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木村太

7月23日「神は平和と聖さを求める」(ヘブル人への手紙12章12-17節)

■はじめに

 聖書では信仰ゆえの苦難をスポーツ選手の訓練とか、精錬における純化のように、信仰を揺るぎないものとするための手段と見ています。苦難を無駄とか意味のないこと、あるい不運とか因果応報と語っていません。ただし、苦難を忍耐しながら生きるというのは、クリスチャンであることを隠して生きるのではありません。あたかも、苦難という嵐が去るまでじっとしているというのではないのです。むしろそれとは反対に、クリスチャンとして物事を観察し、考え、ふるまうように命じています。今日は、苦難の中で私たちはどのように生きるのかをみことばに聞きます。


■本論

Ⅰ.私たちは2つの平安(天の御国とこの世)が約束されているから、自らを奮い立たせて信仰の人生を送ることができる(12:12-13)

 この手紙の著者は「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さない」という苦難を生きるための秘訣と「神による信仰の訓練」という苦難の受け取り方を伝えました。その上で、これを実生活に適用するために、具体的な指示を与えます。


 12節「ですから」はこれまで語ってきたように、「天の御国での永遠の平安」そして「地上での平安の実」この2つが約束されていること、さらにイエスを含めて信仰の偉人たちの応援があること、こういった環境に読者が包まれていることを指しています。それで「弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。(12節)」と命じるのです。


 「弱った手と衰えた膝」は、読者が苦難に対して生きる気力を失っている様子です。だから「罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません。」と指摘されるのです。ただし、「まっすぐにしなさい。」の「まっすぐにする」は「障害のある足を元通りにする」という意味がありますから、彼らは迫害の初期では忍耐できていました。それゆえ、著者は彼らが得ている恵みを明らかにして、自らを奮い立たせて本来の生き方に戻そうとしているのです。本来の生き方とはクリスチャンとしてこの世を生きることです。


 そしてこれからの歩みについて「自分の足のために、まっすぐな道を作りなさい。(13節)」と命じています。「まっすぐな道」は脇に逸れない人生をたとえています。加えて「自分の足」の「足」はくるぶしから先の部分ですので、凸凹ではなくて平らな歩きやすい道を作るのです。つまり、「足の不自由な人」でたとえられているように、迫害に対して疲れてひ弱になったり、恐れて立ち向かえない人々が信仰の道を歩めるように、あなた方がまず信仰を貫いて生きるように、と命じているのです。ちょうど、自分たちの前を歩んだモーセやアブラハムといった信仰の偉人たちのように人生を送るのです。そして自らの生き様が弱い者たちあるいは次世代の者たちのお手本や励ましになるのです。


 「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものです...(11節)」とあるように「天の御国というゴールそして忍耐の先にある平安」この2つの約束をわかっていても苦難を生きるのは辛いし、大変なエネルギーを要します。だからこそ、「2つの約束と信仰の偉人たちによる応援者をすでに自分は持っていること」をなおさら励ましとしなければなりません。励ましによって苦難を生き、その中で平安を経験し、それが次の励ましとなる、この繰り返しが揺るぎない信仰に至らせるのです。


Ⅱ.「平和と聖さ」を求める生き方が平安という実となる(12:14-17)

 続けて著者は、「弱った手と衰えた膝をまっすぐにした者がまっすぐな道を歩む」ということを具体的に説明します。


 著者は人と関わる上での平和と聖さを追い求めるように命じています(14節)。平和は神の国の姿であり、争いがなく安心できる穏やかな関係を言います。しかも、クリスチャン同志だけでなく、迫害者であっても平和を求めるのです。なぜなら、神ご自身が罪を持つ敵対者である人間と平和を結ぼうとしているからです。その手段がキリストです。もう一方の、聖さは神ご自身の性質であり、神や人が嫌がることをしないふるまいを言います。平和を作り上げるための方法でもあります。


