■はじめに
イエスはユダヤ人に福音を伝えるため、弟子たちをその働きに送り出しました。ただしその際「人々があなたがたを受け入れないなら、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。(ルカ9:5)」と命じました。同じユダヤ民族であっても、イエスを救い主と受け入れる人と拒否する人がいることをあらかじめ伝えたのです。このことは異邦人においても同じです。パウロがアテネで福音を語った時にイエスを信じる者もいれば、パウロをあざ笑ったり「また聞くことにしよう」と無関心の者もいました(使徒17:32)。聖書を見ても、あるいは現実の世界でも、福音を聞いてイエスを信じるかどうかは民族や性別、職業、宗教といった、いわゆるその人の所属に関係ありません。今日は「人がイエスを救い主と受け入れるときには何が働いているのか」このことをみことばに聞きます。
■本論
Ⅰ.神に愛され選ばれている者に「力と聖霊と確信を伴った宣教」と「喜びを伴った受け入れ」が生じる (1:4-6)
パウロはテサロニケの教会を「神と主イエス・キリストにしっかりと結びついている教会」と呼びました。というのもテサロニケのクリスチャンが「信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐」を実践していたからです。ここでパウロは彼らがどうしてそうなったのかを明らかにします(4節)
信仰の告白と生活はあくまでも本人の意思によります。けれども「神に愛されている/神に選ばれている(4節)」とあるように、パウロは「そのようにさせているのは神による」と言います。このことはイエスも同じで「父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない(ヨハネ6:65)」と言っています。つまり、「神が愛して救いに選んだ者」がイエスを信じるのです。
それでパウロは「テサロニケの人々が神に愛され選ばれている」証拠を語ります(5節)。パウロは「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならなかったのです。私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリストです(使徒17:3)」このことば、すなわち福音をテサロニケで語りました。この時パウロは「力と聖霊と強い確信を伴って届いた(5節)」から、聞く側が「神に愛され選ばれている」と分かったのです。
「力と聖霊と強い確信を伴う」は語る側においては、ここでの宣教が神のみこころという確信の中で、異教の地で堂々と語れる力が聖霊を通して神から与えられた事実です。一方、福音を聞く側においては、聖霊を通して神が福音を受け入れさせて、イエスが救い主だと確信させ、信仰を告白する力を与えた事実です。この事実はテサロニケの人々も認めていますが、パウロは特に一つの出来事を「福音が力と聖霊と強い確信を伴って届いた」根拠としています(6節)。
この当時、福音は異邦人社会にとっては初めて聞く一風変わった教えです。その一方、ユダヤ人にとっては受け入れ難いというよりも神冒涜に値します。ですから、もし「このイエスこそキリストです」と告白したならば、あざけりや脅迫といった苦痛を受けるのは明白です。けれども、テサロニケのクリスチャンは、苦痛を受けながらも、この世のものではない不思議な喜びを伴ってイエスを救い主と告白し、パウロやキリストをお手本としてこれまでとは全く違う生き方になりました(6節)。
この有様を見てパウロは「力と聖霊と強い確信を伴って、福音があなたがたの間に届いた」と理解したのです。そして、このことはこの世の常識では到底あり得ない反応だったから、パウロは「神に愛され神に選ばれた」からと結論づけたのです。かつて自分に起きたことと同じだから、パウロはこう言えるのです。
ある冊子で「神に愛され神に選ばれた」ことについて次のように書かれていました。「私たちも、ある時まで全くわけのわからなかった十字架の福音を今信じている。同じ話を聞いても信じなかった人々のいた中で、なぜかこの私が救われ、主をほめる者とされている。選ばれていたのだ。心躍る事実ではないか。(みことばの光,2016.No1、聖書同盟)」キリストによる救いとそれを信じる信仰はあくまでも神のわざです。だから私たちは私たちを愛してくださっている神に仕えようとするのです。
Ⅱ.神に愛され選ばれている者は、まことの神に仕え、御子イエスが天から来るのを待つ(1:7-10)
