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木村太

7月19日「上から来る者と地から出る者」(ヨハネの福音書3章22-36節)

 教会の礼拝では奉仕者と呼ばれる様々な担当者がいます。例えば受付、司会、奏楽、説教、感謝の祈りなどがあり、教会によっては聖書朗読者や賛美リーダーというものもあります。こういった担当は礼拝出席者の目に見える働きですけれども、一方で週報やパワーポイント作成のように人の目にはつかない担当もあります。しかし全ての担当に共通しているのは礼拝者が神を崇め、同時に礼拝を通してキリストを証するために行っているということです。今日は、神が与えた私たちの役割とイエスの役割について聖書に聞きます。

Ⅰ.バプテスマのヨハネは神から与えられた役割をわきまえているから、へりくだって自分の役割を全うする(3:22-30)

 イエスの活動が進みユダヤ人たちはイエスを受け入れるようになってきました。同じ頃バプテスマのヨハネもユダヤ人の中で活躍していました。それで使徒ヨハネはイエスとバプテスマのヨハネとの違いを明らかにし、崇めるべきはイエスであることを読者に伝えようとします。

 イエスと弟子たちはエルサレムで過ぎ越しの祭りの期間を終えて、ユダヤ地方でバプテスマを授けていました(22節)。ただし、イエスの十字架とよみがえり、さらには聖霊が下る前ですので、バプテスマのヨハネと同じように悔い改めたしるしとしてのバプテスマです。もっとも、この出来事のすぐ後にヨハネが記しているように、イエスはバプテスマを弟子たちに任せていたようです(ヨハネ4:2)。同じ時期、ヨルダン川沿いの町アイノンで、バプテスマのヨハネも弟子たちとともにバプテスマを授けていました(23節)。イエスの名が国中に知れ渡ったときには、すでにヨハネはヘロデ王に捕まり牢獄で首をはねられていますから、捕まる直前の頃と思われます(24節,マルコ6:14-29)。

 ここで、バプテスマのヨハネがいる場所で事が起きました(25-26節)。「きよめ」が具体的に何を指しているのか不明ですが、26節の言葉からすると「水のバプテスマ」を指しているのでしょう。ヨハネの弟子たちが「あの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています。」と話していることから、同じようにバプテスマを授けているヨハネとイエスのどちらが本物のバプテスマなのかという議論をしていたのです。さらに「何でイエスの方ばかり集まるんだ」と人々の反応に不満を持っていました。当然ヨハネの弟子たちは「ウチの先生の方が本物だ」と思っていました。

 そこでバプテスマのヨハネは弟子たちに答えます(27-28節)。人に何ができるのか、というのは天におられる神のお考えによります。つまりヨハネは、目に見える成果や働きの内容を見て上下とか優劣を判定するのではなく、自分に与えられた役割をわきまえることが大事だ、と言っているのです。だからヨハネは自分の役割はキリスト(救い主、メシア)ではなく、キリストの前を歩いて道を整えることだと語るのです。

 さらにヨハネはイエスに対して自分はどういう立場なのかをたとえを用いて語ります(29節)。ここでは、救われる人々を花嫁、イエスを花婿、自分を花婿の友人にたとえています。花婿が花嫁を迎えて一つになるように、イエスが信じる人を迎えてご自身と一つになり、その人を救います。滅びから人を救う役割はイエスであり、バプテスマのヨハネではありません。一方、花婿のそばに立つ友人、すなわち花婿の介添人は花婿の世話をし花婿を引き立てる役割があります。ヨハネが授ける水のバプテスマはイエスを信じることへの前段階であり、イエスの働きのためにあるのです。それで、友人が花婿の声を聞いて喜ぶように、ヨハネもイエスの働きや活躍を喜ぶのです。30節「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」とあるように、人々が崇めるのは救い主イエスであることをヨハネは認め、自らは黒子のようにイエスに人をつなげる働きに徹するのです。まさにバプテスマのヨハネは神から与えられた自分の役割を受け止め、それを全うすることを喜びとしています。

