■はじめに
私たちは他の人が汚したものをきれいにしたり、散らかしたものを片づけしながら「何で私がするの」と思うときがあります。あるいは、仕事で同僚のミスをフォローしながら「何であの人の尻ぬぐいを」と不満を漏らすこともあるでしょう。イエスの十字架もこれと似ています。「何で私があの人の罰を受けなくてはならないの」という状況なのです。でもイエスはいやいやでもなく、不満を漏らすこともなく、私たちが受けるべき神の罰を受けてくださいました。人のために犠牲になることが神の愛だからです。今日は弟子の足を洗う出来事から、イエスを信じる者は何を持つべきかを聖書に聞きます。
Ⅰ.イエスは弟子の足を洗うことで、イエスを信じる者が持つべき愛を教えた(13:12-17)
最後の晩餐の席上、イエスは弟子たちの足を洗うことを通して、イエスが罪をきよめるという真理をまず伝えようとしました。けれども、足を洗う意味はそれだけではありませんでした。
イエスはペテロの足を洗いながら、このことが何を意味しているのか後でわかるようになる、と言いました。なのに今、理解しているかどうかを尋ねていますから(12節)、「イエスによって罪をきよめる」とは別の意味がありそうです。ここでイエスは自らその意味を答えます(13-14節)。
12弟子にとってイエスは真理を教える先生であり、自分が従うべき主であることに間違いはありません。それを根拠としてイエスは「わたしが洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うように」と命じました。しかもこれを努力目標ではなく義務として命じています。
前回申しましたように、客人の足を洗うのは奴隷の仕事ですから、一般人にとっては単に手間とか面倒ではなく屈辱的な行為と言えます。ですから互いに足を洗うためには「何で私が」という思いを断ち切って、「この人のために」という思いで実行しなくてはなりません。けれどもこのことが、イエスがこれから十字架で明らかにする神の愛の本質なのです。神の愛とは愛情とか愛(いと)しいのような感情だけではありません。自分の欲望やプライドを脇に置いて、相手のためにすべきことを尽くす、これが愛なのです。
しかも主であり、師であるイエスが弟子の足を洗いました。人にとって尊敬に値する人、立派な人に尽くすのは容易です。しかし、イエスはその逆を行っただけでなく、これから自分の裏切るユダの足も洗いました。つまり、自分に都合の悪い人や敵対者であっても愛するのが、キリストの示した愛なのです。
さらにイエスはなぜこれを命じたのかを語ります(15-16節)。神はイエスをこの地上に遣わしました。それゆえ、神が主人でありイエスはしもべであるから、イエスは神のみこころを全うします。もし、弟子たちがイエスを「先生とか主」と呼んでいるのに、イエスの模範を無視したなら、彼らはイエスよりも自分の方が偉大だと思うことになります。
実はこの食事の最中、弟子たちは誰が一番偉いかで議論になりました(ルカ22:24)。この有り様ではイエスが地上を去った後、彼らは自分のことしか考えず一致などはとうていできません。だからイエスは互いに仕え合い愛する関係を保つことで、模範を示した主であり師であるイエスに目を向けさせようとするのです。「イエスが私たちを大切にしてくださったのだから、私たちもまた互いに大切にしよう」これが弟子たちが一つになってこの世を生きるための土台なのです。
最後にイエスは互いに仕え合うことが何をもたらすのかを教えます(17節)。ここでもイエスは「分かっているなら、そして、それを行うなら」とあるように、理解だけでなく実行を必要としています。なぜなら神の愛は感情だけでなく、ふるまいを伴うからです。また「幸い」とは神からの栄誉、喜び、平安が与えられることを言います。もし、互いに仕えない関係のままなら、誰が偉いかのような上下関係やプライドがはびこり、集団は緊張と不安あるいは恐怖に包まれます。互いに仕え合う時、それぞれがイエスを思い起こし、イエスが安心と希望を与えてくれます。これが何にもまさる幸いです。
この食事のあとイエスは逮捕され、十字架で死に三日目によみがえり、天の父のもとに帰ります。地上に残された弟子たちがイエスを信じる信仰にとどまり、イエスを世の中に伝えるために、イエスはまず「イエスが罪をきよめて、天の御国で神の栄誉に与らせる」このことを伝えました。次に教えたのが互いに仕え合うこと、すなわち互いに愛し合うことです。これまでイエスは彼らを教えまとめてきました。けれども天に昇った後は、イエスは人の姿をとって直接彼らを指導することはありません。彼らだけで一致と平和を保ち希望を持たなければなりません。そのためにイエスは自ら彼らの足を洗う行為を通して、互いに仕え合う義務を与えました。「イエスはあの人も愛した、だから私もあの人を愛する」クリスチャン同士の関係はイエスを中心とした関係なのです。
