■はじめに
マザー・テレサはインドで苦しむ人のために生涯を捧げ、神の愛を実践しました。その功績によって彼女は1979年にノーベル平和賞を受賞しています。私たちは人として、クリスチャンとして大きな尊敬を抱きますが、そんな彼女でもこのような祈りをしています。
――――― マザー・テレサ 「解放」―――――
イエスよ、わたしを解放してください。
愛されたいという思いから、
評価されたいという思いから、
重んじられたいという思いから、
ほめられたいという思いから、
好かれたいという思いから、
相談されたいという思いから、
認められたいという思いから、
有名になりたいという思いから、
侮辱されることへの恐れから、
見下されることへの恐れから、
非難される苦しみへの恐れから、
中傷されることへの恐れから、
忘れられることへの恐れから、
誤解されることへの恐れから、
からかわれることへの恐れから、
疑われることへの恐れから。
(「祈りのともしび」日本キリスト教団出版局)
――――――――――――――――
祈りの前半は「神の栄光ではなくて自分の栄光を欲しがる思い」からの解放であり、後半は「苦痛を受けることの恐れ」からの解放です。この2つは誰でも持っていますが、特に後半はできれば一生味わいたくないことがらです。ただし、キリスト教ではこういった苦難にも意味があると言われています。今日は、信仰ゆえの苦難は私たちにとってどんな意味があるのかを見てゆきましょう。
■本論
Ⅰ.信仰を貫くときに受ける苦難には、忍耐しながら信仰を保つための神の訓練という意味がある(12:4-8)
手紙の読者はキリストを信じたために迫害という大きな苦しみの中にあります。それで著者は「あなたがたのために十字架をも耐え忍んだイエスから目を離さないように」と命じました。いわば、信仰を貫く秘訣を伝えたのです。ここで著者は、信仰における読者の有様を語ります。言い換えれば、なぜ秘訣を教える必要があるのか、という理由です。
著者は迫害を受けていることを「罪との戦い(4節)」と言っています。なぜなら、神に従うから迫害を受けるのであって、王のような人に従えば、すなわち神に背く罪に行けば迫害を免れるからです。その上で「あなたがたは血を流すまで抵抗していない(4節)」と指摘しています。「血を流すまで」とは究極的には殉教を指しますが、そこに至らなくても、激しい痛みや苦しみ、あるいは葛藤を伴ってまでも信仰を貫こうとしていない、と批判するのです。読者であるユダヤ人クリスチャンは迫害を逃れるために、キリスト教を捨てて御使い礼拝に走ったり、もとのユダヤ教に戻ろうとしています。でもそれは迫害という苦難を免れたとしても、罪との戦いを放棄したのであり、罪に負けているのです。
なぜ罪に対して粘り強く抵抗できないのか、その理由はここには書かれていませんが、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さない」という勧告からすれば、ゴールである天の御国がどれほど価値があるのかを見失っていると言えます。そしてもう一つ、苦難の捉え方を謝っていました。
著者は箴言3:11-12を引用して罪との戦いによる苦難を「主の訓練」と捉えています(5-6節)。今日の聖書箇所には「訓練」ということばがいくつも出てきますが、これには「しつけ/懲らしめ」の意味もあります。箴言でいえば「叱る/むちを加える」に相当します。もし、苦難が信仰を深めるための手段だとしたら、それは主の訓練と言えますし、信仰を正すとか矯正する手段だとしたらしつけと言えます(イスラエル民族のように)。ただここでは、罪に抵抗し信仰を貫くことを意図していますから、信仰のための神の訓練とか鍛錬と受け取る方がふさわしいでしょう。
苦難という訓練を「意味がないとか大事ではない」と軽んじてはいけません。その反対に、「自分はだめなやつとか自分にはできない」と訓練に気落ちしてはいけません。なぜなら、主の訓練は神の愛に基づいているからです。6節に「主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」とあります。主である神はキリストを信じる者を我が子として愛し、受け入れているから、何があっても信仰を貫けるように苦難という訓練を施しているのです。
それで著者は「訓練として耐え忍びなさい。(7節)」と命じるのです。ちょうど、それまで親がやっていた作業を「やってみなさい」と子どもに渡して、子どもが四苦八苦しながらやっているのを見ているようなものです。敢えて手を出さず、アドバイスを与えながらうまくできるまでやらせているイメージです。親は子を大切に思うがゆえに、その子の将来のために色々なことを身につけさせてゆきます(8節)。子どもが悩み苦しみながら上手になるのを見守っているのは、この子ならできるという信頼があるからです。
