動に出ます(41節)。「見つけて」は探していた物や人を見つける様を言います。しかも、「まず自分の兄弟シモンを見つけて」とあるように、イエスのことを他にも言いたくてしょうがないのです。
アンデレは「私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った」とシモンに話しました。ここで「会った」と訳されていることばは、先ほどの「見つけた」と同じですから、アンデレが探していたのはメシア(キリスト、救い主)だったのです。イエスが「あなたがたは何を求めているのですか。」と話した通りでした。アンデレはイエスと関わって自分が何を求めているのかを知り、そして求めていたメシアがイエスその人だったから、周囲の人々に教えたいのです。イエスというメシアに出会ったことが、二人の弟子にとってどれほどの驚きで喜びであるのかがわかります。あのサマリアの女もイエスに出会って求めていたものを与えられたから、日中人目を忍んで井戸に来ていたのに、町に行って人々にイエスのことを語りました。アンデレたちに前の晩何があったのか私たちにはわかりません。けれども、間違いなくアンデレたちはイエスと直に関わり「イエスが救い主」という真実を受け取りました。
さてアンデレは兄シモンをイエスの所に連れてきました(42節)。イエスはシモンをじっと見て、「ヨハネの子」という彼の血筋と「ケファ(ヘブル語、ペテロはギリシア語)」すなわち「岩」という彼の性質を見抜きました。これはまさに、イエスが全てを見抜く神である証拠です。アンデレたちに言ったことば「あなたがたは何を求めているのですか。」「来なさい。そうすれば分かります。」これも人の心を見抜く神であるから言えるのです。
イエスはその人が何を求めているのかを明らかにし、そして求めているものをお与えになります。その中でも最も人に必要なのは、罪による滅びから救われることです。イエスに関わり、イエスの真実を知った人は、「この方こそ私の罪を取り除く神の子羊」とイエスから知らされます。そして、その人はアンデレたちのごとくイエスを救い主と呼ぶようになるのです。
アンデレたちは最初イエスを尊敬を込めてラビと呼びました。この時点ではまだ自分の救い主と受け取っていなかったのです。しかしイエスと直接関わった後、彼らにとってイエスは救い主になりました。同じように私たちも、イエスを最初に知った時は歴史上の人とか聖書の登場人物、あるいは教会学校で聖書のお話に出てくる人くらいにしか見ていませんでした。しかし、聖書を通してことばなるイエスと関わり、イエスの不思議な働きによって平安やなぐさめを与えられて、イエスは「自分の罪を取り除く神の子羊」となりました。だから私たちはイエスを「神の子羊/救い主/我が主/イエス様」と人前で言えるのです。聖書に登場するイエスは書物の中にいるのではなく、今地上に生きている私と直接関わっているのです。
Comentarios