Ⅱ.イエスはユダの裏切りを暗示しながら、イエスのへの信頼が仲間を受け入れにつながることを教えた(13:18-20)
イエスは互いに仕え合うことを教えましたが、同時にこれに反する事実も伝えます(18-19節)。イエスは12弟子をご自身で選び弟子に任命しました。もちろんその中にはイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダも入っています。イエスが足を洗った者から裏切り者が出るのですから、弟子たちは驚くでしょう。ただこの出来事は聖書が成就するのであり、いわば神のご計画の範疇なのです。
イエスが引用したのは詩篇41:9のことばです。「私のパンを食べている者」すなわち私に忠誠を誓っている者が、あたかも馬が主人を蹴倒すように反抗する、これがユダによってその通りになります。イエスがこのことを前もって伝えたのは、ことが起きた時に弟子たちにイエスを全知全能の神と確信させるためでした。12弟子はイエスと3年間寝食を共にしましたから、ユダの裏切りにショックを受け、理由を探るでしょう。けれども「詩篇のことばがイエスによって実現した。しかもそうなることをイエスは事前に語っていた。」この事実によって弟子たちの目がユダに移らずイエスに留まるのです。彼らの混乱を防ぐためのイエスの配慮としか言いようがありません。
さて、イエスはご自身を裏切る者について語った後、弟子同士のあり方を教えます(20節)。「わたしが遣わす者」とはまさに、彼ら弟子そのものですが、もっと広い意味ではイエスを信じイエスに従う者となります。つまり、イエスが遣わしたのだからイエスの仲間として受け入れなさい、とイエスは命じるのです。それが遣わしたイエスそして、イエスを遣わした神を受け入れることにつながるからです。外交において、もし贈り物や使者を拒否するならば、贈った王や国の拒否になります。イエスを信じる者を受け入れる者は、イエスと神のみこころを自分の思いよりも大切にしているのです。神の愛に基づいて互いに仕え合うことと同じように、他者を受け仲間に入れることもイエスを中心になされます。
■おわりに
12弟子には職業や出身のような外面的な違い、さらに性格や能力、思想のような内面的な違いがありました。これにこだわり互いに弟子として認め合わなければ、互いに仕え合うのは無理です。けれども唯一共通しているのが、イエスが弟子に任命したという事実です。「自分を愛してくださったイエスが選び任命した」ここに立てば違いを乗り越えて受け入れられるのです。イエスを信頼しているからそうできるのです。イエスが地上を去った後、弟子たちにはユダヤ人が忌み嫌っている異邦人も共同体に加わってゆきます。ユダヤ人同士とは比べものにならないほどの壁があるのです。でもそのとき、「イエスが選んで救い、イエスを証しする者に任命した」これが壁を壊し互いに受け入れ、互いに仕え合う仲間になって行くのです(エペソ2:14)。
現代の日本にいる私たちクリスチャンにも弟子たちと同じように違いがあります。教会に集う方々を見ても、年齢、性別、職業、生い立ち、文化、習慣、性格、思想など違いを挙げたらきりがありません。しかも、教会の外にまで範囲を広げたならば、所属教会はもちろんのこと教団や教派、信条、礼拝のスタイル、教会政治のような違いを私たちは目にします。もし、違いにばかり注目していたなら互いに受け入れ、互いに仕え、愛する関係にはならないでしょう。
イエスは弟子全員の足を洗い、互いに洗い合うように命じました。「互いに」なのですから、イエスによって罪をきよめられた者はイエスを信じる仲間としてこの世を生き、仲間でイエスを証しするように命じているのです。「イエスが十字架によって罪をきよめて永遠のいのちを与えてくださり、イエスを証しする者に任命してくださった。イエスは私だけに愛を注いでいるのではなく、あの人にも愛を注いでいる。」これが、互いの違いを認めながら互いに受け入れ、互いに愛し仕え合えう土台です。そして「イエスが自ら犠牲になるほど私を愛し仕えてくださっている」このことを深く心に染み渡らせることから、他者への愛が始まるのです。
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