9月22日「昼の者と夜の者」(テサロニケ人への手紙 第一 5章1-11節)
- 木村太
- 2024年9月22日
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■はじめに
2011年の東日本大震災以降、日本では防災の意識が高まりました。例えば、新聞やテレビで防災を取り上げる回数が大幅に増えたり、ホームセンターでは防災用品のコーナーが設けられています。特に北海道では、2018年の胆振東部地震をきっかけにして停電に備える人が多くなりました。ただ、防災で大切なのは「いつ、どこで」を知ることよりも、どんなことが起きるのかを把握することです。それを知らなければ危機に対応できません。今日は、主の日に対して私たちはどう備えればよいのかを聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.盗人が夜やって来るように主の日は襲ってくるが、私たちは昼の者なので襲われない(5:1-5)
パウロは、主イエスの来臨前に眠った信者についてテサロニケの人々に教えました。その流れから今度は「主の来臨する日」について語ります。
パウロは「主の日」すなわちイエスが再びこの世にやって来るときに関して、年月日とか前ぶれといったことがらをテサロニケの人々に教える必要はないと言います(1節)。なぜなら、人の気づかない夜に盗人が入って来るごとく、主の日は突然やって来ることを、彼らが十分に理解していたからです(2節)。彼らはパウロから教えられたことにしっかりと留まっていたのでしょう。
続けてパウロは主の日がどのようにやって来るのかを語ります。「平和だ、安全だ」と言っている人にとって主の日は、妊婦の陣痛のように突然やってきて、破滅をもたらします(3節)。皆さんもご存じのように、イエスが再臨する主の日は神の審判がなされる日であり、イエスを救い主と信じる者は無罪となって天の御国に、信じない者は有罪となって永遠の滅びに定められます。ですから、主の日が近づいているというのは、人にとって最も大きな危機が迫っていることなのです。
つまり「平和だ、安全だ」と言っている人は、この世のことだけを見て、あるいは自分の状況だけを見て「平和だ、安全だ」と判断しているのです。神の審判が迫っているという危機感を全く持っていません。その証拠に、イエスを否定するユダヤ人は信者を迫害していますし、異邦人は福音に関心がありません。ちょうど、南王国ユダがバビロニアの攻撃を受けているとき、「これは神のさばきだから悔い改めなさい」とエレミヤが告げていても、ほとんどの者たちが「自分たちは神の民だから平安だ平安だ」と口にしているようなものです。
すべての人は神に背く性質を持っていますから、すべての人が主の日に永遠の滅びに定められています。戦争や紛争のない社会で、喜び楽しみながら生きていても、真実は想像を超える危機に直面しているのです。だからパウロは「いつとか前ぶれ」を知ることよりも、「主の日は突然の破滅をもたらす」ことを知るべきだと強く言うのです。
ただしイエスを信じる信者はそうではない、とパウロは言います。パウロは信者を「光の子ども、昼の子ども」のように、光であるキリストに所属し、さばきを免れた勝利や喜びの者と呼んでいます(4-5節)。反対に、主の日に無関心で「平和だ、安全だ」と言っている者を「夜の者、闇の者」のように、恐怖と苦痛だけの永遠の滅びに向かっている者と呼んでいます。信者は光であるキリストに属しているから、突然主の日がやってきても闇すなわち永遠の滅びに飲まれることはありません。加えて、日中にいるように、神の創造や摂理、介入といった神のわざやみこころに気づきます。それゆえ、主の日に備えることができるのです。
イエスは弟子たちに主の日すなわち世の終わりの日の前ぶれについてこう言いました。「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします/民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。(マタイ24:5,7)」それで、現代でも全世界での出来事をイエスのことばに照らし合わせて「主の日は間もない」と判断する方もいます。しかし、大事なのは正確な日付を知ることではありません。「しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。(マタイ24:13)」とあるように、主の日まで信仰を保って、天の御国に入ることが最も大事なのです。私たちは「平和、安全」のように現実を見て適切な対処をとります。ただし、主の日から目を離さないことが肝心です。
