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木村太

7月5日「新しく生まれる」(ヨハネの福音書3章1-15節)

 皆さんは何がきっかけで教会に来ましたか。「友人に誘われて/教会のイベントに興味を持って/親に連れられて」など、一人一人に何らかのきっかけがあると思います。では、どうしてイエス・キリストを救い主と信じましたか。「礼拝に出席している内に/聖書から教えられて/祈りの中で与えられた」のように信仰に至る道は様々ですけれども、何かが信じない自分を信じる自分に変えています。今日は、イエスとニコデモの問答を通して、新しく生まれることを聖書に聞きます。

Ⅰ.聖霊によって新しく生まれた者が神の国に入る(3:1-8)

 ユダヤ人たちはイエスの奇蹟を知ってイエスを救い主と信じました。しかし、彼らは「神の国イスラエルを建国する救い主」という誤った理解と期待をしていました(2:23-25)。そのためイエスは彼らに身を任せませんでした。それを受けてヨハネはニコデモとの問答を通して、真の救いについて記します

 パリサイ人で議員のニコデモがイエスの所に来ます(1-2節)。パリサイ人は、モーセの律法、預言、詩篇の教えから「昔からの言い伝え」と呼ばれる細かな規則を作り上げました。そして彼らは膨大な規則を厳しく守ることで神の国に入れると信じていました。またニコデモは当時の司法、律法、行政を司る最高議会の議員で、高い地位と名声がありました。彼らからすれば、イエスは宮きよめのように昔からの言い伝えを止めさせ、極端に言えば信仰のあり方を否定していますから、宗教上の敵と言えます。それでニコデモは誰にも見られないように、夜の間にイエスを訪問したのです。

 ニコデモがイエスを訪ねた理由はここには書いてありませんが、3節のイエスのことばから彼はパウロのように神の国を熱心に求めていました。それで、ニコデモは人知の及ばないイエスのわざを知って、「神が共におられるこの方なら真理を知っている」と期待していたのです。

 イエスはニコデモにこう言いました(3節)。このことばはニコデモに2つの驚きとなりました。一つはパリサイ人からすれば、神の国を見る方法が規則の厳守ではないこと、もう一つは常識からすれば、新しく生まれるのはあり得ないことです。それでニコデモは「どうやって新しく生まれるのか」を質問し(4節)、イエスは答えました(5-6節)。

 イエスは「新しく生まれる」を、もう一度母から生まれるのではなく、「水と御霊によって生まれる」と言います。しかも、肉すなわち人間から生まれた者はそのままでは神の国に入れず、御霊によって生まれた霊なる者が神の国に入れるのです。また、イエスは「水と御霊によって生まれなければ」と言いつつも、続くことばでは御霊しか扱っていません。ですから、御霊すなわち神が遣わす聖霊によって人は新しく生まれることが重要なのです。一方「水によって生まれる」とは、御霊によって新しく生まれたことの印として水の洗礼を授ける行為を指しているのでしょう。

 イエスのことばはニコデモを初めとするユダヤ人には理解不能でした(7-8節)。当時、ユダヤ人は風などの自然現象を神が支配していると信じていました。ですから風が吹いているのは分かりますが、いつどのように吹くのかは神の支配なので、人にはわかりません。それと同じように、自分も他の人も御霊によって新しく生まれたことをはっきりわかります。けれども御霊がどのように働いたのかを人は知り得ません。つまり、風が神の支配にあるように、御霊によって新しく生まれるのも神の支配にあるのです。パリサイ人は規則を厳守するという行いで神の国に入れると信じていました。しかし、イエスはそれを完全に否定し、新しく生まれるのは神の働きであり、人間のふるまいに左右されるものではないことを明らかにしました。

 「あなたがたは新しく生まれなければならない」とイエスが言ったように、人は母の胎から生まれたままでは全員、神の国に入ることはできません。人は本来そのようなものなのです。しかも、パリサイ人のように行いによって、新しく生まれることもできません。神が御霊を働かせて人を新しくして神の国に入らせるのです。それゆえ、神の国は特定の民族や地域、時代、性別、年齢といった制限はなく、すべての人に開かれているのです。

Ⅱ.イエスを滅びからの救い主と信じる者は永遠のいのちを持つ(3:9-15)

