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木村太

7月12日「御子を信じる者」(ヨハネの福音書3章16-21節)

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16,新改訳2017)」聖書の中で最も知られ、また最も暗記されていることばです。ある本には、キリスト教の本質がこのことばによって完全に示されている、とあります。それに対して当時のユダヤ人たちは、御子イエスをローマ帝国から開放する救い主(メシア)と信じ期待していました。救い主についての理解と期待が本質からずれています。現代においてもキリスト教に対する世の中の期待は「苦境から救う/自分の願いを叶える/悪いことや禍から守る」のように本質とは違います。そこで今日は、人にとって最も大事なものについて聖書に聞きます。


Ⅰ.神は世を愛するがゆえに御子イエスを世に遣わし、イエスを信じる者に永遠のいのちを与える(3:16-17)

 イエスとニコデモは神の国について問答し、イエスは御霊によって新しく生まれた者が神の国に入ると答えました。さらにイエスの話は、「神の国」から「イエスを信じる者が永遠のいのちを持つこと」に移ってゆきます。なぜなら神の国に入った者は永遠に生きるからです。ですから御霊によって新しく生まれた者がイエスを信じる者になるのです。この問答を受けてヨハネは永遠のいのちについて解説します(16節)。


 人はイエスを信じていなければ滅びます。生まれたままでは神の国に入れません。滅びとは肉体の死ではなく、肉体が無くなった後も永遠に苦しむ状態を言います。たとえユダヤ人のように神の民であっても、あるいは生涯犯罪をせず善人と呼ばれていても、イエスを信じていなければ例外なく滅びに至ります。けれどもイエスを信じた者は滅びを免れ永遠のいのちを持ちます。言い変えれば神の国で永遠に生きるのです。ヨハネの黙示録にあるように死も悲しみも叫び声も苦しみもなく、永遠に喜びと平安に満たされるのです(ヨハネの黙示録21:4)。


 滅びに定められた人が永遠のいのちを持つことができるのは、神が唯一の我が子イエスを与えるほどに世すなわち罪を持つ人間が生きる世界を愛しているからです。神は朽ち果てない御子イエスを、弱さがあり時と共に朽ちてゆく肉体に生まれさせました。その上、この世においても神から見ても全く罪がないのに十字架刑という最も残酷で屈辱な刑で死なせました。イザヤ書に書かれている通り、人が受けるべき罪の罰をイエスが代わりに受けてくださったのです。これが御子を世に遣わした事実であり、人を愛した証拠です。


 イエスはニコデモとの問答の中で、エジプト脱出後の荒野での出来事を用いて人の救いを明らかにしました。蛇にかまれても青銅の蛇を見れば助かるように、罪ゆえに滅びに定められていても身代わりとなったイエスを信じれば永遠のいのちを持てます。両方とも神が救いの手段を与えたという点では同じですが、決定的な違いがあります。それは、永遠のいのちにおいては御子イエスという犠牲を神は払っているのです。蛇の方は全能という神の能力ですから、神はご自分の力を発揮すればよいのです。しかし、人が滅びを免れて永遠のいのちを持つために、御子イエスという本来は払うべき必要のない犠牲を神は人のために払ってくださいました。それをわかったヨハネは「御子を遣わしたのはまさに神の愛だ」と言うのです。


 さらにヨハネは、御子を世に遣わしたことをこう説明します(17節)。「さばく」は白黒のように善悪をはっきりさせるというよりも、ここでは悪に対する罰を表しています。イエスはこの世にやって来て罪ある人間を片っ端から滅ぼすことはしていません。むしろ神の国に入る方法、つまり滅びを免れて永遠のいのちを持つ方法を教え、そして十字架で死んでよみがえりました。だから、イエスがこの世に来た目的はさばきではなく救いだと、ヨハネは語るのです。


