■はじめに
伝道者の書1章で著者のソロモンは2つの事実から「この地上のものごとはすべて空」と語っています。一つは、すべてのものごとは同じ事の繰り返しで、あるところに永遠に留まらない事実です。もう一つは、知識や知恵といった真理を探究してもゴールには決してたどり着けない事実です。それで人間は空を回避するために常に何かを求めたり、あるいは空を知ってしまって虚無や失望になるのです。けれども、キリストを信じる私たちには天の御国という永遠に住むことのできる故郷が約束されています。だから私たちは空の世界を生きながらも、天の御国というゴールを目指して生きているのです。ただしゴールがあるとはいえ、信仰を貫く人生は容易ではありません。この手紙の読者のように信仰ゆえの苦しみがあるからです。そこで今日は天の御国を目指して私たちはこの世をどう生きるのかを聖書から見てゆきましょう。
■本論
Ⅰ.クリスチャンは信仰の偉人たちをお手本とし、彼らの応援を受けながら天の故郷を目指している(12:1)
この手紙の著者は、迫害にあっても信仰によって生きるために、読者がよく知っている信仰の偉人たちを解説しました。お手本を示して彼らを励まし奮い立たせようとしたのです。その上で著者はどうすれば信仰を貫けるのかを具体的に示します。
著者は信仰を貫く人生を、ゴールを目指す長距離ランナーにたとえました(1節)。なぜなら、走る競技にもゴールがあるように、クリスチャンにも長い人生の先に天の御国・天の故郷というゴールがあるからです。ここで著者は「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから」と不思議なことを語っています。
「こういうわけで」とあるように、著者はキリスト以前にも信仰を貫いた偉人がいることを明らかにしました。彼らについてイエスが「あなたがたは、アブラハムやイサクやヤコブ、またすべての預言者たちが神の国に入っているのに(ルカ13:28)」と言っているように、彼らは信仰の人生を完走しました。しかも彼らは「キリストを信じれば天の御国に入れる」という救いを知らされていなかったにもかかわらず信仰を貫きました。ですから、彼らが信仰を貫く人生がどんなだったのかを証言できるのです。
そんな彼らが読者を含めて私たちクリスチャンを雲のように取り巻いています。つまり信仰の偉人たちはクリスチャンのお手本であると同時に、ランナーを励ます応援者でもあるのです。あたかも、先にゴールした者たちが声援を送るようにです。著者は、天を目指す読者に良いお手本と多くの声援があるのを明らかにし、「だから信仰を貫ける」と彼らを励ましているのです。
ただし、信仰を貫くためには2つのことが必要です。一つは「一切の重荷とまとわりつく罪を捨てる」であり、もう一つは「忍耐をもって走り続ける」です。
①一切の重荷とまとわりつく罪を捨てる:「一切の重荷」は走りを妨げる外部からのものを言います。この手紙で言えば、御使い礼拝のように神以外に頼らせようとする外部のものごとです。一方「まとわりつく罪」は走りをくじかせたり挫折させるような気持ちであり、神以外に頼りたくなる内側から湧き上がる思いです。つまり、神以外に頼らせようとするすべてを自らが排除あるいは無視するのです。
②忍耐をもって走り続ける:忍耐とは今の苦しみに耐えることであり、走りを妨げるものごとに直面してもねばり強く走り続ける、いわゆるしぶとさを言います。
読者のユダヤ人クリスチャンも現代の私たちも、キリストを信じる信仰によって天の御国が約束されています。それゆえ天の御国を目指して信仰に基づきながらこの世を生きています。また、読者が迫害にあっているように、私たちも信仰ゆえの苦しみを受けます。同じように、アブラハムやイサクやヤコブ、モーセといった信仰の偉人たちも天の故郷を目指しながら信仰ゆえの苦しみを生きました。そして彼らはすでにゴールして、私たちを取り囲んでいます。私たちには、すでにゴールした経験者がいますから、手探りの人生にはなりません。その上、信仰の偉人たちが私たちを応援しています。聖書に登場する信仰の偉人たちは現代に生きる私たちと無関係ではなく、私たちのお手本であり支援者なのです。
Ⅱ.イエスは「信仰を貫く人生」と「貫いた先の栄誉」を人のために見せてくださった(12:2-3)
続けて著者は、目標を目指して忍耐をもって走る秘訣を語ります(2節)。ここで注目したいのは、著者が「救い」ではなく「信仰」、そして「キリスト」ではなく「イエス」と言っている点です。著者は、人として生まれ十字架で死ぬまで完全に神に従い通したイエスに焦点を当てています。このイエスが信仰の創始者であり完成者と著者は言います。「創始者」は「最初の者/原型」を意味しますから、イエスは地上に生きる者として最初に信仰とは何かを明らかにした者なのです。見方を変えれば、イエスの生き様が信仰を人に明らかにしているのですから、信仰とは疑いなく神を信頼し、逸れることなく神に従う姿を言います。