続けてパウロは、テサロニケのクリスチャンの信仰について語ります(7-8節)。パウロは、マケドニアやアカイアといったギリシャ地方だけでなく、自分が訪問した場所のすべてで、テサロニケの人々の姿がお手本になっていると言います。というのも、彼らが「主のことば」すなわち福音を語り、キリストを信じる者の生き様を世の中に現しているからです。しかも「私たちは何も言う必要がありません。」とあるように、パウロたちの助けを必要としないほど、しっかりとした信仰になっている、とパウロは認めています。イエスを救い主と信じてから間もない上、ユダヤ人からの攻撃もあるのに揺るぎない信仰となっているのを、パウロは驚き喜んでいるのです。
ここでパウロはテサロニケの人々の生き様が何を明らかにしているのかを語ります(9-10節)。パウロは訪問した土地で、そこのクリスチャンたちからテサロニケの人々に生じたことを知らされました。そのことがとても驚くべきことだから、知れ渡ったのでしょう。
テサロニケの人々に生じたこととは、福音を伝えているパウロたちを受け入れたこと、そして福音を聞いて偶像から神に立ち返ったことです。ちょうど、私たちがどのようにして教会に集い、イエスを信じるようになったのか、という証しと同じです。この手紙の当時、テサロニケにはディオニュソスやオルフェウスといったギリシア古来の神秘宗教が浸透していました。また、イエス・キリストを否定するユダヤ人たちもいました。そのような中で「ユダヤ人イエスが救い主」と語っているパウロを排除せず、無関心にもならず、3回の安息日にわたってことばを聞いて論じ合うというのは(使徒17:2)、驚きに値するのです。
しかも、福音を聞いた者の中から「天地万物の創造主であり、イエスの父である」神を信じ、イエスを救い主と信じる者が生まれました。異教の信仰からキリストの信仰に向きを変えたのです。その結果、2つのことがらが信じた者から現わされています。
①生けるまことの神に仕える(9節):これまでは、自分の願いを叶えて欲しいから、色々な神の好意を得るために、祈ったり供え物をささげていました。ただし、それが叶えられるかどうかはわからないままでした。しかし、イエスを救い主と信じた今は、すでに救いを与えられ、加えて日々の歩みを支えてくださっているから、生きて働かれている神に仕えるのです。いわば、与えてもらうための信仰から、すでに与えてくださった方への感謝から生まれる信仰に変えられたのです。
②御子が天から来られるのを待ち望む(10節):キリストによって滅びから救われた者の最大の関心事は、御子イエスが父のおられる天からこの地上に再び来られるとき、いわゆる再臨です。なぜなら、「御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエス」だからです。ユダヤ人イエスを神の御子、救い主キリストと信じる者は、再臨における神の審判で無罪となり神の怒りを免れて、天の御国に入ります。そして、そこで永遠の平安を生きるのです。それゆえ、信仰によって天の御国を約束された者は、御国を希望としながら御子が再びやって来るのを待つのです(ピリピ3:20)。
「偶像から生けるまことの神に立ち返る」「御子が天から来られるのを待ち望む」これはまさしくパウロの人生です。ダマスコへの道でパウロはキリストと出会い、キリストを否定する人生から、キリストを伝える人生に変わりました。律法を守るだけでは決して受け取れなかった神の義を、キリストを信じることですでに受け取ったからです。しかも、それはパウロの知恵や努力といった彼自身から生じたのではありません。これが神の一方的なあわれみであり、選びなのです。パウロはテサロニケの人々に起こったことが、まったく自分と同じだから彼らを「神に愛され選ばれている」と言うのです。
■おわりに
かつては私たちも、まことの神ではないものに仕えていました。自分の願いを叶えてもらうために願をかけたり、験(げん)を担いだり、迷信を信じていました。また、御子イエスの再臨ではないものに希望を置いていました。しかし、そんな私たちが何かをきっかけにして福音を聞くことになりました。そしてある時、「イエスは私を滅びから救う救い主」と信じました。その結果、私たちは「偶像から生けるまことの神に立ち返る」「御子が天から来られるのを待ち望む」人生になりました。叶えてもらうための人生から、叶えてくださった神に感謝する人生に方向が変わったのです。その証拠が祈りと礼拝の生活です。どうしてそのようになったのか、私たちは経緯を語ることはできますが、どうしてそのような意思が生まれたのかはわかりません。「神に愛され選ばれている」としか言いようがないのです。天の御国が希望だと気づいたとき、あるいは聖霊を通して神が助けてくださっていると気づいたとき、私たちは選んでくださった神に感謝しましょう。
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