9月28日「私の神、主が来られる(2)永遠で完全な平安」(ゼカリヤ書14章12-21節)
- 木村太
- 9月28日
- 読了時間: 8分
■はじめに
キリスト教の教会は、「天の御国の前味」と呼ばれることがあります。一般的に前味とは「店に入る前に感じる美味しそうな雰囲気」を言います。ですから教会は天の御国の雰囲気を感じる場所なのです。というのも、教会はクリスチャンの集まりであり、神と人を大切にするように変えられた人が集う場所だからです。それで、教会にはこの世の中とは違う不思議な安心があるのです。ただし、この地上で生きている間は、たとえクリスチャンであっても未だ罪の心があるから、教会でも混乱や衝突があります。だから、そのものではなく前味なのです。今日はやがて私たちが入る神の都について聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.主の日において主を恐れない者は徹底的に滅ぼされる(14:12-19)
ゼカリヤ書の最終章である14章には、主の日すなわちメシアがやってくる日に起きる2つのことがらが記されています。一つは「神の国の都エルサレムで何が起きるのか」であり、もう一つは「主を恐れない者と恐れる者はどうなるのか」です。今日は2つ目のことがらを見てゆきます。
主なる神はエルサレムを攻めるすべての人に疫病を下します(12節)。「エルサレムを攻める」というのは、エルサレムの神殿に臨在する主を怖がらず、侮っている証拠です。もし、人知の及ばない主の罰を知り、主を恐れていたならこんなことはできません。しかも、主を恐れない者に下される疫病は非常にむごいものです。「足で立っている/目がまぶたの中/舌は口の中」とあるように、その人は生きたまま体のすべてが溶けるごとく腐ってゆきます。戦いで命を落とす方がまだましと言えます。主を恐れない者は激しい苦痛を伴いながら滅んでゆくのです。それと並行して、「互いに手でつかみ合い、互いに殴りかかる。(13節)」とあるように、主は敵を混乱させ同士討ちにします。神の民を救うために主が用いる方法の一つです。
また、「ユダもエルサレムで戦う。(14節)」とあるように、メシアが属するユダ族も主の力を受けながら敵と戦い、圧倒的に勝利します。しかも、疫病は人だけではありません(15節)。馬は戦闘用の軍馬として、らば・らくだ・ろばは人の移動とか荷物の運搬に用いられます(15節)。ですので、敵は戦いどころか逃げることもできません。その上、宿営にいるすべての家畜にも疫病が下りますから、そこに生きて留まることもできません。主を恐れない者への罰は徹底的で完全なのです。
ただし、主の罰を免れる者もいます(16節)。「生き残った」は「秀でた/突出した」を意味しますから、主から見て救うに値する者も敵の中にいました。なぜ、主は彼らを滅びから救うのか、その理由が「毎年、万軍の【主】である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。」にあります。この当時「王を礼拝するために宮殿に来る」というのは、王を統治者として認めて敬う心を現すふるまいでした。また、仮庵の祭りは主の祝福を祝うことの象徴です。つまり、毎年この祭りのためにエルサレム神殿に来て、主を礼拝すると言うのは、主なる神が天地万物を治める王として君臨していることを認めて畏敬の念を持っていることの証拠なのです。それで、たとえエルサエムを攻めた者であっても、主を恐れる者はエルサレムで生き残るのです。
ここまで主は、ご自身を恐れずエルサレムを攻めに来た者、いわば直接的に主に敵対する者について語りました。ではそれ以外の者はどうなるのでしょうか。17節を見ましょう。雨は主の恵みの象徴ですので、主を王と認めない者は主の恵みが与えられません(17節)。今見ましたように、エルサレムを攻めるといった敵対行動に出なくても、主を万物の王として認めず敬わない者にも、主はご自身を恐れない者として罰するのです。ただし、罰はそれだけで終わりません。
エジプトはナイル川があるので雨が降らなくても作物は実ります。しかし、雨が降らなければ川はいずれ干上がります。ですので、ナイルに水があるのも主の恵みなのです(18節)。エジプトは出エジプトの出来事を通して、イスラエルの神の恐ろしさを知っているはずです。けれども彼らが仮庵の祭りに上って来ないというのは、雨を主の恵みと受け取っていない証しであり、主を王として恐れていない証しなのです。それゆえ、エジプトは主を恐れない者の代表として取り上げられています(18節)。だから主を無視するとか主の恵みなのに何とも思わない者に、主は罰として疫病を下すのです(19節)。
主を攻撃するという直接的な行動に出る者も、あるいは主の存在やわざを知っているのに無視したり侮る者も、主からすればご自身を恐れない者に属します。だから主は彼らを想像を絶する方法で滅ぼします。その一方で、主を恐れて王として崇め、それをふるまいに出す者を主は罰せず、神の都エルサレムで生きる者にします。たとえ、かつては主を恐れない者であってもです。私たちもかつては主を恐れない者でしたが、聖霊の働きによって主を恐れてイエスによる救いを信じる者に変えられました。生きながらにして腐るような恐ろしい罰を免れて、神の国で生きるようになったのです。
