■はじめに
新約聖書には使徒パウロが書いた手紙が13あり、内訳は地域の教会宛(クリスチャンの集まり)が9通、個人宛が4通です。また、教会宛の手紙に注目すると、主な内容は救いに関する教え、異端やユダヤ主義への警戒、クリスチャンへの戒めと勧告となっています。ただし、「テサロニケ人への手紙」は他の手紙と異なり、パウロの感謝や喜び、そして彼らに寄せる思いにあふれています。特に「ますます~しなさい(4:1,10)」のように「今やっていることをますますやりなさい」という勧めはこの手紙だけです。パウロは「テサロニケのクリスチャンの信仰がしっかりしている」と認めているのです。今日から「テサロニケ人への手紙」を扱いますが、キリストの再臨を待つクリスチャンのあり方をこの手紙から受け取りましょう。
■本論
Ⅰ.パウロは、テサロニケの教会が神とキリストにしっかりと結びついていると認めている(1:1)
今日は第1回目ですので、手紙が書かれた背景を簡単にお話しします。紀元50年頃、マケドニヤはローマ帝国の支配下にありました。テサロニケはマケドニヤ第二地区の州都で、港や通商路があったため商業や貿易の中心地となっていました。パウロは第二回伝道旅行の際、シルワノ(愛称シラス)とテモテを伴ってマケドニヤに渡り、まずピリピで次にテサロニケで活動しました(使徒16-17章)。その結果、イエスを信じる者が起こされ、異邦人と街の有力者の妻たちなどをメンバーとした教会が誕生しました。しかし、ユダヤ人のねたみを買い暴動が起きたため一行は危険を避けてベレヤに移動しました。ところがベレヤでもユダヤ人が騒ぎを起こしたため、パウロだけが危険を避けるためアテネに向かい、シルワノとテモテはべレアに残ったのです(使徒17:1-14)。
パウロはテサロニケでの活動を中断したので、困難の中に残された教会を心配して再び訪問しようとしましたが実現できませんでした(2:17-18)。そのためテモテをテサロニケに派遣し、コリントでテモテから報告を受けました(3:2,5)。テモテの報告によれば、テサロニケ教会の人々は困難な状況の中でも福音に堅く立っていました。その一方、パウロの教えを誤解している者や異教的な生活に戻ってしまう者がいたので、パウロはこの手紙を書き送ったのです。
まず1節を見ましょう。パウロは他の手紙と同じように、「筆者、宛先、祝福のことば」という挨拶から手紙を始めています。ただし、他の手紙にはない、この手紙だけのことがらが2つあります。まず一つ目は「キリストのしもべ/使徒」のように、「自分はキリストの権威を帯びている」ことをパウロは主張していません。読者に何らかの指導を与える場合には、キリストの権威は効き目があります。けれども、それがないというのは「戒めとか命令をするつもりはない」ということを表しているのです。
もう一つは「父なる神と主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ」という呼びかけで、これも他の手紙にはありません。「父なる神」はキリストと聖霊によって神の子とされた事実を意味しています(ローマ8:14-15)。また「主イエス・キリスト」はユダヤ人イエスが救い主であり、主なる神であることを意味しています。つまり「テサロニケの教会が神を父とし、イエスをキリストとする信仰に結びついている」とパウロは認めているのです。
この時代はキリストの十字架とよみがえりからまだ20年しか経っておらず、キリストによる救いは伝えられたばかりと言えます。それゆえ、他地域の教会は外部からの圧力や教会内の混乱があり、信仰が揺さぶられていました。けれども、「あなたがたも自分の同胞に苦しめられたからです。(2:14)」とパウロが言うように、テサロニケのクリスチャンはユダヤ人による苦しみに合いながらも、「父なる神と主イエス・キリスト」にしっかりと結びついていました。だからパウロは手紙の書き出しからテサロニケの教会をほめているのです。私たちの教会も社会の荒波に揉まれていますが、「父なる神と主イエス・キリスト」に結びついて立ち続けています。1節のパウロのことばは私たちに向けられたエールなのです。
Ⅱ.パウロは、テサロニケの教会が「信仰と愛と希望」を実践していることを神に感謝した(1:2-3)
