■はじめに
私たちの人生には「道理の通らないこと」いわゆる不条理な出来事があります。日本で最も根ざしている道理は「善行は喜ばれ、悪行は怒られる」というものです。けれどもその道理に反することが至る所で起きているのが今の社会です。例えば、「会社の不正を指摘したら異動させられた」「電車内のマナー違反を注意したら殴られた」、その反対に「不正をした者が昇進した」というのもあります。このような世の中を私たちはどう生きてゆけばよいのでしょうか。今日はその知恵を伝道者の書から見てゆきます。
■本論
Ⅰ.人は神の正しさに決して到達できない(7:15-22)
7章前半において伝道者は知恵ある生き方をこう語っています。「すべてが神のなさることだから、人は自分を正しいと定めるのではなく、神に従っているかどうかをチェックし修正する。」ただし神がなさることとは言え、納得できない事実がこの時代にもありました。
正しい者が若死にし、悪い者が長生きする、これは神の契約いわば道理に合っていません(15節)。神はイスラエルの民に「従えば祝福、背けば災い」を約束しました(申命記11:26-28)。ですから本来であれば、正しい者は祝福のしるしである長寿、悪い者は災いのしるしである短命となるはずです。でもそうなっていないのはここに人の知り得ない神のご計画があるからなのです。さらに言うならば、祝福と災いの契約は最後の審判で完全に実行されますから、「正しい者が短命、悪い者が長寿」は神の契約違反とは言えないのです。
ところが、人は自分の知り得る範囲がすべてと信じてしまう性質があります。そのことに伝道者はこう警告します(16-17節)。「正しすぎる/知恵のありすぎる」とは、自分の正しさを神の正しさと同じかそれ以上にしている様です。15節の事実に当てはめてみれば、「神は間違っている」となるか「神は間違わないから人の方に何かがある」となります。ヨブ記に登場するヨブの友人は「神は絶対に正しいから、ヨブに罪がある」と自分たちの知恵を押し通そうとしています。
一方、「悪すぎる/愚か」とは、世の中が「祝福と災い」の契約通りになっていないので、「何をしても災いはない」あるいは「神はいない」という態度です。これも自分の理屈を神よりも上に置いています。それゆえ、正しすぎる者も悪すぎる者も神をないがしろにしているから、両者とも「滅び」という同じ結末になるのです。
それで伝道者はこう勧めます(18節)。「一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。」は「正しすぎない、悪すぎない」生き方を示しています。神を畏れる者は自分を神の下、すなわち「これもあれも神のなさること」だからそれを納得するのです。20節「この地上に、正しい人は一人もいない。」とあるように、決して自分を神と同じ完全としないのが知恵のある者の姿です。同時に知恵ある者は「神はいない/神の支配はない」という思想を避けます。たとえ不条理な出来事に遭ったとしても、「自分には分からないけれども、きっと神に何らかのご計画があるはず」と受け取れるから、生きる力を失いません。これが知恵が力づけるという真実です(19節)。
もし、「自分は完全に正しい」となったら、「人の語ることばをいちいち心に留めてはならない。(21節)」とあるように、他者のふるまいばかりに目を向けて、悪とか失敗といったあら探しの毎日になってしまいます。その人は「あなた自身が他人を何度もののしったこと(22節)」のように自分の悪を棚に上げているのです。
パウロはローマ人への手紙の中で「義人はいない。一人もいない。(ローマ3:10)」と語りました。人はいくら知識を持っても、良いことをしても神の正しさには到達できません。なぜなら私たちが生まれつき持っている「善悪を判断する物差し」が正確ではないからです。例えば10㎝なのに9㎝とか11㎝と測ってしまうようなものです。だから、喜ばしいことがあっても、不条理なことがあっても自分の判断を完全としないで、完全な正しさである神のことば、すなわち聖書に照らし合わせるのです。そして、分からないことや将来のこと、あるいは自分の手には負えないことを神に委ねるのです。「あれもこれも私を大切にしてくださる神のなさること。だから神を信頼し、私はすべきことをする。」これが神を畏れる知恵ある者の生き方です。
Ⅱ.人は神の知恵に決して到達できない(7:15-29)
伝道者は、人は神と同じ正しさにはならないと理解しました。それで、あらゆることを解明したり解決するための知恵を求めました(23節)。