 さらに問答は続きます。ニコデモはイエスのことばを全然理解できていません(9節)。一方イエスは、パリサイ人でしかも議員なのだから分かって当然と言います(10節)。実は「神が新しくする」というのはすでに預言者エゼキエルに与えられています(エゼキエル書36:25-27)。ニコデモのような者であれば、エゼキエル書のことばを熟知しています。けれども彼らは行いによって何とかなると信じているから、この神のことばが現実になるというのを悟れないのです。イエスはユダヤ人、特に宗教指導者がこの世の常識や自分たちで作り上げた教えに囚われて、真理に目が開かれていないことを指摘するのです。そのことをこう説明します(11-12節)。

 人知の及ばないイエスのわざは、「イエスは神である」という目に見える証拠です。しかしユダヤ人はそれを見聞きしても、神がイエスという人となって来たことを信じません。ニコデモもイエスを「神のもとから来られた教師」と言い、神であることをわかっていません。であればイエスが天のこと、すなわち御霊によって新しく生まれるというのも信じられないのです。それでもイエスは13節のように、自分は天から下ってきた人の子、人となった神だから、人が知り得ない天でのことであってもそれは真実だと語るのです。

 ここでイエスは人の子がこの世界に来た理由を語ります(14-15節)。イエスはニコデモが律法に通じているので、民数記の出来事を取り上げました。イスラエルの民はエジプトを脱出した後、荒野を旅します。その中で彼らは水や食料について神に反抗したので、神は蛇を送り民にわざわいを下しました。そこで民が助けを求めたので神は助かる方法を与えました。それは、旗ざおの上に青銅でできた燃える蛇を付け、かまれてもその蛇を仰ぎ見れば死なないというものです。

 蛇にかまれて肉体に深刻なダメージを受けているのに、青銅の蛇を見れば助かるというのはこの世の常識では馬鹿げています。けれども馬鹿げていても「蛇を見れば生きる」と信じる者は生きることができるのです。それと同じように、人は罪故に神に従えない、いわば神に反抗しているので生まれたそのままでは永遠の滅びに行きます。しかし、神はあわれみによって滅びから救われる方法を定めました。それは、青銅の蛇が旗ざおに上げられたように、十字架に上げられて死に、よみがえった人の子イエスを信じれば永遠のいのちを持つというものです。

 「イエスを信じれば滅びず永遠のいのちを持つ」というのは、パリサイ人を初めユダヤ人の教えからすればあり得ません。現代の私たちにとっても、永遠の滅び、永遠のいのち、救い主イエスは理解できないことがらであり、馬鹿げていると言われるかもしれません。けれども馬鹿げていても、イエスを救い主と信じれば生きることができるのです。これが人の救いと救い主についての真実です。ただしこのことはイエスが再び来られる時に起きますから、いわば目に見えない天でのものごとと言えます。だからこそ天から来られたイエスのことばは大事なのです。

 イエスはニコデモに2つの真実を明らかにしています。

①御霊によって新しく生まれた者は神の国に入る。母から生まれたままでは入れない。

②イエスを救い主と信じた者は永遠のいのちを持つ。母から生まれたままでは持っていない。

 これらは別々のように見えますがそうではありません。イエスはマルコの福音書で「永遠のいのちを持つこと」を「神の国に入ること」と語っています(マルコ10:17,23)。ヨハネの黙示録にも「(天の御国では)もはや死はない」とあります。

 つまり、「御霊によって新しく生まれた者」が「イエスを救い主と信じる者」なのです。ただし、神が御霊を遣わしますから、私たちはいつどのように新しく生まれるのかわかりません。けれども、「イエスを救い主と信じます」という告白によって新しく生まれたことがわかります。それで、新しく生まれた印として水による洗礼を受け、神の国に入り永遠に生きることを確信するのです。

 ただ忘れてならないのは、イエスを十字架で死なせて救い主とすることも、御霊を遣わせて新しく生む、すなわち「イエスを救い主と信じる」ことも神のみこころから出ているのです。善行をするといった私たちの行いではありません。本来私たちは神に背いているので神の国に入れず、永遠の滅びに行く者です。神はそのまま放っておいても良いにも関わらず、滅びから永遠のいのち、神の国に入るものごとすべてを整えました。これこそが「滅び行くしかない人であっても、生きて欲しい」という神の愛なのです。

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