■はじめに
私たちの人生には「誕生と死去、成功と失敗、合格と失格、平和と争い」のような正反対の出来事が起きます。どちらを喜ぶかは、当然、自分の望んでいる方だと思います。ただ、「これだけはどうしても」という願いが叶えられないのも事実です。私たちにとっては落胆や悲しみになりますが、神からすればそれも意味があるのです。今日は「様々な出来事に際して私たちはどこを見るのか」を伝道者の書7章前半から見てゆきましょう。
■本論
Ⅰ.知恵ある者は「起きている出来事」よりも「自分は正しい道を歩んでいるか」に注意を払う(7:1-6)
伝道者の書7章は、「~するよりも~する方がよい」のような格言的内容になっていて、この世を生きるための知恵が語られています。
1節「名声」は人物そのものの評価から出ていて、「良い香油」は顔をつややかにし外見を良くします。つまり、人にとっては表面的なものよりも中身が重要なのです。「死ぬ日と生まれる日」「祝宴の家と喪中の家」の対比はこのことを言っています(1-2節)。
「生まれる日と祝宴の家」は「生まれたこと/おめでたいこと」のように起きている出来事に注目しています。その一方、「すべての人の終わりがあり(2節)」とあるように「死ぬ日と喪中の家」は死を通して人の命や人生について考えさせられます。皆さんも経験しているように、仏教でもキリスト教でも葬儀では「命とは何か/生きるとは何か」が語られます。「生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。(2節)」とあるように、人は目に見える出来事だけではなく、命や人生といった内面を見るべきなのです。
このことをさらに明らかにしているのが3-4節です。先ほどと同じように「笑い・楽しみの家」では出来事そのものを喜びます。一方、人は悲しみや辛さでいっぱいの時、顔が曇ります。喪中の家はその典型と言えます。この時人は出来事を悲しみながら、「なぜそうなったのか/これからどうするか」のようにものごとを深く考えます。死に際して命や人生を考えるのもその一つです。ここでも、ものごとの表面ではなくて、内面、特に自分の内側を見つめることが知恵ある者にふさわしいと語られています。
続く5-6節では命や人生を含めて「自分の内面を見つめる方法」が記されています。5節「愚かな者の歌」は酔っぱらいの歌とも解釈されています。彼らの歌はおもしろおかしいだけで、聞いている人が内面を顧みることにつながりません(5節)。また、かまどで燃やされる茨が、火の勢いは最初だけですぐに燃え尽きるごとく、愚か者の笑いは今だけを見ています(6節)。一方、知恵ある者の叱責は耳に痛く、心を落ち込ませますが、聞く者はその叱責によって正しい道に戻れます(5節)。エレミヤ書を見ると、イスラエルの民は預言者エレミヤに警告されても「神の民だから平安だ。平安だ。」と言って神への背きを無視しています(エレミヤ6:13-15)。その結果、神の怒りによってユダ王国は滅びました。「知恵のある者の叱責を聞く」ことがいかに重要なのかが分かります。
日々の生活では「思い通りになった/願いがかなった」のように自分にとって喜びや安心の出来事があります。その反対に「なぜこんなことが/これだけは避けたかった」のように悲しみや恐れをもたらす出来事もあります。ここで大事なのは、自分に起きたことだけを見るのではなく、「自分は神の前に正しいかどうか」をチェックすることです。大喜びしたり、はしゃいだり、沈んだり、嘆いたりしつつも、正しい道すなわち神のことばに従っているかどうかに注意を払い修正する、これが知恵ある者の生き方です。
Ⅱ.知恵ある者は「自分の欲望」よりも「神のみこころ」を優先する(7:7-14)
ここから伝道者は知恵ある者が避けるべきことがらを挙げてゆきます。
①支配欲に従わない(7節):「虐げ」は暴力や暴言で人を支配し、「賄賂」は金銭で相手の心を操って自分の思い通りにさせます。両方とも支配欲によるものであり、神よりも自分を上にする行為です。だから、正しい判断が次第にできなくなり、破滅に至ります。
②自分を過信しない(8節):事の始まりではこれから何が起こるかわかりません。しかし、事の終わりではそれが良いか悪いか判断できます。うぬぼれる者は自分の考えが正しいと思うから、軽々しく判断します。反対に、忍耐する者は意にそぐわないことだとしても、見極めができるときまで待ちます。イエスもこのことを麦と毒麦のたとえ語りました。「自分は絶対に正しい」とうぬぼれると早とちりで失敗します。