 「神はひとり子を世に与えた/御子を信じる者は永遠のいのちを持つ/御子によって世が救われる」これは、人が自分自身の努力や鍛錬あるいは他者の力では決して滅びを免れないことを示しています。パリサイ人のように昔からの規則を厳しく守っても絶対に永遠のいのち、神の国は手にできません。それほど人は悲惨な存在なのです。けれども神はそんな人のために、我が子イエスを犠牲にしました。神は悲惨な状態を脱して、永遠に喜びと平安に満たされる人本来の生き方になって欲しいのです。イエスの誕生、十字架の死、よみがえりという事実こそが、神が世を愛した確かな証拠なのです。


Ⅱ.イエスを信じる者はイエスと共に平安を生き、信じない者はイエスと離れて不安と恐れを生きる(3:18-21)

 さてヨハネはさばきについてことばを続けます(18節)。神のさばきは御子イエスの名を信じているかどうかで決まります。名を信じるとは「この方は誰よりも権威がある/この方は完全に正しい/この方は完全に信頼できる」と確信することです。例えば「わたしを信じる者は死んでも生きる(11:25)」あるいは「わたしを通してでなければ誰も父のみもとに行けない(14:6)」と常識ではあり得ないことをイエスが言っても、「イエスを完全に信頼するから彼のことばも信じる」というのが名を信じることです。


 一方、名を信じていない者は今生きているところでさばきを受けています。ヨハネはそのさばきをこのように言います(19節)。光が世に来るというのは、この書の最初で語られているように、まことの光であるイエスがこの世に来たことを示しています。神のさばきとはイエスに従わないで、やみ、すなわち罪に従っている姿そのものなのです。ですから、悪意とか意地悪のように人に対する悪を行っていることがやみを愛している証拠であり、すでにさばかれている証拠になります。


 私たちは「さばき」という言葉を聞くと、悪い行いに対する罰のように思いますがそうではありません。というのも悪い行いは自分の中にある不安や恐れや不満から出ているからです。本来人は神から満たされて生きるものです。けれどもそうなっていないのは神からさばかれて、苦痛の生き方に引き渡されているからなのです(ローマ1:28)。私たちが不安や恐れや不満を持つこと自体がすでに罰を受けている証です。


 さらにヨハネは光を愛する者とやみを愛する者の違いを明らかにします(20-21節)。やみを愛し光を憎む者は、光すなわちイエスによって悪が暴露されるので光のところに来ません。イエスひいては神を信頼していないので、悪に対して怒られるという恐れしかありません。一方、神の聖さ、正しさ、善といった真理を行う者は、光であるイエスのところに来ます。神のみこころに従っていることをイエスの前で明らかにするためです。そしてやみを愛する者とは反対にイエスの喜びを共に味わいたいからです。


 私たちはやみを愛する性質を持っています。なぜなら最初の人アダムとエバが善悪の知識の実を見て、おいしそう、かしこくなりそうという欲に囚われ、食べてはいけないという神の命令を後回しにしたからです。言い換えれば、神を愛し人を愛することよりも自分を満たす方を優先したのです。このことによって人は神ではなく他のものに安心や喜びを求めるようになりました。でもそれは生涯、不安と恐れと不満が解消されない罰を受けているのです。しかし神はイエスによって私たちを再び神を愛し人を愛する者に変えてくださいました。それゆえ私たちは自分の欲が満たされなくても、イエスの前に出て不思議な喜びと平安をもらえるのです。たとえ悪をしたとしてもイエスを信頼しているから、正直にイエスの前に罪を告白し悔い改めに向かえるのです。



 私たちの人生において最も大事なものは何でしょうか。国の平和、財産、家族、人脈、権力、知識、健康など人によってそれぞれあると思います。しかし、神からすると人にとって最も大事なのは滅びを免れて永遠のいのちを持つことなのです。聖書全体がそのことを明らかにしています。どれほど高価なものを持っていても、どれほど高い地位で権力を手にしていても、あるいはどれほどすばらしい能力があっても、神の御国での永遠のいのちに比べたら、無に等しいのです。それらは不安や恐れや不満を常にそして永遠になくすことは絶対にありません。

 ただし、永遠のいのちはこの世のあらゆる方法をもってしても手に入れることはできません。罪が赦されない限り手にできないのです。そんな人に対して神は御子イエスを罪をなだめるための犠牲にしたのです。これが神の愛です。


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