一方、「完成者」は「完了/到達」した者を意味しますから、人生の終わりすなわち死に至るまで信仰を貫いた姿を指しています。さらに言うならば、イエスは死んでから3日目に新しいからだでよみがえり、父である神のおられる天に戻りました。ですから「完成者」には信仰を貫いた者が死んだ後のことがらも含んでいます。
そして「目を離さないでいなさい」に続くことばが、「信仰の創始者であり完成者であるイエス」と言える根拠になっています。イエスは十字架刑というユダヤ人にとって不名誉・屈辱の刑をものともせず忍びました。「忍ぶ」は「逃げ出さずに留まる」有り様を言いますから、どれほどの苦しみだったのかがわかります。今、読者は信仰を捨てて迫害から逃げ出そうとしていますから、まさに彼らを意識した言い方です。
イエスがなぜ十字架を忍んだのか、その理由が「ご自分の前に置かれた喜びのために」です。イエスの苦難を記したイザヤ書にこうあります。「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。(イザヤ53:11)」イエスは十字架が神のみこころであり、それによって人が義とされるから、十字架での苦しみを満足しました。つまり、信仰とは神のみこころに従うことであり、そのお手本がイエスなのです。そして、「神の御座の右に着座された」とあるように、信仰を貫いて人生を完了した者の姿をイエスは人に明らかにしました。信仰を保ちながら人生を完走した者が神から受ける栄冠をイエスが見せてくれたのです。
ここから明らかなように、読者や私たちが常に目を注ぎ続けるのは、どんな苦難の中でも神を信頼し神に従ったイエスの姿です。私たちはよく「奇蹟をなしたイエスが苦難を取り去ってくださる」と期待しますが、目を留めるのは人を助けたイエスではありません。あくまでも、神のみこころに従い十字架をお受けになり、よみがえって天に上られたイエスに目を注ぐのです。私たちに信仰とは何か、人生を終えた先のゴールとは何かを見せているイエスから目を離さないのが、目標を目指して忍耐をもって走る秘訣なのです。
ところで、なぜイエスから目を離さないでいなければならないのでしょうか。その理由を著者はこう言います(3節)。「罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗」とあるように、イエスに敵対する者あるいは社会からの弾圧や迫害という点では、イエスと読者は同じ状況にあります。ただし、「あなたがたの心が元気を失い、疲れ果てる」とあるように、苦しみが激しかったり長く続いたりすると「信仰によって生きよう」という心がくじけたり、気力がなくなります。そんな時に「イエスが苦しみを忍耐した」ことを深く考えるのです。
イエスが祭司やパリサイ人たちから弾圧を受け、果てには十字架刑に定められたのは、表面的には人の企てです。けれども、真実は先ほど申しましたように「人を救う」という神のみこころです。つまりイエスは人のために苦しみ犠牲となったのです。「イエスは自分のために十字架の死さえも耐え忍んでくださった。」これに気づいた時、「いのちをかけて自分を支援してくださるイエス」がいることをわかります。その事実が苦しむ者を励まし、信仰を貫く気力を湧き上がらせるのです。イエスは信仰のお手本であると同時に信仰によって生きる者の支援者だから、いつも目を注ぐのです。
■おわりに
前回扱ったように、読者も現代の私たちも信仰を貫くゆえの苦しみがあります。この世の価値観や倫理観ではなく神に従うとき、あるいは王や為政者のような権威者ではなく神に従うときに様々な苦しみを受けます。それで私たちはくじけたり気力が萎え信仰から離れて、この世に埋没したいという衝動にかられます。けれども、私たちよりもはるかに激しい苦しみを味わったイエス、また信仰の偉人たちが聖書と聖霊を通して信仰の貫き方を教えています。そして、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:20)」とイエスが語ったように、私たちのために十字架をお受けになったイエスは今も私たちのそばにいて私たちを支えています。イエスは神に従ってこの世を生きるためのお手本であり、信仰の人生を貫いた者が受ける栄冠の見本であり、信仰ゆえの苦しみを担ってくださる伴走者として共に走っておられるのです。
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