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木村太

7月4日「一粒の麦」(ヨハネの福音書12章20-36節

■はじめに

 三笠に来てから毎年ひまわりを育てています。昨年は「大輪ひまわり」に挑戦し、無事2m位まで成長して花が咲きました。1cmほどの種からこれほど大きくなるのは本当に驚きです。しかも、種類によって違いますが、一つの種から1500~3000粒ができるそうです。今年は数えてみたいと思います。イエスもご自分を一粒の麦にたとえて、ご自分と人の救いについて語っています。今日はイエスの死が私たちに何をもたらすのかについて聖書に聞きます。


Ⅰ.イエスは、人を滅びから救うために自分が死ななければならないことを明らかにした(12:20-26)

 ユダヤ人はイエスをローマ帝国から救うメシアとして期待し、熱狂的に歓迎しながらエルサレムに迎えました。イエスはついに十字架刑の場所にやってきたのです。


 ユダヤ民族はユダヤ教という宗教の共同体ですから、当然全員が過越の祭りのためにエルサレムに集まります。ただ、ギリシア人のような異邦人の中にもユダヤ教に改宗した者がいたため、彼らも過越の祭りに参加します(20節)。そして彼らもまたユダヤ人と同じようにイエスをメシアとして期待していました。


 それで彼らは、ギリシア語の名前を持つピリポにイエスへの謁見を願いました(21節)。ここでピリポは自分で判断せず兄弟子のアンデレに相談しました(22節)。おそらく弟子たちは、イエスがユダヤ人の救いを第一にしていたことを知っていたのでしょう(マタイ10:5-6)。その結果二人はギリシア人の申し出をイエスに伝えました。


 これを聞いたイエスは不思議なことを二人に語ります(23節)。ここでの栄光は、十字架にかかって人の救いを成し遂げ、神から栄誉を与えられることを指します。つまりイエスは「十字架の時が来た」と言うのです。なぜなら、ギリシア人という囲いに属さない羊がやって来たので、ユダヤ人だけではなくすべての人の救いにつながるからです。


 続けてイエスはどのようにして栄光となるのかを説明します(24節)。イエスはご自分の死によってもたらされるものを麦粒でたとえました。麦粒は地に落ちて芽を出すので死んではいません。ただ、元の形がなくなるという視点では死んだと見なせます。一粒の麦は地に落ちたあと発芽し成長して、やがて穂を付けます。元の形はなくなりますが、百数十個の麦粒を実らせます。


 それと同じように、イエスもこの世に生まれたまま、いわば天から地に落ちたままでは、実すなわち人の救いにはなりません。けれども人の罪を背負って十字架で死ぬならば、イエスを信じる者の罪が赦されて永遠のいのちという実に至ります。しかも永遠のいのちは、特定の民族や時代に限定されず、信じる者すべてに与えられるから、イエスという一粒の種が莫大な実を結ぶのです。一粒の麦の中にたくさんの麦粒の命があるように、イエス一人の中に無数の永遠のいのちがあるのです。


 ここでイエスは人が永遠のいのちという実を結ぶための条件を語ります(25節)。自分のいのちを愛する者とは、罪を持つ自分を大切にすることであり、自分の欲望を満たすために生きている者です。ですからイエスを必要としないから罪のまま滅びに至りいのちを失います。一方、自分のいのちを憎む者、すなわち罪の自分を憎み、自分を嫌になる者は、「罪を何とかしたい/罪を赦して欲しい」ためにイエスを頼り信じます。見方を変えるならば、欲望のままに生きていた人生を終わらせたい者、古い自分を死なせたい者がイエスに至るのです。


 その結果、罪赦されて永遠のいのちが与えられ、この世ではイエスの働きによって罪の誘惑を退けます。さらに26節のように、自分のために死んでくださったイエスを愛し、イエスのために生きる者はイエスのおられる天の御国で神からの栄誉を受けます。


 私たちが受けるべき罪による神の怒りをイエスが身代わりとなって引き受けました。それがこれから受ける十字架刑です。十字架での死によってイエスを信じる私たちの罪は既に赦されています。それゆえ天の御国に入ることが出来ます。さらに、人とは異なる体でよみがえったイエスが私たちの中にとどまっているから、イエスが罪を気づかせ、罪の誘惑から遠ざけ、罪を犯した時には罪の告白と悔い改めに導きます。すべてはイエスの死の上に成り立っているのです。だから十字架で死んだイエスは神から栄誉を与えられるのです。


