■はじめに
この世界ではいつの時代もどの地域でも、悪さをすれば怒られたり、罰せらたりします。例えば、子どもであれば親や学校の先生、勤めている人であれば上司や懲罰委員会など、人や組織が悪さの有無と重さを判断し、悪さに見合った罰を与えます。当然、法律のある国では法律を破れば裁判によって刑罰が決まります。だから人は法律をはじめとする様々な規則や決まりに注意しています。その一方で、この世のすべてを治めている神には注意を払っているでしょうか。今日は人が真っ先に注意を払うべきは誰かを、聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.人は地上の支配者以上に神に注意を払わなくてはならない(8:1-8)
伝道者は世の中を調べて知恵ある者が実に少ないことに気づきました。しかしこの世を生きる上で知恵が大切なことも知っています。
人はものごとがどのように始まり、どのように終わり、そしてそれが自分や世の中に何をもたらすのかを知っていないと不安や恐れ失望となり、顔がこわばります。けれども、すべての仕組みがわかれば見通しが立って安心し、それが表情に出ます(1節)。それゆえ、ものごとの仕組みを明らかにする知恵は、持つのは難しいけれども、安心して生きるためには必要なのです。
ここで伝道者は2つの支配に対して知恵ある生き方を勧めます。一つは王であり、もう一つは神です。王に治められている国民は「王に忠誠を尽くす」と神に誓います(2節)。なぜなら、ユダヤ人において王は神によって立てられているからです。王に任ずるときに油を注ぐのは、神がご自身の代理人として王を任命したことのしるしです。だから、3節のように王に対する不満や不服の意思表示として慌てて王の前から去ったり、王にとっての悪事を働いてはならないのです。
それよりも「王は自分の望むままを行うから。王のことばには権威がある。だれが、王に「何をするのか」と言えるだろうか。(3-4節)」とあるように、王の絶対的な支配の下では、たとえ自分の意に反しても王に従うのが得策なのです。それに加えて賢く生きる方法を伝道者はこう言います(5節)。
王の支配の下で賢く生きる者は、王がいつ何をするのか、そして王のさばき、すなわちどんな基準で正と不正、善と悪を判断するのかをわきまえています。子どもが、親は何に喜ぶのかはもちろんのこと、「これをやったら怒られる」とわかっているのと似ています。つまり、王に細心の注意を払っていれば、王の怒りや罰といったわざわいを受けないのです。
王に対する知恵をふまえて、伝道者は神について語ります(6-7節)。王の場合と同じように、神の支配の下ではすべてのことに定まった時があること(伝道者3:1)、神の「さばき」すなわち神にも白黒つける基準があること、苦痛を伴うわざわいがあること、これらを人は知っています。ただし王の場合と違って、さばきやわざわいがいつどのように起きるのかはわかりません。
しかも、さばきやわざわいを人はコントロールできません。8節にあるように、人が風を支配できないように自分の死を支配できません。戦争において自分で除隊できないように、自分自身で悪をなくすことはできません。神の支配の下では人には絶対に手出しできないことがあるのです。「見聞きできる王に対し知恵を働かせて安心の毎日を送るのであれば、見聞きできない神に対してはなおさら」と伝道者は語っているのです。
現代の私たちは法律をはじめ、社会に秩序や平和、安心を保つための規則や人や組織を知っています。そして違反には罰が伴い、それを自分勝手に変更できないことも知っていますから違反しないように気をつけます。であれば、神は目に見える悪だけでなく目に見えない心の中まで見通し、決して悪を見逃さないのですから、より注意深くしなければなりません。イエスも神のさばきをこう言っています。「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。(マタイ10:28)」安心のために人や社会に対して注意を払うのは私たちにとって大切ですが、もっと大切なのは神に対して注意深くなることです。
Ⅱ.「すべては神のみわざ」これを知っていることが不条理な世を生きるための知恵になる(8:9-17)
さて、神のさばきやわざわいがあるにもかかわらず、悪が蔓延している世について伝道者は語ります。「人が人を支配して、わざわいをもたらす時について。(9節)」とあるように、この世では自分の欲を満たすために他者を虐げる悪がほとんどです。なぜ、このような悪がなされ人々が苦しむのか、そのことを伝道者は次のように分析しました(10,14節)。