Ⅱ.私たちは昼の者として目を覚まし身を慎み、主に従って主とともに生きる(5:6-11)
パウロは「あなた方は昼の子・光の子だから主の日が突然来ても滅ぼされない」と励ましました。ただし、だからといって何もしなくてもいいとは言いません。昼の子・光の子としてふさわしい生き方を勧めます。
いつの時代もどの社会でも、人は「平和で安全ですべきことから解放されている」ときに眠ったり、酒に酔います(7節)。絶体絶命の危機が迫っている中で寝込んだり、泥酔するのはあり得ません。しかし、先ほども申しましたように、主の日に無関心な者あるいは神のことばに耳を傾けない者は、「このままでは滅びる」という危機を意識していません。それでパウロは信者ではない他の者、すなわち危機感がなく神のみこころに気づかない者を眠った者・酔った者と呼ぶのです。
それゆえパウロは信者に対して、「危機をわきまえている者、神のみこころを知っている者」として、「目を覚まし、身を慎んでいましょう。」と言うのです(6節)。「目を覚ます」は自分の信仰の様子を注意することを言います。また、「身を慎む」は「しらふ」の意味ですから、キリストを信じる者として今何をすべきかを判断して行動することを言います。簡単に言えば、信者は現実のことよりも自分と神との関係にいつも気をつけるのです。
そのように生きるための方法をパウロはこう言います。「胸当てとかぶと」は兵士が致命傷から身を守るための装備です(8節)。エレミヤの時代と同じように、「主の日、さばきの日が来る」と告げても、「今の平和と安全が大事だ」という声に信者や教会は圧倒されます。つまり、信者は「信仰よりも現実でしょ」という、いわば信仰から引き離す力にさらされているのです。それでパウロはそのような力から身を守るために、「信仰・愛・救いの望み」を身に着けるように命じるのです。
【誘惑】 【守り】
・自分の思い通りになることが安心 →信仰:神を信頼し、神の助けがあることが安心
・金銭、地位などこの世のことを大事にすべき →愛:神が一番大事
・人にとって人生だけが重要 →救いの希望:永遠に続く天の御国に入ることが重要
信者は「主の日」の滅びを免れていますが、主の日が来るまで信仰から引き離す力を退けながら、神のために生きるのです。
パウロはなぜ主の日までそのように生きるのかを教えます。絶対に逃れられない主の日のさばきを信者が免れたのは、その人の人柄とか努力ではありません。神が滅びからの救いに定めて、イエスによって救ってくださったのです(9節)。しかも「主が私たちのために死んでくださった」とあるように、私たちが受けるべき神の怒りをイエスが引き受けてくださいました(10節)。それが十字架刑でのイエスの死であり、神が犠牲を払った証拠です。
神の子イエスの死によって、「目を覚ましていても」すなわちこの世でも、「眠っていても」すなわち死んだ後の天の御国でも、私たちはイエスとともに生きているのです(10節)。だから何があろうとも私たちは常に永遠に「イエスと一緒」という「平和と安全」に生きているのです。つまり、「信仰・愛・救いの望み」を身に着け、神のために生きるというのは、神への感謝から生まれるのです。主の日のさばきを免れるためではありません。
ただし、私たちを信仰から引き離す力、言い換えればこの世のことだけに目を向けさせようとする力は非常に強いものです。クリスチャンや教会への迫害や脅迫はその最たるものですが、クリスチャンとしての生きにくさもあります。あるいは、「欲望の満足こそが喜びや安心」といった世の中の流れもあります。だから11節のように、私たちは単独ではなく共同体として生きなければなりません。ソロモンもこう言っています。「一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。(伝道者4:12)」主の日が来るまで、私たちは教会を中心として互いに結びつきながら信仰を貫くのです。
■おわりに
私たちは主の日がいつ来るのかわかりません。しかし、主の日における審判で無罪となり永遠の滅びを免れて天の御国に入ることは決定しています。だから、主の日を恐れたり不安にさいなむことはありません。しかも、365日24時間イエスがともにいてくださいます。これにまさる安心はありません。それゆえ、私たちは主イエス・キリストが再び来るまで神を信頼し、愛し、救いの望みを抱いて、神のために生きるのです。
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