③短気にならない(9節):人は思い通りにならないとき心を騒がせ、一刻も早くそうなって欲しいと願います。これも自分の考えを優先し、神のご計画を後回しにしています。この態度が愚かな者の特徴です。
④短絡的にならない(10節):8節と同じように「今」は未来の始まりなので、たとえ「今」は良くなくても、すばらしいことへの入り口かもしれません。「今」は時間的には一時、空間的には一面ですから、わずかなことがらで全体を判断してしまう短絡的思考は知恵ある者の姿ではないのです。これも自分は正しいといううぬぼれから生まれます。
⑤金銭を全能としない(11-12節):「資産を伴う知恵」にはいくつかの解釈がありますが、ここでは「財産を正しく使うこと」の意味とします。金銭や不動産などを欲望を満たすために使うのではなくて、神と人のために使えば、「日を見る人に益となる。」のようにその人の徳が高められます。また、金銭の陰とあるように金銭は自分の心身を守ります。薬や病院はその典型でしょう。けれども、知恵も人の心身を守ります。危険予知とか困難からの脱出は知恵によって可能です。いくら金銭があっても知恵がなければ、その金銭が人を滅ぼします。
繰り返しになりますが、7-12節のことがらは「自分が正しい」という思いから生まれています。こういう者は知恵ある者から叱責されても聞く耳を持たないでしょう。「神の前に自分は正しいのか」と問いかけず、欲望のまま生きていますから、どんどん正しい道から逸れてゆき、喜怒哀楽を常に行き来する不安定な生活になります。しかも、何をしても満たされないので空しい人生になります。
それで伝道者はそうならない秘訣を語ります。(13節) 「神が曲げたもの」とあるように全知全能の神がなしたことを人は思い通りにできません。イエスも「あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。(マタイ5:36)」と言っています。だから、人は神のなしていることを目に留めて理解し、受け入れるしかありません。これが、「自分よりも神が正しい」という姿勢です。違う言い方をするならば、「自分が正しい」というのは「自分に神を合わせる」のであり、「神が正しい」というのは「自分を神に合わせる」のです。
「順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ。(14節)」と伝道者は語ります。これは因果応報のように「思い通りになったときはやったことが成功した」と喜び、「思い通りにならなかったときは失敗だった」と反省するのではありません。今申しましたように、順境の日には神がくださったことを喜び、逆境の日には神のみこころは何かに目を留めるのです。順境の日も逆境の日も、喜びの日も悲しみの日も、願いがかなったとしても避けたいことが起きたとしても、すべては神のなさること、神のみこころによります。それゆえ、人は思い通りの道を行くのではなくて、神の示した道を行くのが最も良いのです。そのために自らを省み、自分を神に合わせるのです。
■おわりに
14節「これもあれも、神のなさること。後のことを人に分からせないためである。」とあるように、私たちは過去と現在しかわかりません。これから何があるのかは神のみがご存じです。しかも、神は時間的には永遠、空間的には無限を司るお方ですから、いくらインターネットを駆使しても私たちの知っていることはほんのわずかなのです。また、私たちにはバラバラで何の関係もないように見えていることがらも、神のご計画の中にあるからすべてがつながっているのです。
ですから、「自分が正しい」となって、「何でもかんでも自分の思い通りにしたい」とか「自分はなんでもお見通し」は愚か者のすることなのです。人がすべきことはただ一つ、自分の内面を見つめ、「神に従っているかどうか」をチェックし、自分を神に合わせる修正作業なのです。これが知恵ある者の生き方であり、神を信頼しているからどんなときも落ち着いていられる人生になるのです。
イエスはどんなことがあっても一喜一憂せず父なる神のみこころを求めて実行しました(ヨハネ12:49)。イエスを救い主と信じる私たちはイエスと一体となっていますから、神のみこころに心を向け、神に自らを合わせることができるのです。
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