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木村太

7月30日「私たちは天に近づいている」(ヘブル人への手紙12章18-24節)

■はじめに

 新型コロナウィルスが5類感染症に移行してから、テレビやインターネット、雑誌などで観光地やイベントの紹介が多くなりました。約3年間自粛していたので当然かもしれません。それで私たちは、「食べ物が美味しい/景色が素晴らしい/楽しいアトラクションがある」のような情報から魅力を感じるので「今度あそこに行きたい」となります。クリスチャンが約束されている天の御国いわゆる天国もそれと同じで、何らかの魅力があるからそこに憧れるのです。もし、毎日の生活とあまり変わらなかったら、天国に行きたいと思うでしょうか。そこで今日は、私たちが近づいているゴールがどんなものなのかを聖書に聞きます。


■本論

Ⅰ.私たちは神による滅びという恐怖に近づいていない(12:18-21)

 この手紙の著者は、苦難を忍耐しながら信仰を貫くとは平和と聖さを求めることと教えました。そしてその生活の中で平安という実が結ぶことを伝えました。その一方、エサウのように一時(いっとき)の強い欲望を満たすために聖さと平和をおろそかにする性質がクリスチャンにもあることを明らかにしています。というのも、軽率な行動が約束されている神の祝福を台無しにしてしまうからです。そこで著者は、エサウが長子の祝福を約束されていたように、読者たちに約束されている神の祝福を語ってゆきます。迫害を逃れるためにキリストを捨てて、神の祝福を台無しにして欲しくないからです。


 著者は「近づいていないこと(18-21節)」と「近づいていること(22-24節)」を対比させて何に近づいているのかを強調しています。最初に著者は、近づいていないこととして、シナイ山でモーセに律法を与えた時の様子を語ります。ここには、神がモーセをはじめイスラエルの民にご自身を現す際の物事が7つ記されています(18-19節)。


①手でさわれるもの:直接的には20節に出てくる「山」を指しますが、意味としては、神の現れを感覚的に知ることです。専門用語では「神の顕現」と言います。

②燃える火、黒雲、暗闇、嵐:これらも神の現れを示す物事であり、人は視覚、聴覚、触覚で認知できます。

③ラッパの響き、ことばのとどろき:これらは神がそこにおられて、ご自身のことばを発している様を意味しています。


 これらからわかるのは、神の顕現は平安とか喜びではなく、重々しさや恐怖を抱かせるということです。20節「『「たとえ獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない』という命令に耐えることができませんでした。」とあるように、神はご自身がおられる山が聖であるから、聖でないものはどんなものでも触れないように命じています。それほど神は聖さに対して厳格だから、民は神の顕現に対して恐怖を覚えるのです。もし、「言葉や態度がほんのわずかでも私の目にかなわなかったら、あなたを処罰します」という人が目の前に現れたらどうしますか。イスラエルの民にとって神の顕現はそのようなものですから、恐れしかないのです。


 しかも、シナイ山で直接神と会見したモーセでさえも恐怖を抱いています(21節)。神がモーセを指名して会見したというのは、神にとってモーセは特別な存在である証拠です。にもかかわらずモーセは「私は怖くて震える」と神を前にして震え恐れたのです。


 つまり、読者であるユダヤ人クリスチャンが神とお会いするのを恐怖と感じているから、著者は「これに近づいていない」と語ったのです。モーセの律法はおおよそBC1500年、一方この手紙はAD60年ころですから、ユダヤ人にとっては圧倒的にこれまで教えられてきた神の姿が身に染み付いています。それゆえ、彼らは終わりの時にさばかれないように、律法から導いた細かな戒律を先祖代々必死に守ってきました。いわば、ユダヤ人の神観は愛とか平安よりも、圧倒的な権威による恐れなのです。それで著者は、キリストを信じた者は恐怖に行かないと励ますのです。


 苦難の中で信仰を貫いた先が恐怖しかなかったら、誰が「キリストを信じて生きてゆこう」となるでしょうか。確かに神は聖さに対して厳格で、ほんの小さなゆるみも隙間もありません。それゆえ、キリストが再び来られたときの審判では聖でない者は全員有罪となり滅びに定められます。けれどもキリストを信じる者は聖とされているから無罪となり神の怒りを免れます。私たちはすでに神の怒りから外れていることをしっかりと心に刻みましょう。


