■はじめに
私たちは職場の異動や転勤、離職のとき、後任の方々に仕事の引継をします。その際、引継事項に優先順位を付けます。例えば、自分しか持っていない情報や技能のうち、それがなくては仕事にならないことがらは必ず引き継ぎます。一方、伝えなくても後任ができそうなことがらは「暇があったら見て」くらいの扱いです。歌舞伎や伝統工芸など代々受け継いでゆく職業を見れば優先順位がよく分かるでしょう。イエスもいつまでも弟子たちと一緒にいられません。彼らと別れる十字架の時が必ずやって来るからです。今朝はイエスが弟子たちに何を最も伝えたかったのかを聖書に聞きます。
Ⅰ.イエスは悪魔がユダの心に入ったことから、十字架の時が目前となったのを悟った(13:1-3)
ヨハネの福音書13-17章は二階の大広間での出来事が記され、イエスの告別説教とも呼ばれています。十字架を前にイエスが弟子たちに何を伝えたのかをヨハネは詳しく記しました。
この夕食の後、イエスは弟子たちとオリーブ山に行きそこで捕まります。それでこの夕食を最後の晩餐と呼ぶのです(2節)。1節「この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時」とあるように、イエスは十字架での死とよみがえりが目前であると分かっていました。つまりこの夕食は、12弟子のみに直接関われる最後の時間なのです。
一方の弟子たちについては「涙を流した/うなだれている」のように悲しんでいる様子はありません。ですから、弟子たちはこれが最後の食事になるとは少しも気づいていないのです。このような弟子たちを前にしていながら、しかもこの後全員から見捨てられるのを知っていながら、イエスは一緒にいられる最後の最後まで彼らを愛しました。愛したというのは、今の彼らの満足ではなく、彼らのために自分がすべきことを手を抜かずに尽くすことを言います。その愛した姿が5章に亘って記されているのです。
ヨハネは「ご自分の時が来た」という状況を詳しく記しています(2-3節)。この当時、食事は足を投げ出し、片方の肩を隣の人に寄りかかるように座って行ったと言われています。見た目には単なる食事風景ですが、「ユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。」とあるように、隠れたところでは十字架の時がすでに始まっていました。ユダの策略によってイエスが逮捕されるからです。
イエスは「父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと」すなわち最後の審判における有罪か無罪かのカギはすべてご自身にあることをすでにわかっていました。そして、ご自身がカギとなるためには「地上に誕生し、十字架で死に、よみがえって天におられる神のところに帰る」これが必要なのも知っていました。そのきっかけがイスカリオテのユダにあるから、彼の心に悪魔が働いてもそのままにしておいたのです。
他の福音書を見ると、イエスは夕食の後、弟子たちをオリーブ山に行き、ゲツセマネで父に祈りました。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。」このことばから祈りは始まりました。十字架という杯を取り去って欲しいと真っ先に口にするほど、十字架刑は恐ろしいのです。十字架のためにこの世に来たのを納得していても恐ろしいのです。しかし、イエスはそんな恐ろしさをひとつも表に出さず、今はただひたすら弟子たちに向き合います。「自分のことは脇において、相手のために尽くす」これが神の愛であり、私たちにも掛けられています。
Ⅱ.イエスは弟子たちの足を洗うことで、ご自身が罪をきよめる真理を示した(13:4-11)
二階の広間にはイエスと12弟子のみで、彼らを邪魔する者はありません。ですからイエスは12弟子だけに、かつ一人一人に応じることができます。ここでイエスが理解し難い行動に出ます(4-5節)。
客人の足を洗うのは奴隷の仕事です。しかし、イエスは足を洗う奴隷と同じ格好となり、自分から弟子の足下に行って、一人ずつ足を洗いました。イエスと同じように、主とか先生と呼ばれている宗教指導者は絶対にしない作業です。弟子はさぞ驚いたことでしょう(6節)。
ペテロは弟子の中でイエスを最も尊敬していたので、大変な驚きと恐縮を隠せませんでした。そんなペテロにイエスは「なぜ足を洗っているのか今は分からなくても、後から分かる(7節)」と言い、洗うのを止めませんでした。それでペテロは再度そして今度は強く止めるように願いました(8節)。けれどもイエスには今、弟子たちの足を洗う理由があったのです。