 この世は目に見えることがらで優劣や上下関係をつけたがります。それは教会同士やクリスチャン同士でも起きています。けれども大事なのは神から与えられた役割を全うすることです。「上か下か/どちらが優れているか/どちらが正統か」といった順序付けではありません。イエスを信じる一人一人にイエスのための役割が与えられ、それの優劣はないのです。私たちは人と比べるのではなくて、自分の役割をちゃんと知っているのか、そして神とイエスに対して誠実かどうかに気を配るのです。

Ⅱ.イエスは神のみこころを地上で証言する役割があり、そのイエスを信じることで人は永遠のいのちを得る(3:31-36)

 バプテスマのヨハネのことばを受けて使徒ヨハネはイエスについて語ります(31-32節)。ヨハネは上すなわち天から来られた御子イエスと地から出た人間との違いを明らかにしています。もちろん地から出た者にはバプテスマのヨハネも含まれています。地から出た人間が語れるのは、地上で見聞きできていることのみです。一方、天から来られたイエスは神と共にいて、すべての始まりから知っているので、人知の及ばないことがらもご存じです。現代の人間が未知と呼んでいるものも、将来何があるのかもです。イエスが再び来られること、そのときの審判、永遠の滅びと永遠のいのちはそれの典型です。

 それゆえ、人知を越えたイエスの証しをほとんどのユダヤ人は理解できず、受け取れません。例えば、イエスが水の上を歩いているのを見ても、「神が人になるわけがない」と信じているので、イエスは神ではなく神から力を受けた者だ、となるのです。しかし、イエスのことばと行いとを見て「イエスが神だ」と受け入れた者は、文書に認印を押すように、神は真実だと確信しています(33節)。言い換えれば、イエスは正しいと確信している者は、イエスを遣わした神も正しいと確信しているのです。

 なぜイエスの証言を受け入れた者が神を真実と確信するのか、その理由をヨハネはこう説明します(34-35節)。神は御霊を通してイエスに理解や判断、語ることばを与えています。また、「その手にすべてをお与えになった。」とあるように、神ご自身がなすべきことをすべてイエスに委ねています。つまり、イエスの地上でのふるまいはすべて神のみこころに従っているのです。イエスが神のみこころから離れて勝手にすることはありません。この世に人として生まれたことも、奇蹟を行いながら福音を伝えることも、十字架刑で死ぬことも、3日目によみがえることも、すべてはみこころ通りなのです。だからイエスを受け入れる者は神を受け入れていることになるのです。これが神から与えられたイエスの役割なのです。そしてイエスの役割によってこの世にもたらされることがらをヨハネはこう言います(36節)。

 御子イエスを救い主と信じる者は神の怒りである滅びを免れて、天の御国で永遠に生きます。反対にイエスを信じないで反抗する者は永遠のいのちを手にできず、地上の生涯においてもさらに肉体が滅んだ後においても神の怒りの中に留まります。だから神から与えられたイエスの役割は人にとって最も必要であり、かつその役割はイエス限定であり、イエスより他はありません。

 バプテスマのヨハネはユダヤ人を悔い改めに導いて、イエスを信じる道を用意する役割がありました。使徒ヨハネはエルサレム教会の長老となり、福音書や黙示録を通して救いを明らかにする役割がありました。使徒ペテロやパウロも同様です。キリストを救い主と信じて滅びから永遠のいのちに救われた者は全員、キリストを伝える役割を神から与えられています。見方を変えれば「イエスを信じる救い」を伝える働きを神は私たちに委ねているのです。

 同じようにイエスも神から救いに関わる役割を与えられました。それは人として生まれ不思議なわざと共に福音を語り、十字架で死んでよみがえるというものです。ただし、イエスの役割がなければ、人は神の怒りによる滅びを免れず、永遠のいのちを持つことはできません。だからイエスは唯一であり人にとってなくてはならない存在なのです。それゆえ私たちはイエスを尊び、イエスのために生き、イエスの喜びを自分の喜びとするのです。


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