Ⅱ.私たちは完全で永遠の平安が満ちている天での礼拝に近づいている(12:22-24)

 手紙の著者は「あなた方が向かっているのは恐怖ではない」と語った上で、今度は「どれほど素晴らしいところに向かっているのか」を明らかにします。ちょうど旅行ガイドに「現地での危険は一切ありません。魅力的なところばかりです。」と書いてあるようなものです。


 著者は近づいているものを7つ挙げていますが、これらは3つの特徴を持ちます(22-23節)。

(1)天に入る

①シオンの山:ソロモンが神殿を立てた場所ですが、この場合は神の都の中心を意味します。

②生ける神の都:神がともにいることを意味している

③天上のエルサレム:天における真の都です。地上のエルサレムも神の国イスラエルの都ですが、こちらは不完全な都です。

 イエスが「あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。(ヨハネ14:3)」と語ったように、キリストを信じる者は天における神の国の都に入ります。


(2)神に所属する者の礼拝に加わる

①無数の御使いたちの喜びの集い:神に仕える御使いたちが喜びの祝祭をしています。ここにあるのは喜びだけです。

②天に登録されている長子たちの教会:エサウのところで触れたように、長子が父の財産を相続します。クリスチャンも神の子として神の財産を相続しますから、その視点からすればすべてのクリスチャンが長子と言えます。しかも、「天に登録されている」とあるように、キリストによって救われた者はすでに登録されているので、必ずこの長子たちの教会に入ることができます。

 この地上ではクリスチャンは存在しているけれども目には見えない神に向かって礼拝します。しかし、天では見て聞いて触れることのできる神と一緒に礼拝します。しかも、先に召された者や出会うことができなかった者もともに礼拝するのです。


(3)神と応援している信仰の偉人たちと会える

①すべての人のさばき主である神:キリストを信じる者を聖として判決した神

②完全な者とされた義人たちの霊:11章で登場した信仰の偉人たちが天にいます。彼らはキリスト以前の者でしたので、神が彼らを義と認めました。

「このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから(12:1)」とあるように、クリスチャンのお手本であり、応援者である方々にお会いできます。このところで私たちは面と向かって感謝を現せるのです。


 明らかなように、私たちが入る神の国の都は神ご自身、御使い、義と認められた者、言い換えれば聖なる者がいますから完全に永遠に平和で聖さしかありません。恐れや不安は一切ないのです。だから喜びの礼拝が永遠に続くのです。


 さらに、クリスチャンはついにキリストに会います。24節にあるように、新しい契約の仲介者イエス、そして注ぎかけられたイエスの血とあるように、いけにえのイエスによって、先ほどの3つの事柄が実現しました。私たちはそのお方と直にお会いできます。


 「アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血(24節)」とは、罪人である人間にとって必要なのはアベルの血ではなく、イエスの血であることを指してします。アベルもイエスもよいことをしたにも関わらず人よって殺され血を流しました。しかし、流された血の意味は違います。「あなたの弟の血が、その大地からわたしに向かって叫んでいる。(創世記4:10)」とあるように、アベルの血は復讐を神に求めています。一方、イエスの血は神の怒りをなだめるためのものです。信仰ゆえの迫害を受けている者は迫害者への復讐を神に求めますが、罪からは救われません。人にとって最も必要なのは罪がもたらす滅びからの救いです。だから、イエスの血の方がすぐれていると言えるのです。


 この血を流してくださったイエスが、信じる者を天の御国に入らせ、平和と聖さだけの世界に住まわせるのです。読者であるユダヤ人クリスチャンをはじめ、現代の日本にいる私たちも、このところへ刻一刻と近づいています。私たちが近づいているのは神の怒りという恐怖ではなく、天の御国という平安だけが満ちているところです。それゆえ私たちは苦難を忍耐しながら信仰の人生を歩むことができるのです。


■おわりに

 使徒ヨハネは天での様子をこのように語っています。「もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。(ヨハネの黙示録22:3-5)」天での生活はこの地上とは全く違います。この地上の物事から最もすばらしいものを想像したとしても、それよりも計り知れないほどすばらしい世界なのです。そこに私たちはすでに登録されているから必ず入ります。この事実が私たちに希望と忍耐する力を与えるのです。

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