■はじめに
柴犬や秋田犬のような日本犬は自立心が洋犬よりも強いと言われています。そのため、飼い主に頼らなくても自分で行動パターンを考えることもできるそうです。我が家の柴犬ニッキもまさにその通りの性質で「今日は絶対にそっちには行かない/雨の日は車でなければ散歩に行かない」といった頑固なところがあります。だからでしょうか、そんなニッキを見ていると「神様も自分のことをこんなふうに見ているのかな」と思ってしまいます。今朝は、人の頑なさと神のみこころについて聖書に聞きます。
Ⅰ.イザヤの預言通り、ユダヤ人の心は頑なだったのでイエスのことを見聞きしても神の子救い主と信じなかった(12:37-43)
これまで見てきましたように、ユダヤ人は「ローマ解放のメシア」という見当違いの期待をイエスにかけていました。ですから、群衆の前に姿を出せば大騒ぎとなり、イエスを殺そうと狙っている連中にあっさり捕まってしまうでしょう。それで、十字架の時にまだ至っていないので、イエスは群衆から身を隠したのです。
この時のユダヤ人の様子をヨハネはこう記しています(37節)。イエスはこれまで、ベテスダの池でのいやし、5千人の給食、生まれつきの盲人のいやし、ラザロのよみがえりなど数々の奇蹟を行い、ご自身が神であるしるしを示してきました。にもかかわらず、ユダヤ人たちは永遠のいのちを与えるメシアとは信じず、ローマを倒して神の国イスラエルを再建するメシアと確信していました。真実に目が開かれていないのです。
けれどもこの事実はすでに預言者によって語られていました(38節)。
・私たちが聞いたことを、だれが信じたか:神から聞いたことばを誰も信じない
・主の御腕はだれに現れたか:主の力がイエスに現された
イエスが神のわざを伴って神からのことばを語っても、だれ一人、イエスが永遠のいのちを与える救い主だと信じていません。その証拠にイエスへの期待が外れると、群衆はおろか弟子たちもイエスを見捨てています。41節にあるように預言者イザヤはイエスによる救いを神から示されました。それでこの時代から約700年前にイザヤはこうなることを語ったのです。
さらにイザヤはなぜそうなるのかも語っています(39-40節)。ユダヤ人が信じないのは目が見えず、心が頑なだからです。「目が見えない」とは何を意味しているのかを理解できないことを言います。また「心が頑な」とは化石のように固くなって動きようがないことを言います。つまり、外からの働きかけに対して全く応じない心を指しているのです。たとえイエスの奇蹟やことばの意味を分かったとしても、それを自分のためとして受け入れず、変わろうとしないのが頑なな心なのです。その頑なさを生み出しているのが神よりも自分を優先する罪です。
イザヤは「立ち返ることもないように。そして、わたしが彼らを癒やすこともないように。」と語ります。神は「ユダヤ人が立ち返って、彼らを癒したい」のですが、彼らが頑ななのでそうしないのです。つまり、「イエスを信じて神に向き直れば、滅びから救う」これが神のみこころなのです。ですから、心を頑なにするというのは単に自分の思いにこだわっているのではなく、人を滅びから救いたい神の思いを踏みにじっていると言えます。神は、あわれみによって滅ぶべき人に助かる道をイエスを通して備え、教えています。頑なというのは背きの上にさらに無関心あるいは無視を重ねているのです。
このような中、驚くことも起きていました(42節)。最高法院の議員は預言書のような旧約聖書の専門家です。信じた者たちはイエスの言動からイエスが預言されたメシアだと確信したのでしょう。しかし彼らはそのことを口にしませんでした。なぜなら、もし「イエスはメシアだ」と口にしたら、戒律に厳格なパリサイ人から「戒律をないがしろにするイエスを支持した」と責められ、会堂追放いわば身分剥奪となるからです。43節「神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛した」とあるように、地位や名声といった人から敬われる立場を失うのを恐れたのです。せっかく目は開いていたのに、自分の身を第一としたために心を頑なにしているのです。神は祝福したいと思っているのに、頑なさがそれを遠ざけています。
私たちはイエスを信頼し、イエスのことばはすべて正しいと信じています。しかし、いまだに心の頑なさは残っているので、イエスのことばに従えないのも事実です。神は立ち返ったら癒したい、と望んでいるのに、私たちは「自分の思い通りになることが幸せ」という信念から神の働きかけを拒否するのです。イエスのことばを退けて思い通りにしたことが苦難の始まり、といった経験があるかと思います。私たちよりも全知全能の神の方が勝っていることを忘れてはいけません。
