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木村太

7月21日「神の喜びのために」(テサロニケ人への手紙 第一 2章1-12節) 

■はじめに

 教会では福音(十字架で死んで、よみがえったイエスが救い主)を伝えるために、様々なイベントを用いています。音楽コンサートやカフェ、講演会は定番ですね。約半世紀前には天幕伝道といって大きなテントの下で聖書のスライドを上映したり、子どもたちにお菓子を配るというのもありました。当然、私たちは「神様のために」という動機で開いていますが、来場した方々の喜びや満足の様子で「イベントがうまくいった」と思うものです。反対に否定的な感想を耳にすると気落ちします。前回の宣教で見たように「救いは人の力ではなく神の働き」とわかっていても、人の反応を気にしてしまいます。そこで今日は「福音を伝えるときの動機と人に接する態度」をみことばから見てゆきます。

 

■本論

Ⅰ.パウロたちは自分の利益や名誉のためではなく、神の喜びのために福音を語った(2:1-6)

 手紙の冒頭から、パウロはテサロニケの教会がしっかりとした信仰になっている姿を喜び、そうなっているのは「神に愛され選ばれているから」と認めました。これに続いてパウロは、自分たちがテサロニケでどのように活動したのかを振り返ります。というのも、彼らの働きが大きな結果を出したのを見て妬みを抱いた者たちが「彼らの活動は自分たちの利益のため」という噂を流していたからです。パウロはそれを否定したかったのです。

 

 この主張の中で、パウロは「自分の話している事柄が事実だと」言うために、「あなたがた自身が知っているとおり」という言い方を繰り返し使っています(1節)。パウロはまず、テサロニに来る前に活動したピリピについて触れます(2節)。ピリピにおいてパウロとシラスは福音を語ったために逮捕され、ローマ市民にもかかわらず裁判もなしに鞭打ち刑にされ、牢に入れられました。ピリピでの災難からすれば、同じマケドニアの都市であるテサロニケでも同じ目に合う可能性が高いのは明らかです。ですから、テサロニケでの活動を控えたとしても不思議ではありません。

 

 けれども、パウロたちは神によって勇気づけられてテサロニケで福音を語りました。しかも、ユダヤ人の暴動という激しい苦闘の中でも語ることができ、そしてイエスを信じる者がたくさん生まれました。まさに、活動が無駄にはならなかったのです(2節)。パウロはテサロニケでの活動と成果は、神の力によるもので、決して自分たちの力や計画でやってのではないと言いたいのです。

 

 さらにパウロはこのことについて説明を加えます(3-4節)。3節「誤り」は詐欺とかペテンを意味し、また「だましごと」は何らかの悪だくみを意味します。つまり、福音を語る動機は、金銭や人気取りや自分たちの派閥を増やすといった、いわば「自分たちの利益目的」ではありません。5-6節で説明しているように、だまして金品をかすめ取るために人に媚びることはしませんでした。あるいは、人からほめたたえられることを求めませんでした。

 

 そうではなくて「神に認められて福音を委ねられた者ですから(4節)」とあるように、彼らは福音を語る働きを神から委ねられているから、神の喜びのために語り続けているのです。違う見方をするならば、活動の結果を予想して語るのではなく、ただ神のために語るのです。だからピリピで痛い目にあったにもかかわらず、同じ大都市のテサロニケでも福音を伝えようとしたのです。

 

 この当時、宗教や哲学を伝えている者たちは物質的な利益や名誉あるいは勢力拡大をもくろんでいました。それで、パウロたちを妬んだユダヤ人たちは、パウロたちも同じような動機だと見たのです。しかし、「神がそのことの証人です。(5節)」とあるように、パウロは自分たちの動機が利益でなはなく、「神の喜び」であることを、神の前に誓っています。苦い思いをしたピリピでのリベンジでもなく、恐る恐るでもありません。ただただ神から委ねられた働きだから神のために福音を伝えるのです。

 

 イエスは弟子たちにこう言いました。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。(マルコ16:15)」人にできることは福音を伝えることであり、信じさせることではありません。「イエスを救い主と信じる者は神に愛され選ばれた者」という確信があるから、私たちは結果に一喜一憂することなく、神の喜びのために「イエスは救い主」と世の中に語り続けるのです。

 

Ⅱ.パウロたちは自分の都合を優先せず、相手に心を配りながら福音を語った(2:7-12)

