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木村太

8月11日「従順の実」(ピリピ人への手紙2:12-18)

  勉強にしてもスポーツにしても、今やっていることが何につながるのかが分かると継続できるものです。みなさんはどうでしょうか。私たちは神に従い仕えている者ですけれども、その原動力は滅びから永遠のいのちに救ってくださった感謝にあります。ただし、そこに徹しているかと問われれば、やはり何らかの実を期待する気持ちがあるのも事実です。でも神はちゃんと従順が何をもたらすのかを約束しています。

 そこで今日は、神に従った先には何があるのかについて聖書に聞きす。


Ⅰ.神への驚きと尊敬がクリスチャンを従順に進ませる(2:12-14)

  パウロは、クリスチャン一人一人が健全な信仰を保つためには一致が必要であること、さらに一致には互いにへりくだりが必要と命じました。そして、キリストが完全なへりくだりの姿であると語りました。それでパウロは従順すなわち神に逆らわず素直に聞き従うことについて語ります。

12節「愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように」とあるように、パウロはピリピの人々が従順なのを認めていると同時に、「愛する者だからこそこうなって欲しい」という気持ちを込めています。パウロは、自分が遠くにいるときこそ、なおさら神に従順になるよう命じています。ピリピの人々はしっかりしているとはいえ、指導者が一緒にいなければ緊張感が無くなって堕落する可能性があるからです。信仰からはずれる人がたとえわずかだとしても、そこから教会の一致は崩れるのです。

  ここでパウロは「なおさら従順」になるための動機を2つ挙げました。

①恐れおののいて:当然、恐れおののく相手は神です。ここで言う「恐れおののく」とは恐怖で震えるというよりも、神の働きに対する身震いするような驚きと尊敬の心を指します。その理由が13節にあります。人は自分の意志で行動していますけれども、真実は神が意志も行動力も与えています。人が平安と喜びの人生を送れるように神が人の心に働きかけているからです。その事実を知った時、私たちに驚きと尊敬がわき上がり、それが従順に至らせます。

②自分の救いを達成するように:ここでの救いとは滅びからの救いではなく、15-16節にあるように「キリストと同じ姿になる」ことを意味します。ことばを加えるなら、神に従い続ければますますキリストに近づくという結果が必ずあるのです。結果やゴールが約束されているのは、物事を成す上で大きな原動力になります。

  つまり「恐れおののいて」「自分の救いを達成するように」という動機があるから「すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行える」のです(14節)。このことをパウロはこう告白しています。「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11:36)」「神は私のために常に働いてくださっている/神に従っていればキリストの人格が身に付く」このような思いが私たちを従順に進ませるのです。ただし、これら2つの動機は何かあったときに時にすぐに気づくものではありません。過去から現在までの出来事や自分の状況をつなぎ合わせると、そこに神のご計画と人生への介入が見えてきます。キリストを信じることもその中に含まれています。ですから、今、自分の意に沿わない毎日だったとしても、「これも私たちには隠されている神のご計画だ」とわかり、「神に従っていれば大丈夫」となるのです。


Ⅱ.神のことばに従い続ければ、邪悪な世あっても純粋な者、神の子どもにふさわしい者、光として輝く者になる(2:15-16前半)

  さらにパウロは従順によってクリスチャンはどうなるのかを明らかにします。(15-16節前半)ここには、この世において従順がもたらす3つのことがらが記されています。

①非難されるところのない純真な者となる:神の基準に照らし合わせて合格とされます。

②曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなる:人の親子と同じように、神の子どもは親である神の性質を受け継いでいます。それゆえ、子どもを見れば神のことがわかるのです。神の正しさやあわれみに沿っていない世の中にあって、神の子どもはそれに染まらないだけではなく、神のご性質を世に明らかにします。