Ⅱ.主の日から主を恐れる者は聖なる都エルサレムで永遠に生きる(14:20-21)
次に主は、主を恐れない者が滅ぼされた後のエルサレムの様子、すなわち「私たちの神、主であるメシア」が来られた後、神の都がどうなっているかを語ります(20-21節)。
主は3つのものを通して、エルサレムが完全に聖であることを明らかにしています(20-21節)。
①馬の鈴:すでに戦いは終わっているので馬は軍馬ではなく、エルサレム巡礼者用の馬で、馬具に鈴が付いていました。「【主】への聖なるもの」は大祭司のかぶりものの記章に彫られたことばであり、大祭司が聖であることのしるしでした(出エジプト28:36-38)。それゆえ、巡礼者用の馬が聖となっています。
②【主】の宮の中の鍋:神殿で使われていた普通の鍋です。一方「祭壇の前の鉢」は、いけにえの血を注ぐための祭儀用の鉢ですので聖なる物です。ですからこれも、本来、聖ではない物も聖となっています。
③エルサレムとユダのすべての鍋:これは一般家庭で使われている鍋です。それが、万軍の【主】への聖なるものとなっていて、一般人もそれを使っていけにえを主に献げることができます。
また、馬は公的なもの、宮の中の鍋は宗教的なもの、すべての鍋は庶民的なものの代表ですから、これら三つのものは地上におけるあらゆる領域を意味しています。つまり、神の都エルサレムには聖さしかなく、汚れの要素は一つもありません。律法においてはいけにえの血が振りかけられたものが聖であり、神に受け入れられるものでした。しかし、主の日からはすべてが聖ですから、神の怒りや不快となる物も人も一切存在しないのです。
しかも、「その日、万軍の【主】の宮にはもう商人がいなくなる。(21節)」と主は語ります。商人は神殿で儲けようとする者なので聖さを損ねる存在です。けれども、「もう」いなくなるのですから、聖さを損ねる要素も永遠に入って来ません。それゆえ、エルサレムは完全に永遠に聖なる都になるのです。
主の日において、神の都エルサレムには、罪や汚れといった考えも行いも物質的な物も何一つありません。ただ聖なのです。さらに、聖さを損ねるものが都の外から入って来ることも二度とありません。ですので、神と住民との関係においても、人同士の関係においても、平安と喜びだけが永遠に続くのです。この主の宣言がイスラエルの民にとって希望となり励ましになるのです。
■おわりに
ゼカリヤ書の説教を閉じるに当たり、全体を振り返りながら現代の私たちに適用します。
イスラエルの民は70年間のバビロン捕囚から解放されて、荒れ果てた都エルサレムに帰ってきました。エレミヤに告げられた預言がその通りになったのです。その後、彼らはゼカリヤを通して主の励ましによって神殿を再建しましたが、いまだメシアは来ず神の国は不完全なままです。しかも、相変わらずペルシアの支配は続いています。それでイスラエルの民は主から心が離れてゆきました。そんな中、主はゼカリヤを通して、主の日すなわちメシアが来て神の国を完成させることを約束しました。具体的には、2つのことを明らかにしています。
①主を恐れない者を一掃する。しかも、想像を絶する恐怖と苦痛を伴う
②主を恐れる者は神の都エルサレムに入り、完全で永遠の聖さを生きる
私たちはイエスの犠牲によって罪が赦されました。そしてイエスのよみがえりと天に戻ったことによってイエスと同じように天の御国に入ることができます。永遠の滅びからはすでに解放されています。ただし、エルサレムに戻った民と同じように、私たちをとりまく世界には悪がまん延しています。と同時に、私たちの内側にもいまだ悪の思いがあります。それゆえ、神への期待が消えそうになるだけでなく、神以外の何かに頼りたくなるのです。以前申しましたように、苦難が信仰を揺るがすのです。
しかし主はゼカリヤへの預言を変えていません。なぜなら、神の都についての約束がよりはっきりと示されているからです。それがヨハネの黙示録です。
①主を恐れない者:いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた(黙示録20:15)。わたしの前に罪ある者はだれであれ、わたしの書物から消し去る(出エジプト32:33)
②主を恐れる者:見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである(黙示録21:3-4)。
これが私たちの希望であり、忍耐を生む源です。そして、神がゼカリヤを通してイスラエルの民を励まし支えたように、いまや私たちには聖霊なるイエスと聖書を通して神が励まし支えているのです。
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