Ⅱ.ユダヤ人が頑なであっても、イエスは人にとって最も大事な永遠のいのちについて彼らに叫んだ(12:44-50)
身を隠していたイエスが行動を起こします(44-45節)。身を隠していたのに、群衆の前で叫ぶのは矛盾しているようですが、これには理由があります。イエスが叫んでいることがらは、これまで語ってきたものです。そして、群衆に語るのはこれが最後です。つまり、ユダヤ人がこのままであるなら間違いなく滅びに向かうので、イエスはこれまでの教えの要約を大声で語るのです。滅びからの救いという視点からすれば、これは永遠のいのちへの最後の案内であり、さばきという視点からすれば、これは最後の警告と言えます。神のみこころは「ユダヤ人が立ち返って、滅びから救われること」ですから、イエスは危険を顧みず滅びから救われる術を語るのです。
イエスは最初に、神からこの世に派遣されたことを語りました。神はこれまでご自身のこと、さらに約束すなわち「従えば祝福、背けばのろいを受ける」という契約を人を通してユダヤ人に示してきました。旧約聖書に記されているように、モーセのような民族のリーダー、ダビデのような王、イザヤのような預言者を通して神は人々に教えています。そして時至って、神であるイエスがこの世に来られて滅びからの救いをユダヤ人に伝えます。イエスは神の代理人ですが「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見る」とあるように、神が直接見て聞いて触れられる形でユダヤ人に救いを伝えるのです。
次にイエスが語るのはご自身の役割です(46-47節)。闇の中では、どこに向かえばよいのかはもちろんのこと、自分の状況さえ分かりません。それと同じように、人は自分がどのような者であり、将来どうなるのか、何をすればよいのかを教えてもらえなければ分かりません。人を造った神からすれば、ご自身に背く人をそのまま放っておいても良いのです。けれども神はあわれみのゆえに、人には罪があること、そのままでは罪ゆえに永遠の滅びに行かなくてはならないこと、そしてイエスを信じれば滅びを免れることをイエスを通して明らかにしました。まさにイエスが光であり、イエスによって人は救いを知るのです。
ここでイエスは、さばきすなわち「ご自身のことばを聞いて守らず、ご自身を拒否する者」への判決は自分の役割ではないと言います(48-49節)。イエスを拒む者は終わりの日、言い換えればイエスが再びこの世にやって来る日に判決を受けます。有罪か無罪かはすでにイエスの語ったことばの中に示されています。しかもイエスは独断で語らず神から命じられたことを語りました。つまり、「イエスを拒む者」に神が有罪判決を出すのです。
イエスは群衆に対して最後に言います(50節)。「父の命令が永遠のいのちであること」とあるように、「イエスを信じて神に向き直れば、滅びから救い、永遠のいのちを与える」これが神のみこころです。「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。(6:40)」イエスはすでにこう語っています。だからユダヤ人の心が頑なであっても、イエスはご自身を信じるように叫ぶのです。ここに神そしてイエスのあわれみがあります。
■おわりに
終わりの日に神はすべての人に判決を出します。イエスを拒む者には有罪を、イエスを信じる者には無罪を申し渡します。有罪の者は永遠の滅び、無罪の者は天の御国での永遠のいのちに行きます。ただし、人は本来神に背く罪を持っているので、イエスに従えないから例外なく有罪判決になります。けれども神はそんな人をあわれんでくださり、無罪判決にしたいのです。だから神はイエスをこの世に遣わして救いの方法を伝え、十字架で死なせて、人の罪をイエスに肩代わりさせたことを目に見える形で示しました。さらに、死んだイエスをよみがえらせて天に戻し、イエスを信じる者がどうなるのかを目に見える形で示しました。人にとって最も必要なのは永遠のいのちだからです。
人は自分の思い通りになることが幸せと信じています。そのためであればイエスのことばに耳を傾けます。けれども自分の幸せに結びつかないと思ったらイエスとは関係を持ちません。永遠のいのちはその典型と言えます。これが自分を最優先にしイエスを退ける頑なさです。けれども神からすれば私たちの幸せは天の御国での永遠のいのちとこの世での平安なのです。この世でいくら思い通りに過ごせたとしても、終わりの日に有罪判決になる方がはるかに悲惨なのです。「そうなって欲しくない」というあわれみを、神はイエスを通して私たちに知らせました。神のそしてイエスのあわれみを知れば、心が柔らかくなるのです。
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