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木村太

8月15日「もう一人の助け主」(ヨハネの福音書14章15-24節

■はじめに

 モーセはイスラエル民族のリーダーとして彼らをエジプトから脱出させ、約束の地カナンを目指しました。しかし旅の途中で、岩から水を出す際にモーセは神のことばを守らなかったため、カナンに入れなくなりました(民数記20章)。そのためモーセは、民が羊飼いのいない羊の群とならないように新しいリーダーを神に求めました(民数記27:15-23)。この求めに神はヨシュアを新しいリーダーに選び任命し、民をカナンに入らせました。神はご自分の民を放っておくことはしないのです。今日は、イエスが弟子たちの前から去って行くに当たり、彼らのために何を約束したのかを見てゆきます。



Ⅰ.イエスはご自身を愛する弟子たちに助け主の派遣と再会を約束した(14:15-20)

(1)約束1:もう一人の助け主

 イエスは、この後弟子たちの前から一時的に去って行くと彼らに告げました。ただし、去って行くのは弟子たちのためと説明し、ご自身を信じてうろたえるなと命じます。さらにイエスは去って行くことに関してことばを続けます。


 イエスは、弟子たちがご自身を愛しているかどうか、すなわち戒めに代表されるイエスのことばを守るかどうかを問うています。なぜなら、イエスの愛を受け取っているならば、自然とイエスに従えるからです(15節)。


 ここでイエスは弟子たちに助け主の約束をします(16節)。「助け主」と訳されていることばは「力づける/協力する/励ます/助言を与える」といった役割の者を現します。また、人を弁護する者の意味もあります。つまり、ことばの意味からも明らかなように、弟子たちにとって最初の助け主はイエスです。そして、イエスが去った後、真理の御霊、聖霊とも呼ばれるもう一人の助け主をイエスが父に願い、父なる神から助け主が弟子たちに遣わされます。ですから助け主はイエスの代理者なのです。


 人は誰でも信頼する人がそばにいればいつでも安心し、その人に付いて行きます。けれども、見えなくなってしまったら心細くなったり、従うことがおろそかになります。イエスの弟子たちも例外ではありません。イエスが去って行くことを聞いただけで不安になっています。それでイエスは父に助け主を願うのです。弟子たちは助け主によって、目には見えなくてもイエスが共にいるのを実感し、心を騒がせず、イエスのことばを守ることができます。言い換えれば、イエスを愛し続けるために助け主が遣わされるのです。


 ただし、17節「世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。」とあるように、イエスを愛さないこの世は助け主を必要としません。助け主はイエスを愛する者限定なのです。なぜなら助け主が真理の御霊と呼ばれるように、この世すなわちイエスの真実を信じない者はイエスの代理者として助け主を理解できないからです。イエスを必要としていないから助け主も必要としません。イエスを信じ愛する者だけが助け主の存在をわかり、その働きを認めるのです。様々な場面でクリスチャンは「聖霊の導きだ/聖霊が働いたから」と言いますが、世の中では「偶然/運命/因果関係」で説明します。まさに17節のことばがその通りになっているのです。


(2)約束2:よみがえった後の再会

 ここでイエスはもう一つの約束をします(18節)。イエスは十字架で死んだ後、残った弟子たちを両親のいないみなしごのように置き去りにしない、と約束します。なぜなら、彼らのところに戻って来るからです。弟子たちを自分の家族としているイエスの優しさが表れています。


 戻って来ることについてイエスは「あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。」と説明します(19節)。この晩餐の後、イエスと弟子たちはオリーブ山に向かい、そこでイエスは逮捕されます。そして大祭司の尋問と総督ピラトの裁判によって十字架刑で死にます。「あと少しで」とあるように、世の中の人々がイエスを目にするのは短かい時間です。一方で、十字架で死んでから3日目によみがえったイエスは新しいからだで弟子たちの前に現れました。ペテロはそのことをこう証言しています。「民全体にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちに現れたのです。(使徒の働き10:41)」助け主と同じように、ここでも弟子限定となっています。