10,14節は、この世には道理の通らないこと、すなわち不条理があることを示しています。悪しき者たちは本来尊い存在ではないので埋葬されません。けれども、まるで悪が忘れ去られたかのように正式に埋葬されることがあります。その一方、聖なる都エルサレムで善い働きをしたのに人々から忘れ去られてしまうことがあります。まさに「神に従えば祝福、背けばわざわい」の道理に沿っていません。それよりもわからないのは、わざわいという悪しき者が受けるべき報いを正しい人が受け、祝福という正しい人が受けるべき報いを悪しき者が受ける事実です。前回扱った「正しい人の短命、悪しき者の長寿」はその典型です。
人はこういった不条理、言い換えれば「悪い行いに対する宣告がすぐ下されない(11節)」ことを目にするので、「神はいない」とか「神のさばきは来ない」と受け取り、その結果ますます悪に走るのです。「正しすぎてはならない、悪すぎてはならない」と警告しているように、神のみこころをないがしろにし、不条理を誤って解釈するとこのようになるのです。
ただし、「神に背いている悪が人の幸せにつながらないこと」も伝道者はわかっています。13節「その生涯を影のように長くすることはできない。」とあるように、悪と悪人には必ず終わりがあります。人をだまし続けたり、不正で富を築いたとしても、悪は必ず明るみになり悪人はさばかれます(12-13節)。人はそのことをわかっているから、いつも不安がつきまとい、平安というまことの幸せを手にできないのです。
一方、神を畏れて悪を働かない者は、神の支配の中にあることをわきまえているから、神に守られていることをわかっているから、何があっても常に安心という幸せがあります。たとえ、不条理な出来事があっても、それに何らかの意味があるとわきまえているから安心があるのです。それで伝道者は、不条理な世の中であっても、神がくださる喜びを味わうように重ねて勧めるのです(15節)。
ここで伝道者はこの世で確かに言えることを明らかにします。彼は人の営みすなわち人生について、何かを得ようと賢明に探しました(16節)。その結果、「この世のものごとすべてが神のみこころによるわざであり、その全部を人は知り得ない」を得ました(17節)。彼は「見極めることはできない/探し求めても、見出すことはない/見極めることはできない」と「できない」事実を3度繰り返し、どんなに一生懸命観察しても、どんなに深く考えても、どれほど知恵があっても「ムリ」と結論付けました。
神はアブラハム、イサク、ヤコブといった神の民の父祖たちを通して、モーセ、ヨシュア、ダビデ、ソロモンといったリーダーを通して、エリヤ、イザヤ、エレミヤといった預言者を通して、そして律法を通してご自身のことを人に明らかにしました。当然その中には、神にとっての正と不正、善と悪、聖さと汚れといった「さばき」の基準も含まれています。ですから、たとえ「正しい人の短命、悪しき者の長寿」「正直者の貧困、虐げる者の繁栄」のような不条理があったとしても、「神は私たちを大切にしてくださっている」それを知っているのですから、これさえ信じていればよいのです。「すべては神のみわざだから、人にはわからないこともある」これが人が持つべき知恵であり、これに気づいた者は大きな困難にあっても「顔が輝き、顔の固さが和らぐ(1節)」ようになるのです。たいへんな自然災害があっても、死に直面していてもクリスチャンが穏やかなのはこの知恵があるからなのです。
■おわりに
人は多くの理屈を求め(伝道者7:29)、ものごとを解釈したい(伝道者8:1)欲求があります。それゆえ、人体から宇宙に至るまで、人はあらゆることを解明しようとしています。その結果、病気の治療や予防、自然災害から命を守ることのように、ものごとの解明は人の安心につながっています。けれども未だわからないことが無数にあり、特に未来については何一つ明らかになっていません。
その一方で神はイスラエル民族の歴史とイエスの活動、そしてそれらの記録である旧約聖書と新約聖書を通して2つのことを明らかにしています。
・すべての人は罪によって永遠の滅びに行かなくてはならない
・イエスを救い主と信じた者は、やがて来る審判で無罪となり滅びを免れて天の御国に入る
世の中のものごとは未だ隠されているのに、救いについては完全に明らかにしました。しかも、こっそりだったり暗号のようにではなく、多くの目撃者を用い、人々の使っている言葉で明らかにしました。つまり、イエスによる滅びからの救いこそが人にとって最も大事なのです。これが神のあわれみです。だから私たちは不条理な社会にあっても、「神のあわれみであるイエスによる救い」を知っているから穏やかになれるのです。
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