Ⅱ.イエスの死によってさばきへのカウントダウンが始まる(12:27-36)

 ここでイエスはご自分の心中を口にします(27-28節)。十字架での死が豊かな実を結ぶのをわかっていても、心がかき乱されるほど十字架刑は恐ろしいのです。これはイエスの率直な気持ちです。それゆえ「十字架の時から救出して欲しい」という思いが生まれても不思議ではありません。


 けれども「と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。」とあるように、「十字架を避けることが自分のためにはならない」のをイエスはわかっていました。そうではなくて十字架こそがイエスを救出する道なのです。なぜなら十字架の後に神の栄光があるからです。言い換えれば、自分の果たすべき使命に進む時に神のすばらしさを体験できるのです。それでイエスは「父よ、御名の栄光を現してください。」と父なる神に願いました。自分のことは後回しの覚悟ができています。


 これに神が「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」と応じました。「すでに」というのはイエスによってなされたラザロのよみがえりを指しています(11:40)。ですから「再び」はイエスのよみがえりを宣言しているのです。自分の使命だとしても十字架刑は想像を絶する苦しみに違いありません。しかしそこに進んだ時に、よみがえりという神の栄光があるのです。


 イエスの周りにいた人々はこの神の声を耳にしました(29節)。ある者はイエスと神との結びつきに気づいていないので雷に聞こえました。別の者たちはイエスは神と何らかの関係があると気づいていたので、御使いの声と判断しました。いずれにしても両者とも神が何を語っているのかはわかりません。それでイエスが解説します(30-32節)。


30節「あなたがたのため」とあるように、イエスは神の声が人に何をもたらすのかを言います。「わたしは再び栄光を現そう。」この宣言により、イエスのよみがえりは確実にやって来ます。さらに、よみがえりの次にこの地上にやって来るのは、イエスの再臨に伴うさばきいわゆる最後の審判です。罪によってこの世を支配する者たちは有罪判決となり、一人残らず天の御国に入れず滅びます。一方、イエスを信じる者はさばきにおいて無罪判決となり、イエスのもと、つまり天の御国に入れます。


 ですからイエスのよみがえりの宣言はさばきへのカウントダウンが始まったことを意味するのです。 私たちは台風が間違いなく直撃するのを知ったら事前に備えをしておきます。それと同じように、いつなのかはわかりませんが最後の審判が必ず来るのが告知されたのですから、私たちはそれに備えることができます。それゆえ、「わたしは再び栄光を現そう。」この神の声は私たちにとって大事なのです。


 ところがユダヤ人たちは「わたしが地上から上げられるとき」からメシアの死を連想し、律法とは違う(例えば、詩篇89:4)とイエスに答えました(34節)。イエスがせっかく「あなたがたのため」と言っているにも関わらず、彼らは人の子すなわちメシアの真実を全然わかっていないのです。


 それでイエスはこう答えます(35節)。イエスは人々に行き先を知らせる光の存在です。けれども十字架で死んだ後は、奇蹟を伴って真理を教えるイエスはいないから、闇になります。だから、イエスが地上で活動している内に、真理を悟るように勧めているのです。このままだと、やがて来るさばきにおいていのちを失うのは明白です。これまで幾度となく奇蹟を通して教えられているのに、メシアのことに全く目が開いていません。でもイエスはこのような彼らを放っておかず、何をすべきか知らせています。ここにイエスのあわれみがあります。


■おわりに

 イエスは十字架で死んで3日目によみがえり天に戻りました。次にこの世界に来る時が再臨です。その時、私たちは永遠に苦しむ滅びか、それとも永遠に平安を生きるのかを判定されます。イエスを救い主と信じる者はすでに無罪判決が確定し永遠のいのちが約束され、やがてそこに至ります。


 ただし、イエスがよみがえってから既に2000年余りが経過しています。さばきまでの時間は刻一刻と迫っているのです。しかも、イエスは天におられますから姿をもって人の前に現れません。イエスという光をイエスご自身が直接人に伝えることはありません。


 だから再臨までのこの期間は、イエスという光を知り、イエスと結び付いた私たちが光となってイエスを伝えるのです。それで一人一人がイエスから与えられた役割、いわば負うべき十字架を背負っています。私たちもイエスと同じように、役割を果たそうとする時に不安や恐れ、戸惑いなどがあり、「この時から私をお救いください」と言いたくなります。しかし恐れることはありません。自分の十字架を果たそうと進む時に、十字架を経験されたイエスが助けてくださいます。そして進んだ先に神の栄光があるのです。

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