 弟子たちはよみがえったイエスと再び会えて喜ぶでしょう。けれどもイエスは彼らを安心させ喜ばすためだけに再会したのではありません。ラザロの所でイエスはこう言いました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。(ヨハネ11:25-26)」よみがえったイエスと再会することで弟子たちは「イエスのことばは本当だ」と確信し、「イエスを信じる自分たちも永遠に生きる」と確信します。さらに20節のように、かつてイエスが語った「イエスと父との一体/イエスと弟子との一体」が真実であると確信します。つまり、よみがえったイエスとの再会によって、弟子たちはこれまで知識として持っていたことがらを納得し確信し、イエスが真実であると固く信じるのです。そしてこの確信によって彼らは世の中にイエスを伝えることができます。


 イエスは十字架で死に弟子たちの前からいなくなります。けれども、あのモーセと同じように、ご自身を信じ従ってきた弟子たちを恐れと不安、さらにイエスを見捨てた自責の念の中に置き去りにしません。ご自身の代理として聖霊という助け主を神から遣わし、ご自身がやったように聖霊が彼らを励まし助け、正しい道に導きます。それに加えて、再び姿を現すことでご自身のことばの真実を確信させます。事実、2つの約束はその通りとなり、弟子は堅くイエスを信じ愛して、イエスを証しました。この弟子たちの働きによって、時間も場所も遠く離れた私たちに永遠のいのちがもたらされています。イエスの2つの約束は現代の私たちにつながっているのです。


Ⅱ.イエスは、弟子たちがイエスを愛して神のことばを守り続けるために2つの約束をした(14:21-24)

 ここでイエスは2つの約束の理由を語ります(21節)。イエスを愛する者はイエスのことば、すなわち父なる神のことばを守っています。それゆえ、神はその者を愛するから助け主と再会の約束をするのです。


 「神は従う者を祝福する」これが神のみこころであり、聖書を貫く原則です。イエスを信じる者が罪赦され永遠に生きる、というのもこの原則に基づいています。イエスが病を治す時もイエスを信頼する者限定でした。つまり「神は従う者を祝福する」これに則ってイエスは聖霊と再会を弟子に約束するのです。いわば2つの約束はイエスを愛する者に与えられた特権なのです。人がどれくらい善をなしたか、といういわゆる功績ではないところに、神のあわれみがあります。


 このイエスのことばに弟子の一人が尋ねます(22節)。「イスカリオテでないほうのユダ」は伝統的にタダイとされています。彼は「なぜ弟子限定なのかと」言います。イエスはこれまでユダヤ人たちに姿を現してきました。しかし、十字架で死に人々の前から去った後は弟子たちだけに現れるので、不思議に思ったのでしょう。そこでイエスは答えます(23-24節)。


 イエスの答えはこれまで語ってきたことがらの繰り返しです。ただし「わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。」とあります。イエスを信じず愛していない者に助け主を遣わしても、よみがえりの姿を現しても意味がありません。このことはこれまでの出来事を見れば一目瞭然です。イエスは人知の及ばない不思議なわざをいくつもユダヤ人に示してきましたが、彼らは頑なでした。宗教指導者は特にそうでした。


 つまり、弟子を代表としてイエスを愛する者に限って助け主と再会を約束するのは、彼らの信仰を揺るぎないものとしイエスを愛し続けるためなのです。「そうすれば、わたしの父はその人(イエスを愛する人)を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」とイエスは言います。助け主の働きとよみがえったイエスとの再会が、イエスと神がいつもともにいるという確信と実感を与えます。そして、そこから「イエスは救い主である」という証しができます。助け主と再会はイエスを愛する者の信仰と彼らの使命に必要不可欠なのです。


■おわりに

 現代の私たち、すなわちイエスを救い主と信じて愛する者にも聖霊と呼ばれる助け主が神から遣わされています。その聖霊の働きによって、私たちはイエスがいつもそばにいることがわかります。また、イエスが自分と神との間をとりなしてくださっていると信じています。


 一方、現代の私たちにイエスが現れるのは再臨の時です。それまでは見える形で私たちの前に現れません。けれどもイエスは聖書ということばで私たちに姿を現しています。弟子たちの時は「イエスのことば真実だ」というのを証明するには、ご自身がよみがえりの姿を現す他ありません。しかし今は、イエスを記録した聖書がイエスの真実を明らかにしています。


モーセはこの世を去る前にイスラエルの民とヨシュアにこう言いました。「【主】ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。(申命記31:8)」愛するイエスが父のおられる天に戻ったとしても、私たちは見捨てられた孤児ではありません。聖霊とイエスのことばがあるから、見えないけれどもイエスがいつもともにいると分かるのです。

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