 パウロは福音を語る動機を明らかにした上で、今度はどのように語ったのかを話します(7-8節)。パウロはキリストの力を帯びている者として福音を語ってきました。特に信者に対しては、自分の教えに従ってもらうために「キリストの使徒」という権威を前面に出しました。他の手紙の冒頭で自分のことを「使徒/キリストのしもべ」と呼ぶのはそのためです。

 

 けれどもテサロニケの人々には、幼児のごとく権威を全く持っていないようにふるまい、さらに母親が子をいつくしむごとく彼らを養い育てようとしました(7節)。「養い育てる」ということばが「母鳥が卵を暖める」を意味するように、精神や肉体、時間、金銭など自分の持っているものを総動員して、テサロニケの人々に接しました。権威を振りかざし脅して押さえつけたり、恐怖で縛るようなことは決してしませんでした。パウロたちは自分よりも相手を大切にしたのです。

 

 なぜなら「あなたがたが私たちの愛する者となったからです。(8節)」とあるように、テサロニケの人々は単なる宣教の対象者から、自己犠牲を払うほど大切な者になったからです。使徒の働きに書かれているように、テサロニケではパウロたちを家に迎え入れただけで、キリストを否定するユダヤ人から襲われました。彼らを受け入れただけでなく、福音を信じてパウロたちに従うのであれば、なおさら苦痛にあうのは明白です。しかし、テサロニケの者たちは激しい苦難の中でもイエスを救い主と信じ、「信仰、愛、希望」に生きるようになりました。それゆえ、パウロたちはテサロニケの信者を愛するのです。いわば、神の家族として愛するのです。

 

 パウロたちは「神のため」という動機で福音を伝え、信じた者たちを養います。そして愛するがゆえに彼らを大切にします。どんなふうに大切にしたのかを、パウロは3つ語ります。

(1)負担をかけない配慮(9節):パウロは「信仰の働きに対して報酬を受け取る権利がある」ことを認めています(Ⅰコリント9:11)。けれどもパウロたちは報酬どころか、活動のために必要な衣食住を自分たちで賄いました。テサロニケの人々に経済的な支援や身の回りの世話といった負担をかけていません。

 

(2)信者の模範となる(10節):「敬虔」は「道徳的・宗教的な聖さ」を、「正しい」は「神と同じ基準で正と不正、善と悪を見分けること」を、「責められるところがない」は「信者として誤ったふるまいや誤解を生むようなふるまいをしないこと」を意味します。パウロたちは権威を用いた指導ではなく、手本を示しました。ちょうど親が子供に手本を見せてあげるようなものです。いわば、恐怖心や義務感を抱いて親に怒られないための信仰とならないように配慮しているのです。

 

(3)父が子に接するように育てる(11-12節):他の手紙にあるように、「子どもを正しい道に歩ませるのは父親の役割」とパウロは教えています(エペソ6:4)。ただし、権威によってとか力ずくではありません。あるときは「背中を押すかのように勧め」、あるときは「激励し」、あるときは「言い聞かせて納得」させます。自己中心的な指導ではなく、厳しさを伴いながらも相手を思いやりながら指導するのです。なぜなら、テサロニケの信者が神にふさわしく歩んで欲しいからです。「ご自分の御国と栄光にあずかるようにと召してくださる」とあるように、御子イエスによって救ってくださった神に感謝しながら、やがて入る天の御国に希望を置きながら、神に従って生きて欲しいのです。彼らが自発的にふさわしい道を歩み、苦難を忍耐しながら平安に生きるために、パウロたちは父親のごとく接したのです。

 

 パウロたちは「自分の子どもたちを養い育てる母親のように」「自分の子どもに向かう父親のように」親が子をいつくしむように、テサロニケの人々に福音を語り教えました。自ら犠牲を払い、お手本を示し、彼らを神の子にふさわしく歩むように指導しました。テサロニケの信者を愛するがゆえに、相手を慮っているのです。

 

■おわりに

 パウロは福音を語る動機を「自分の利益目的ではなく神の喜びのため」と語りました。それと同じように、信者がふさわしい道を歩むために、自分を優先するのではなく相手に配慮して指導しました。神のためだからといって、自分勝手にやりたい放題ではないのです。あくまでもテサロニケの人々を大切にしています。ここに「神を愛し、人を愛する」というキリスト教における最も重要な教えが適用されています。それゆえパウロは、動機についてもやり方についても「神がそのことの証人です。(2:5,10)」と堂々と言えるのです。私たちもパウロと同じように神に愛されキリストに結ばれています。だから福音を語る上でも、神の家族を教え導く上でも、神を愛し人を愛することを土台とできるのです。

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