私たちが信仰を貫く際には質的、量的、時間的に異なる様々な苦難を受けます。例えば、キリスト教を禁じる国であれば弾圧や迫害のように肉体的にも精神的にも激しい苦痛を受けます。現代日本ではそれはありませんが、からかわれたり、受け入れてもらえないという苦痛があります。あるいは自分の欲望との葛藤や信仰のためにあきらめたり捨てたりといった苦痛もあります。だから私たちは信仰に由来する苦しみを一刻も早く取り去って欲しいと願います。神が苦難という妨げをいつもなぎ払ってくれればいいと思うものです。
しかし、神がそうしないのは、その苦しみが信仰を貫けるようにするための訓練だからです。訓練として苦しみを与えているというよりは、あえて手を出さずに見守っているのです。それは神が私たちを我が子として愛しているからであり、信仰に留まる人生の方が信仰を捨てる人生よりもはるかに良いと知っているからです。そしてその苦難を乗り越えられると信じているから、見守っているのです。
Ⅱ.神が私たちを訓練するのは、私たちが神の子にふさわしい聖さを持ち、神からの平安を受けるためである(12:9-11)
手紙の著者は信仰ゆえの苦しみを主からの訓練と教えました。その上で著者は訓練の目的を明らかにします。
キリストを信じる者には二人の父がいます(9節)。一人は血縁関係の父です。もう一人は霊の父、すなわち聖霊を遣わす天の父です。この世では、父が子供のことを思って訓練やしつけをするから子供は父を尊敬します。しかし、天の父に対しては服従して生きてゆきます。明らかなように尊敬よりも服従の方が相手を重んじています。つまり、著者は肉の父よりも霊の父の方が優っていると言いたいのです。それでどのように優っているのかをこう説明します。
訓練において肉の父と霊の父では2つの違いがあります(10節)。一つは訓練の期間です。当時のユダヤ人社会でも私たちでも父親が子をしつけるのはおよそ成人までです。一方、父なる神は私たちの命が終わる時までです。もう一つの違いは訓練の目的です。「自分が良いと思うことにしたがって」とあるように父親は自分の基準に達するまで訓練します。いわば、訓練するかどうか、あるいはどんな訓練をするのかの基準は父自身です。一方、父なる神は「私たちをご自分の聖さにあずからせようとして」とあるように、神ご自身の聖さを持つように訓練します。ですから、基準は神ご自身です。
当然ながら、いくら父親が神を信じ従っていたとしても人間ですから、神からすれば不完全です。間違いや失敗もあります。だから、完全である神の訓練に服従するのです。それで、罪と戦い苦しみ忍耐しながら信仰を保つというのは、神以外に頼りたい思いをそぎ落とすことであり、神への信頼を深めることになるから聖さに磨きがかかります、これが神による訓練の目的です。
ところで、著者はこの訓練が「私たちの益になる」と言っています。それの説明が11節です。冒頭のマザー・テレサの祈りにもあったように、信仰を貫く際の苦しみは父からの訓練と分かっていても、痛いものは痛いし、辛いものはつらいのです。感情を曲げてまでうれしいとか楽しいとはなりません。しかし、神はその訓練の先に「実」を約束しています。
「義という平安の実を結ばせます。」とあります。これは「神との正しい関係がもたらす平安を与える」という約束です。その見本がキリストであり、平安の実の頂点が天の御国での永遠の平安です。ただし、「平安の実を結ばせます。」とあるように、平安という実はこの世でも与えられます。キリストも「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。(ヨハネ14:27)」と語っています。詩篇でも語られているように「どんな中にあっても、私には神がおられるから平安」という実が与えられます。苦難の中でも信仰を貫いた先に平安がもたらされるから、ますます私たちは信仰にとどまることができるのです。
■おわりに
神は大祭司キリストそしていけにえのキリストを通して、キリストを救い主と信じる者に二つの平安を約束しました。一つはやがて受け取る天の御国での永遠の平安です。もう一つは聖霊を通して与えられるこの世での平安です。この二つがあるから私たちは信仰ゆえの苦難を乗り越えることができます。そしてその積み重ねが、罪すなわち神以外に頼りたい思い、あるいは神以外に引き付けられる思いをそぎ落とし、神にのみ信頼する者へと変えてゆくのです。
Comments