■はじめに
キリストの使徒ペテロは使徒たちのリーダー格であり、キリストを心から慕っていました。ただ、彼はキリストに関わる災難を恐れて逃げたことがあります。例えば、キリストが宗教指導者に逮捕されたとき、キリストの関係者に見られるのを恐れて逃げた末に、三度「知らない」と口にしました。「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と言ったにもかかわらずです。また、福音を伝えているとき「ユダヤ人だから聖く、異邦人は汚れているというのはなく、キリストはすべての人の救い主」と確信して、異邦人たちと食事をともにしていました。しかし、厳格なユダヤ教の人々が来た時、彼らから非難されるのを恐れて、異邦人たちから離れました。この時はパウロから抗議されています。現代を生きる私たちもパウロと同じような事態に直面します。そこで今日は、クリスチャンゆえの苦難と信仰についてみことばに聞きます。
■本論
Ⅰ.この世に生きている限りクリスチャンは苦難を免れない
パウロは「テサロニケの信者の信仰を喜び、誇りとしていること」を手紙の冒頭から記しました。ここでパウロは話題を変えて、どうしてテサロニケの教会にテモテを派遣したのかを伝えます。
「私たちはもはや耐えきれなくなり(1節)」に加えて「私ももはや耐えられなくなって(5節)」と重ねられているように、パウロはテサロニケの信者たちと顔を合わせたい気持ちを抑えきれなくなりました。それでパウロは、自分と他の仲間はアテネに残ってテモテをテサロニケに派遣することにしました(1節)。
パウロはマケドニアに入る前にリステラの町でテモテと出会い、彼の信仰と人柄を見込んで伝道旅行に同行させました。ただし、「使徒の働き」にはパウロとシラスのセットで出来事が記されているので、テモテは福音を告げる働きでは最前面に出ていなかったと思われます。ピリピでの逮捕もパウロとシラスでした。それでも、「私たちの兄弟であり、キリストの福音を伝える神の同労者であるテモテ」とあるように、キリストを伝える働きにおいては自分と同じ働きができるとパウロは認めています。ですから、パウロは自分の代理者としてテモテをテサロニケに派遣したのです。
テモテを派遣した理由をパウロはこう言っています。「あなたがたを信仰において強め励まし、このような苦難の中にあっても、だれも動揺することがないようにするため(2-3節)/あなたがたの信仰の様子を知るため(5節)」つまり、パウロはテサロニケの信者の信仰を心配したのです。というのもテサロニケではパウロたちを避難させなければならないほど、キリストを否定するユダ人の攻撃が激しかったからです。信仰を持って間もない信者が大きな苦難にさらされ、その上パウロやシラスのように矢面に立つ者もいないのですから、心配するのも無理はありません。
ただしパウロは苦難それ自体を心配してはいません(3-4節)。「苦難」はもともと「圧迫する/つぶす/押して狭くする」という意味があります。ちょうど、砂時計のくびれで砂が落ちにくくなったりとか血管を圧迫して血を流れにくくするようなイメージです。ですから「クリスチャンの苦難」とは、信仰を妨げる外側からの力なのです。違う言い方をするならば、信仰によって生きようとしているのに、それを阻むものが苦難なのです。
しかもパウロは「私たちはこのような苦難にあうように定められているのです。(3節)」とあるように、クリスチャンにとって苦難はあって当たり前と言います。このことは神もイエスも言っています。
「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。(申命記31:6)」
「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。(ヨハネ16:33)」
もし、クリスチャンの人生が平安だけだったら、このように声をかけることはありません。キリストを救い主と信じる者は「信じる」という心を持つだけでなく、神の愛から生まれる行いが伴います。それゆえ、世の中の価値観(何が大事なのか)とか倫理観(何が正しいのか)と違ったふるまいが出てきます。その時、人や組織や社会や国家とぶつかり、反対され、潰されることがあります。「あなたがたが知っているとおり、それは事実となりました。(4節)」とあるように、テサロニケの信者も「キリストを救い主」と信じたゆえに、キリストを否定するユダヤ人から妨害を受けました。パウロのことばが真実であることを身をもって知ったのです。
「私たちはこのような苦難にあうように定められているのです。(3節)」このことばはいつの時代でもどの地域でも、クリスチャンにとって真実です。現代もキリスト教を脅威とみなし、クリスチャンや教会を迫害する地域があります。日本では「思想信条の自由」が保障されているので表立った迫害や弾圧はありません。しかし、信仰によって生きるときに不安や悩みや苦しみがあります。例えば、「仏式の葬儀で焼香をどうするか」「宗教を良く思わない家族の中で信仰を守る難しさ」など、「クリスチャンとして生きにくさがある」これも苦難なのです。ただし、見方を変えれば、苦難は信仰を貫いて生きている証しと言えます。神からすれば、世の中に合わせるのではなく、苦難する方を喜んでいるのです。
