■はじめに
イエスは弟子たちに「一緒にいる」ことについて2つの約束をしました。
「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:20)」
「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。(ヨハネ14:3)」
マタイの福音書は地上での人生への約束、ヨハネの福音書は天の御国での人生への約束です。つまりイエスは地上でも天の御国でもイエスを信じる者といつも一緒にいて離れないのです。けれども私たちはイエスではないものに頼ろうとしたり、イエスが一緒にいることを忘れたりすることがあります。イエスは決して離れませんが、私たちが離れようとするのです。そこで今日は私たちがイエスと一緒に生きるための方法についてみことばに聞きます。
■本論
Ⅰ.私たちがイエスから離れないためには、他者からの教え、点検、戒め、励ましが必要(5:12-15)
パウロは「信仰・愛・救いの望みによってイエスから引き離す力を退けながら、イエスとともに生きる」これが主の日に備える生き方だとテサロニケの信者に教えました。その上で、イエスとともに生きる方法を具体的に示します。なぜなら、イエスを否定するユダヤ人が彼らを苦しめているため、彼らはイエスから離れる危険にさらされているからです。パウロはまず、教会の指導者を含む信者同士のあり方について語ります。
パウロは最初に信仰の指導者あるいは監督者に対して「彼らの働きを重んじなさい」と願っています(12節)。ただし「願う」は「必ずやるように」という気持ちが込められていることばです。
①あなたがたの間で労苦する:自分のことはさておいて、骨折りながらみことばを教える
②主にあってあなたがたを指導する:信仰を保ち、神のみこころに従えるように導く
③訓戒する:正しい歩みをしていない者に対して忠告や警告を発し、諫め教える
そして、指導者の働きを重んじるだけでなく、「その働きのゆえに、愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい。(13節)」と命じます。「尊敬を払う」は直訳では「必要であると思う」を意味します。この3つの働きは、イエスから離れないだけではなく信仰を高めるために必要なことがらです。それゆえ、すべての信者にとって必要だから指導者を重んじ、尊敬を払うのです。そこから、指導者との平和が生まれます。言い換えれば、「自分は完成している」という高ぶりを持ってはならないのです(13節)。
続いてパウロは信者同士のあり方について言います(14節)。「勧めます」は「できればやって欲しい」というのではなく「怠惰な者」をはじめ次に挙げる人がいたならば必ずやりなさい、という意味が込められています。
①怠惰な者を諭す:怠惰は「兵士が隊列から離れる様」を意味します。つまり、すべきことやあるべき状態からずれている者を戒め、教えるのです。(「そうではなくて、こうです」というイメージ)
②小心な者を励ます:小心は「主に落胆する様」を意味します。つまり「主を信頼して何になるのか/主を信じたせいで」という者を励まして、主を信頼するようにさせるのです
③弱い者の世話をする:弱い者は「主への信頼を躊躇する様」を意味します。つまり、「主に頼って大丈夫だろうか」という者の背中を押したり、手を引いて、主を信頼する道に進ませるのです。
④すべての人に対して寛容である:寛容は「辛抱強く待つ」ことですから、この3つの者が正しい歩みになるまで待つのです。もし、急がせてしまうならば、それは自分が相手を支配することになり、平和の関係を実現できません。
そして、平和や寛容に絡めてパウロはこう命じます(15節)。神は人が正しい歩みになるために、悪に対して罰を与えます。いわゆる懲罰です。しかし「人の悪に対して悪で報いる」というのは自分の気持ちを晴らすための行為であり、相手の益ではなく、あくまでも自分のためです。人から悪をされても、「私はイエスがともにいるから大丈夫」という気持ちが善を生み、一人一人が実践することで教会の平和、信者同志の平和が保たれます。
パウロが言うように、私たちはイエスのいのちによって主の日の滅びを免れ、闇ではなく光の中を生きる者に変えられました。ただし、非の打ちどころのない信者になったわけではありません。イエスから引き離す外部からの誘惑に弱く、また内側から湧き上がる恐怖や不安で神への信頼が弱くなるものです。しかも、自己中心で人よりも上になりたい気持ちもあります。この世に生きている限り私たちは自らイエスから離れようとする性質をゼロにはできません。だから、信仰の指導者や互いに励ます仲間が必要なのです。