 当然ながら、平和と聖さは神が求めるものですからこれらを成し遂げようとする者は「主を見ること」ができます。主を見るとは、恐れや不安を覚えることなく主に向き合い、主から平安を受け取る様子を指します。もし、平和を作ろうとしなかったり、聖さから外れていてそれを自覚しているならば、神に顔向けできません。ちょうど、罪を犯したアダムとエバが主の顔を避けたり、弟を殺したカインが顔を伏せるようなものです。キリストを信じたゆえの苦難を受けていたとしても、人との平和を目指し聖い生活を送ることがクリスチャン本来の生き方であり、そこに神の恵みである平安がもたらされます。


 それゆえ15節のように、著者は教会の中で平和と聖さを追い求めているかどうかに気をつけるよう命じるのです。今申しましたように、平和と聖さを求めない者は神の恵み、すなわち平安の対象から落ちます。また「苦い根」は意地悪とか冷酷(思いやりがなく、むごいこと)を意味しますから、平和を壊して対立のように嫌って避ける関係が広まれば、個人としても集団としても平安はありません。そのような教会が苦難に立ち向かえないのは明白です。


 ここで手紙の著者は「神の恵みから落ちたり、苦い根が生え出て悩ませる」原因を解説します(16節)。「淫らな者」とは「神から造られた人として恥ずべきことをしている者」そして「俗悪な者」とは「神をないがしろにしている者」を言います。著者はそのような者の代表例としてヤコブの兄エサウを取り上げています。


 「一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売った(16節)」とあるように、エサウは長子の権利、すなわち神が定めた祝福を受ける手続きよりも、空腹を満たす方を優先しました。自分の欲望に囚われ、長子を祝福するという神のみこころを無視しています。イエスが荒野で空腹となりサタンの誘惑に乗って自分のために奇跡を起こさなかったことと正反対です。つまり、「平和と聖さを追い求めず、神の恵みから落ちたり、苦い根が生え出て悩ませる」これの原因は神よりも自分を優先する自己中心なのです。


 それでエサウは17節にあるように、祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。実際に祝福を退けたのは父のイサクですが真実は神の働きです。「涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。(17節)」とあるように、すでに長子の権利を弟ヤコブに渡したから、当然悔い改めの余地は残っていません。その上、エサウは自分が原因で長子の権利を手放したのに、長子としての祝福を受けたヤコブを恨みました。まさに「苦い根」が生え出ています。一時の満足のために、神をないがしろにした軽率なふるまいが神からの恵みを失わせる結果となったのです。


 エサウの出来事は読者に対する警告でもあります。迫害を免れるために信仰を捨てるというのは、神の恵み(天の御国、イエスからの平安)よりも、この世からの安心を優先しているからです。自らの聖さをそこなうだけでなく、教会にも混乱を招くから、ますます平安から遠ざかることになります。これは現代の私たちにも当てはまります。苦しみや辛さが長く続くと、絶大な効果をアピールしている宗教やスピリチュアルなものに魅力を感じて安心を求めようとします。神が我が子イエスのいのちを差し出してまで与えようとしている永遠のいのちやイエスからの平安よりも、目の前の安心を優先してしまうのです。平和と聖さを求める生活が、苦難の中でも神からの不思議な平安を私たちに与えます。このことを見失ってはいけません。


■おわりに

 人との平和を作り、聖さを維持するためには、あたかもラジオのチューニングのように、自分を神と人に合わせなくてはなりません。自分の欲望を脇に置かなければならないのです。明らかなように簡単ではありません。ある本でこのことについてカルヴァンのことばを引用していました。


「だれでも自分自身に熱中しており、自分の習性(性質、くせ)は忍んでもらおうとし、他人の習性には合わせようとしないものである。そこで、私たちは非常な苦労をして平和を求めなければ、平和を保持していくことはできない。」


 平和も聖さも基本的には神の愛の実践ですが、無意識でできるものではなく、努力が必要です。けれどもその中で神からの平安があり、キリストの励ましと助けがあります。そして何よりも大事なのは救いの自覚です。「罪をなだめるいけにえとしてのキリスト、そして大祭司キリストによって私は何ものにも代えがたい天の御国での永遠の平安を受けている」これが自分を脇に置く余裕を生み出すのです。

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