Ⅱ.苦難は信仰を揺さぶり、信仰を持つ前の状態に戻す力がある
さて、パウロはテサロニケの信者たちを心配してテモテを派遣しました。ただし、「信仰を貫くときに苦難は必ずある」と語り、苦難自体を心配していません。では何を心配しているのでしょうか。もう一度、テモテを派遣した目的を見ましょう。(2節後半、3節)
「信仰において強め励まし(2節)」と語るのは「信仰において弱くされ、落胆する」ことが予想されるからです。具体的に言うならば「苦難の中にあっても、だれも動揺することがない(3節)」すなわち「苦難の中にあって、信仰が揺らぐ」ことをパウロは知っているのです。「信仰における動揺」とは「キリストを信じなければこんな苦しみにはならなかった」という思いを生み出すことです。そして、苦しみが大きかったり、長く続いたりすると、なおさら揺るがされます。しかも、「信仰における動揺」は、それだけに留まりません。
「誘惑する者があなたがたを誘惑して(5節)」とあるように、苦難は「キリストを信じる」心を弱くし、他に頼ろうとさせます。テサロニケの信者で言うなら、彼らはキリストを救い主と信じたから、キリストを否定するユダヤ人から迫害を受けています。つまり、キリストを信じるのを止めれば、迫害を受けないのです。ですから、ユダヤ人の迫害は「信仰を捨てたら苦しみから解放される」という誘惑になるのです。
そして、この誘惑が「私たちの労苦が無駄になる(5節)」に至らせます。パウロたちはユダヤ人からの脅威を受けながらも、テサロニケの人々の世話にならないように労苦して福音を伝えました。その結果、偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、御子が天から来られるのを待ち望むようになりました(1:9-10)。それが無駄になるというのは、何事もなかったようになること、すなわちキリストを信じる前に戻ってしまうのです。1:9-10で言うならば「神から偶像に戻り、生けるまことの神に背き、御子が天から来られるのを待ち望まない」状態になるのです。しかも、「キリストを信じれば苦難に合うこと」を経験していますから、福音を聞く前よりも信仰に否定的な気持ちを持ちます。
苦難が「キリストを信じたせいで」という動揺を生み、それが「キリストを信じなければ苦しみから解放される」という気持ちに導き、それが高じてキリストを信じない人生に戻してしまうのです。それゆえパウロは苦難が信仰を揺るがすのを心配するから、テサロニケの信者の信仰を揺るぎないものにするためにテモテを派遣したのです。
先ほど、苦難のことを「クリスチャンとしての生きにくさ」と言いましたが、私たちはクリスチャンゆえの痛みや苦しみや悲しみを心配するのではありません。それが生み出す信仰の揺らぎ、キリストを信じる前に戻りたいという気持ちになることを心配するのです。「クリスチャンでなければ/イエス様を信じたせいで」という思いが湧いてきたら、「揺さぶられている」と気づくことが大切です。
■おわりに
今日の説教を閉じるに当たり「苦難の中にあっても動揺することがない」方法について短く触れます。この手紙の中で、パウロは「力と聖霊と強い確信を伴って福音が届いた(1:5)」「この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています(2:13)」と語り、「迫害が明白な中でもキリストを信じたのは神の働きだ」と確信しています。つまり、「神の働きを確信して生きる」これが苦難の中でも揺るがされない道です。このことを神も言っています。
「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、【主】ご自身があなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(申命記31:6)」
私たちはクリスチャンとして生きる限り苦難を免れません。一方で私たちはパウロやシラスやテモテに神がどのように働いたのかを聖書から知っています。また、信仰の先人・先輩たちの証しからも、苦難のクリスチャンに神がどう働いたのかを見聞きしています。神が私たちの苦難をなくするかどうかは私たちはわかりません。けれども、神が苦難の中でも信仰を保ち、平安を与えてくださることを私たちは知っています。だから、私たちは神の働きを信じて信仰を貫こうとするのです。そして、苦難を乗り越えた経験が神への信頼を強めます。この循環が信仰を揺るぎないものにするのです。
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