Ⅱ.私たちはイエスから与えられる喜び、平安、知恵から目を離さない(5:16-22)
続けてパウロは、イエスとともに生きるために単独でなすべきことを命じます(16-18節)。「いつも、絶えず、すべてのことにおいて」とあるように、パウロはこれら3つのことがらを時間的に途切れなく、また直面する出来事には一つも漏らすことなく行うように命じています。ただ「絶えず祈る」のは理解できるし実行できそうですが、「いつも喜ぶ/すべてのことにおいて感謝する」は「それは無理」と思ってしまうのではないでしょうか。例えば、自然災害で家が壊れたり、親しい方が亡くなったときに、それを喜ぶのはとうていできません。
しかし、キリストを信じる者はこの3つを実行できるのです。そのカギが「キリスト・イエスにあって(18節)」にあります。「キリスト・イエスにあって」とはキリストに所属する者がキリストの支配にあることを意味します。つまり、神はキリストを通して私たちに必要な助けを与え、しかも決して見放さず見捨てない、こういう中に私たちは生きているのです。
ですから、どんな状況でも、私たちから見て最悪の中でも「私を支え、励まし、助けてくださるイエスがいる」これに気づけば、「いつも喜び、すべてのことにおいて感謝できる」のです。そして、その喜びと感謝を言葉で表し、神への信頼を言葉で表すのが祈りです。私たちの人生には不慮の事故、病、自然災害、戦争、迫害、死など痛みや悲しみ、不安や恐怖に打ちのめされる出来事があります。そういった出来事そのものは決して喜びや感謝になりません。けれども、どんな状況でもいつでもイエスは私たちのそばにいてくださいます。片時も目を離すことはありません。だから「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことにおいて感謝」できるのです。違う見方をするならば、これら3つを意識することでイエスがともに生きていることを私たちに自覚させるのです。
ところで、神はある手段を通してイエスがともにいることを実感させます。それが聖霊と預言です(19-20節)。どちらも神が人に対して与えるものです。ヨハネの福音書にあるように、聖霊は「罪であること、正しいこと、正しい判断」を直接人に気づかせます(ヨハネ14:8)。それゆえ、「御霊を消してはいけない」すなわち神から与えられた気づきよりも自分の思いを優先してはならないのです。一方、預言は神のみこころを預言者を通して人に気づかせます。ただし、現代は預言者に代わって聖書が神のことを教えています。それゆえ、「預言を軽んじてはいけない」すなわち神から与えられた教えを取るに足りないものとしてはならないのです。イエスのとりなしによって神が私たちに必要なことを与えているから、この両者を私たちは受け入れるのです。
ただし、「聖霊によって気づかされた/聖書から示された」ということがらを鵜呑みにしてはいけません(21-22節)。聖書には悪霊の働き(Ⅰヨハネ4:1)や預言と称したでまかせが記されています(マタイ24:21)。ですから、与えられた「気づきや判断や知恵」が本当に神からのものであるかどうかを吟味するのです。非常に抽象的な内容ですが「自分を通して神のすばらしさが世の中に明らかになるかどうか」が判断基準になると思います。また、指導者や教会の仲間による吟味も大切です。
イエス・キリストに所属する私たちは天の御国が約束され、イエスとともに毎日を生きています。だからすべてに勝利したイエスによって守られ、聖霊やみことばを通して平安が与えられています。一方、世の中の多くの人は自分が直面している出来事から平安を判断します。しかも、この世の物事は移り変わるから平安はいつまでも続かず、それを追い求める人生を送ります。パウロは「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことにおいて感謝」を私たちに命じていますが、これはイエスとともに生きている私たちの特権でもあるのです。
■おわりに
私たちは神に背く性質を持っていますから、本来、主の日には神の怒りで滅ぶべき存在です。けれども神はそんな私たちをかわいそうに思い、我が子イエスを犠牲にすることで私たちへの怒りを収めました。その上、主の日まで信仰を保てるようにイエスが一緒にいてくださいます。それほどまでに神の愛は深いのです。イエスから離れて世の中に流されたり、自分の思いや考えに縛られているのは、せっかくもらっているすばらしいものを捨てるようなものです。イエスが一緒にいることを実感しながら毎日を送るのは私たちの目的であると同時に、神の愛に応えることでもあるのです
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