伝道者は「今までにあったことは、遠く、とても深い(24節)」と分かり、この世のあらゆるものごとを知恵で解明するのは不可能という結論に至りました。先ほどの「正しい者が若死にし、悪い者が長生きする」は解明できないものごとの典型的な事例です。詰まるところ彼は人の限界を悟ったのです。ことばを加えるならば、人はどれほど努力しても神の知恵には及ばないのです。
それで伝道者は求めるものを変更しました。彼は人間のなすこと、とりわけ愚かさに目を留め、「なぜそんなことをするのか」を観察しました(25節)。なぜなら罪に陥らない人はゼロだからです。伝道者は知恵すなわち愚かになる理由、さらに道理すなわちどのような仕組みで愚かに至るのかを探し求めました。その結果が26節です。彼は女性の性的誘惑に乗る愚かさ、いわゆる姦淫の罪を観察しました。おそらく、この時代において目にする機会が一番多かったからでしょう。
彼は女が誘惑という罠をしかけて、その罠に男がかかるという仕組みを見つけました。その上で彼は罪に陥る者が姦淫に至るという、愚かさの理由を見出しました。つまり神以外の何かで心を満たそうとする者が女の誘惑にはまってしまうのです。そしてそういった者たちが人の大部分を占めていた状況を明らかにします(27-28節)。
伝道者は一人一人を観察しました。その結果、知恵によって罪を遠ざけ正しく生きている者は男性では千人に一人でした。しかも女性はゼロです。この書き方からすれば男性の方が女性よりも知恵があるように見えますが、当時のユダヤ人は女性よりも男性が優っていると信じているので、その影響が含まれているのでしょう。事実、愚か者については男性の罪が取り上げられていますから、男性が優れているとは言えません。ここで伝道者が言いたいのは、「千人に一人あるいはゼロ」のごとく、知恵によって生きている者はごくわずかという事実です。姦淫の様子が詳しく記されていることからも明らかなように、人は容易に罪に陥ります。言い換えれば、神に従って生きるという知恵ある生き方は人にとって本当に難しいのです。それほど神以外に頼ろうとする力、神以外で心を満たそうとする力は大きいのです。
この事実をふまえて、伝道者は人の性質をこのように言います。「人は多くの理屈を探し求めた(29節)」とあるように、人は「なぜ神はこのようになさったのか」という理由や仕組みを求めます。「正しい者が若死にし、悪い者が長生きする」などは典型的な事例です。これが真っ直ぐではなくなった人の姿なのです。つまり、真っ直ぐというのは神がなしたことをその通り受け入れることなのです。
「真っ直ぐ」ということばには「正しい/平静」の意味があります。神が人を造った時、人は神の判断を仰ぐ正しい生き方をしていました。当然、神のなさることを100%信頼していますから、不安や恐れがなく、いつも平静を保っています。しかし、善悪の知識の実を食べた結果、自分の判断を優先するようになったから、自分の考えや願いとは違う状況に対して「神様どうして」となり、平静でいられなくなるのです。「私たちには分からないことがある。けれども神のなさることだから信頼する。」これが人の限界をわきまえて、神の全知全能と計り知れないあわれみを信じる者の姿です。
■おわりに
人は自然を通して、あるいは歴史を通して、あるいは人の生き様を通して、そして聖書を通して神の存在と神のご性質を知り得ます。しかし、無限(空間的領域)と永遠(時間的領域)を司る神のすべてを知っているわけではありません。人が神について知っているのはわずかなのです。だから、ヨブ記でも「神のことを分かっている」と主張して譲らないヨブに対して、神は「分かっているなら、告げてみよ。あなたは知っているはずだ。(ヨブ37:4-5)」と語り、人が絶対に分からないことがらを次々と問いかけて、人はご自身のごくごく一部しか知っていないことを示すのです。
私たちは正しさにおいても知恵においても神の領域に達することはありません。それゆえ、説明できないことがあっても、それが不条理だとしても、神のなさることとして受け入れ、神を信頼して生きるのです。ただ喜ばしいことに、伝道者の書の時代よりも現代の方がより確かな安心があります。なぜなら、死んでよみがえったイエスがいつもともにいて、平安を与えてくださるからです。「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)」このことばを信じて生活するのが知恵のある者の生き方です。
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