③彼らの間で世の光として輝く:パウロは曲がった邪悪な世代を暗闇に、神に従順な者を世の光りになぞらえています。光には次のような意味があります。

  ・滅びから救いへの道を照らす  ・悪を明るみに出し、真の正しさを人々に知らせる

  ・慰めや励ましなど心のよりどころになる

 すでにおわかりの方もおられると思いますが、15-16節を完全に持ち合わせているのがキリストです。ですから、従順であり続ければキリストにどんどん近づいてゆきます。と同時に、神の喜ぶ者に変えられてゆきます。これが従順の実であり、12節「自分の救いを達成」することなのです(専門用語では聖化)。ただし、常に神に従うには「いのちのことばをしっかり握って」いなければなりません。いのちのことばすなわち聖書には神のお考えや判断基準が記されています。ですから、神に聞き従うというのは聖書に聞き従うことに他ならないのです。

 ところで、キリストに近づいて行くというのは、新しくキリストの性質を獲得するのではありません。人本来のあり方に戻ることなのです。天地創造において、人は一つの疑いもなく神に信頼し、神に従っていました。それゆえこの地上で神の正しさや聖さ、あわれみを実現し、神の輝きを放っていました。ところが罪が入ったことによって、神よりも自分を信頼し、神に背を向けて歩むようになり、人は神のすばらしさを放てなくなりました。いまや人のふるまいからは神のあわれみではなく、暗い闇しか見いだせません。しかし、神はそんな人であっても人を大切にするがゆえ、人の回復のためにキリストを救い主に定めました。人はキリストを信じることでキリストと結び合わされ、再び神を信頼し従いたい心を回復するのです。さらに人がキリストに近づくというのは、キリストがそうであったように、どんなときでも神のあわれみの中にいるという安心を回復することでもあるのです。


Ⅲ.神に従う者は喜びを共有できる(2:16後半-18)

  パウロはピリピの人々がキリストに近づくのをこう受け取っています。(16後半-17節)パウロは神の喜びよりも自分の誇りとか喜びを優先しているのでは決してありません。「異邦人に福音を語り、教会を整えること」をキリストから任命された者として、正直な気持ちを言っているのです。パウロにとってピリピ教会はヨーロッパで最初の教会ですから、彼らのあり方がパウロの働きの実であり、キリストに対するパウロの誇りとなるのです。まさにパウロの喜びはクリスチャンの成長、健全な信仰の維持、教会の一致と平和にあるのです。現代においても、牧師や宣教師のように教会に仕える者はパウロと同じ心を持っていると思います。

  それゆえパウロは「信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物」とあるように、ピリピ教会がキリストを礼拝し、健全な信仰を保てるのであれば、たとえ「注ぎのささげ物」すなわち殉教しても喜びとなると言えるのです。まさにパウロは「生きることはキリスト、死ぬことは益です。」そのままを歩んでいます。さらに18節のように「自分が喜んでいるのだから、あなたがたもそのことを喜んでください。」と願っています。パウロは今、キリストに起きた事実を弁明し、ひいてはクリスチャンの信仰のために投獄監禁されています。ピリピの人々は自分たちの信仰のためにパウロが苦しんでいるのを申し訳ないとか、かわいそうと思うでしょう。もし、パウロが殉教したら悲しみに加えて罪悪感が生まれるかもしれません。けれどもそういった気持ちよりも、自分の喜びを共有することがパウロにとって何よりも励ましとなるのです。自分よりも当事者の気持ちを第一にすれば喜びは拡大し、悲しみはやわらぎに向かいます。神に従う者は神が大切にしている人間を大切にできるのです。



  神に従うというのは、神だったらどう受け取るのか、キリストだったらどうするのか、に心を向けることです。「私はこう思います。けれどもあなたのお考えはどうですか。私はそれに従います。」こんな具合です。一方、人は生まれながらにして自分本位なので、他者を思いやる心が欠けてしまったり、優しくしようとしても頑なさに阻まれるときがあります。しかし、私たちはキリストに結び合わされているのですから、自分の心を神の心に合わせることができます。そうなれば神が大切にしている他の人に思いが及んで行き、これが「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣く(ローマ12:15)」に至るのです。これも従順の実なのです。

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