普通、足を洗うのは家に入った時ですので、食事中にはしません。しかも、弟子にとって師であるイエスが奴隷と同じ格好となって足を洗いました。つまり、イエスが足を洗うというのは汚(よご)れを落とす目的ではないのです。イエスはご自身が足を洗う行為を通して何かを伝えているのです。イエスのことばとふるまいから、伝えたいことがらを見てゆきます。
この直後にイエスが教えているように、足を洗うのは互いに仕えるという模範の意味もあります。でも、それであれば今でもわかります。ここでイエスは「後で分かるようになる(7節)」と言いました。イエスの言う「後」とはこれから起きる出来事、すなわち十字架とよみがえりを指しています。ですから、イエスが足を洗うのは十字架とよみがえりに関係しているのです。
さらにイエスは「あなたはわたしと関係ないことになります。(8節)」と言いました。「誰々と関係を持つ」ということばは「誰々と共に席を有する/誰々と運命(栄光を受ける運命)を共にする」の意味があります。さらに、足を洗うというのは足の汚(よご)れを落としてきれいにすることです。
つまり、「イエスによって罪がきよめられ、天の御国でイエスと席を共にし、イエスと共に栄光を受ける」このことを足を洗う行為を通してイエスは弟子たちに伝えたかったのです。事実彼らは、十字架とよみがえり、昇天の後、イエスによる救いを確信しました。イエスが地上を去った後、弟子たちがイエスを信じる信仰にとどまり、イエスによる救いを伝えるためには、このことが最も大事だからイエスは最初に伝えたのです。
ところで、ペテロは「足を洗ったら関係がある」ということばを聞いて、「足だけでなく、手も頭も洗ってください。(9節)」とイエスに願いました。関係をもっと深めて欲しいと欲張っているのです。ペテロの願いにイエスはこう答えました(10節)。
当時の習慣では、宴会に招かれる者は自宅で水浴し身をきよめました。けれども、素足にサンダルですので足が汚(よご)れるため、宴会の家では足だけを洗いました。それでイエスは水浴してきよめられているから、洗うのは足だけでいい」と言ったのです。見方を変えれば、家に入ってから洗うのは足だけだったので、イエスはその行為を「ご自身による罪のきよめ」を伝えるために利用したのです。
ただし、イエスがきよめようとしてもそれを受け入れなければ、きよくはなりません。弟子の中でイスカリオテのユダだけがイエスを受け入れず裏切りました。そのことをイエスは見抜いているから「皆がきよいわけではない(11節)」と言いました。イエスは「罪をきよめ滅びから人を救うこと」を完成しましたが、人のすべてがきよいわけではありません。「イエスを信じなければきよめられず、救われない」これもまた真理です。
最後の晩餐でイエスが最初にやったことが、弟子の足を洗う行為でした。最初というのは最も大事で最も伝えたいこと、すなわち優先順位1位です。イエスが天に帰った後、イエスは弟子たちを直接指導しません。弟子たちは自分で考え行動しなければならないのです。そのために最も大事なのは「イエスが罪をきよめて天の御国での栄光に与らせる」これにとどまることです。「イエスが自分から関わってくださる安心、天の御国への希望」これらがイエスを信じる信仰にとどまらせ、イエスを伝える源になるのです。だからイエスは「ご自身が足を洗いきよくする」行為を優先順位第1位にしたのです。
■おわりに
最後にイエスによるきよめについて目を向けます。我が家の柴犬ニッキは散歩から帰ってきたら必ず足を拭いてもらいます。自分で足をきれいにできないから飼い主がやります。あまりにも泥だらけのときは洗面器に水を入れて洗います。洗う道具も手間もすべて飼い主が担うのです。汚れがひどい時は私の手も汚れるし、顔にかかったりすることもあります。それと同じように、私たちも自分の罪を消すことはできません。しかも最後は罪による罰すなわち滅びです。
しかし、私たちが受けるべき罰のすべてをイエスが十字架で負ってくださいました。それで私たちの罪は赦された、つまりきよめられたのです。ちょうど、私たちの汚(よご)れた足をイエスがきれいにしてくれたようなものです。ただし忘れてはなりません。罪を赦すために十字架という肉体的・精神的激痛をイエスは受けました。いわば汚(よご)れ役をイエスは引き受けたのです。これがイエスの愛です。
「イエスが罪をきよめて天の御国での栄光に与らせる」このことを最初にイエスは弟子に残しました。それは今を生きる私たちにとっても優先順位1位の真理そして生きる土台です。
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