パウロは、あいさつに続いてテサロニケの人々への思いを語ります(2-3節)。「あなたがたすべてについて、いつも神に感謝/絶えず思い起こしている」ということばから、パウロがどれほどテサロニケの教会に心を寄せていたのかがわかります。
ここでパウロはテモテの報告を受けて、テサロニケのクリスチャンの姿を3つのことがらで示しています(3節)。
①あなたがたの信仰から出た働き:信仰に基づいた生活全般。世の中とは違う価値観や倫理観で生きていること(例:敵を愛する)
②愛から生まれた労苦:神の愛を実践することで受ける苦しみ。例えば、イエスは罪びとや汚れた人を助けたとき、宗教指導者から非難された。
③私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐:再臨によって実現する滅びからの救い、すなわち天の御国を希望として、この世を辛抱強く生きる。世の中のことがらに希望を置かない。必ず来る春を待ちながら冬を忍耐するようなもの。
ある本によれば、クリスチャンの生き方をまとめるならばこの3つになる、とありました。つまり、感情、物事のとらえ方・考え方、意志、ふるまいといった全人格がキリストに結びついているのです。いわば、からだの隅々までキリストが行き渡っているのであり、キリストと同じようになっているのです。それで、パウロは彼らの姿を知ったから「神と主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ」と呼ぶのです。
パウロはテサロニケのクリスチャンの歩みをほめ、感謝のことばを送ります。ただし、祈りの中で感謝するのは神に対してです。「神に感謝しています/私たちの父である神の御前に~絶えず思い起こしているからです。」とパウロは言います。テサロニケの歩みはすばらしいし、賞賛に値するけれども、そのように導きなさせているのは神の働きだとパウロは理解しているのです。だからパウロは、テサロニケの有様を神の前に報告し、神に感謝をささげるのです。
私たちは現代日本に生きていますから、日本に定着している価値観(何が大切なのか)や倫理観(何が正しいのか)の中で生活しています。ですから同意できるものとできないものに必ず直面します。例えば、「安心や喜びはお金で買える」という考えに対して、「本当の安心や喜びは神から来る」と私たちは信じています。あるいは、「宗教は恐ろしい/心の弱い人が頼るもの」という言葉に対しては「いや、宗教は人が生きるために必要なもの」と信じています。あるいは「人間は死んだら終わり」という主張に対して「死んだ後の世界がある」と私たちは信じています。このように私たちを変えたのは神の導きであり、キリストに基づくことを発信できるのも私たちの力ではなく神の力です。「信仰と愛と希望」の実践は神の働きによるから、私たちはそれができるように神に祈り、できた時には神に感謝するのです。
■おわりに
パウロは「信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐」を実践する群れを「父なる神と主イエス・キリストにある教会」と呼んでいます。そして、そのようになった土台をこう言っています。「この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです。(1:10)」
人は誰でも神に背く性質があり、やがて来る神の怒りを免れることはできません。キリストが再びこの世にやってくる日、いわゆる終わりの日において、神から有罪判決を受けて永遠の苦しみに放り込まれるのです。人はどんなに正しく善い人生を送っても、そのままでは悲惨な者なのです。しかし神はそんな人をかわいそうに思い、人が受けるべき怒りを御子イエスに負わせました。そして、御子を死からよみがえらせ天に戻すことで、イエスを救い主と信じる者によみがえりと天での永遠のいのちを明らかにしました。
「神の怒りから救われ、天の御国に行くこと」これこそが人にとって最も必要なものであり、人にとって最もうれしいものなのです。それで、私たちは父なる神の愛に感謝するから「信仰から出た働き、愛から生まれた労苦、望みに支えられた忍耐」を生活の中で実践できるのです。
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