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木村太

8月18日「苦難の中で信仰と愛を保つ」(テサロニケ人への手紙 第一 3章6-13節) 

■はじめに

 新約聖書ヤコブの手紙はイエスの兄弟であり、初代教会の長老であるヤコブが書いたものです。その中でヤコブは「同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。(ヤコブ2:17)」と書いています。信仰はあくまでも人の内側にありますが、信仰から生まれる行いがなければ真(まこと)の信仰とは言えないとヤコブは言うのです。しかも、「えこひいき」のように自分の利益優先ではなく、他者の益を最優先にする行いが真(まこと)の信仰を証明する、と教えています(ヤコブ2:1,9)。一言で言うなら、信仰には他者への愛が伴うのです。今日は、信仰と人を愛することの関係について聖書に聞きましょう。

 

■本論

Ⅰ.パウロは、テサロニケの信者が信仰と愛を保っているのを喜び、神に感謝した(3:6-10)

 前回話しましたように、テサロニケの信者はキリストを否定するユダヤ人から激しい攻撃を受けています。それでパウロは彼らの信仰を心配してテモテをテサロニケに派遣しました。そのテモテがパウロのもとに戻ってきて現地の様子を報告しました。この報告にパウロが語ります。

 

 「ところが今(6節)」とあるように、パウロは報告を受けてすぐに手紙を書いています。それほどうれしい内容だったのでしょう。テモテの報告をパウロは「あなたがたの信仰と愛について良い知らせ(6節)」と言います。これが具体的に何を指しているのかは書かれていませんが、6節後半の「いつも好意をもって思い起こし/私たちに会いたがっている」から伺い知ることができます。

 

 パウロたちがテサロニケで福音を伝えたことで2つの出来事が起きました。一つは、キリストを救い主と信じる者が生まれたこと、もう一つは、キリストを否定するユダヤ人の迫害です。もし、迫害という苦しみだけが信者の心を支配しているのなら、好意を持って思い起こさず、再び会いたいとはなりません。むしろ、「彼らのおかげでこんな苦しみになった」と不快に思うでしょう。

 

 しかし、「好意を持って思い起し」と口にしているのは、苦難よりも信仰のほうがはるかに素晴らしいとなっているからです。また「パウロたちがテサロニケの信者に会いたいと思っているように、テサロニケの信者もパウロたちに会いたがっている」のは、テサロニケの信者がパウロたちを感謝とともに心配しているのです。ここに彼らの信仰と愛が示されています。パウロたちの労苦は無駄になっていません。

 

 この事実がパウロたちを慰めました(7-8節)。テサロニケと同じように、他の地域でも福音を伝える活動によって信じる人も起こされますが、一方では無関心な者たちや妨害する者たちもいます。そういった反応は、心身の苦しみに加えて、「キリストを伝える気持ち」を萎えさせます。そんな中で、テサロニケの信者の信仰はパウロたちを元気づけ(7節「慰める」)、宣教に向けた活力を与えたのです(8節「心が生き返る」)。現代でも、宣教師がかつて仕えていた教会の様子を聞いて励まされた、という証しがたくさんあります。

 

 テサロニケ信者の信仰とそれによって受けた慰めに対してパウロは感謝と願いを語ります(9-10節)。パウロは「どれほど感謝を神におささげしても足りない(9節)」と言います。というのも「おささげする」は「お返しする」ということばですので、「テサロニケの信者が信仰と愛を保っていられたのは神の働きだ」と確信しているからです。「苦難が明白であっても信仰を持つこと」も「苦難の中で信仰を保つこと」も神の働きだから、パウロはどれほど感謝しても足りないと喜びながら神に語るのです。

 

 さらに「あなたがたの信仰で不足しているものを補うことができるように(10節)」と、パウロはどんな苦難の中でも今以上に揺るぎない信仰となるために、直接何らかのことをしたいと願っています。もし、テサロニケに戻ったら自分への迫害は火を見るよりも明らかなのにです。ここに、自分のことよりも相手を大切にするパウロの愛があります。

 

 私たちも遠く離れている人のことについて「○○さんどうしてる」と親しい方に聞くことがあります。その際、今の様子を聞いて励まされ、喜び、神に感謝することもあれば、信仰や健康の回復ために神に祈り、その人のために何らかの行動を起こすこともあります。こういった他者を大切にする愛のふるまいが、互いの信仰を維持し高めてゆくのです。

 

Ⅱ.パウロは、キリストの再臨に向けて信仰が強められるように愛の実践を祈った(3:11-13) 

 パウロはテサロニケの様子を知って祈ります。「私たちの父である神」「私たちの主なるイエス」とあるように、パウロは神とイエスの役割を分けながらも、どちらもすべてをご支配する神と崇めています(11節)。パウロがどれほどキリストに感謝しているのかがわかります。

 

 パウロはまず、神がテサロニケに行かせるように祈ります。これまで何回もサタンに妨げられたにもかかわらず「行きたい」と願うのは、それほど彼らに喜びを伝えたいのと同時に、彼らのために尽くしたいからです。こういうところにも、テサロニケの信者に対するパウロの愛が表されています。

 

 次にパウロはテサロニケの信者のために祈ります(12-13節)。パウロは最初に愛について「主が豊かにし、あふれさせてくださいますように。」と祈っています(12節)。ここでの「愛」は神の愛であり、「人に対する無償の愛/自らを犠牲にする愛」です。

 

 「人への愛をあふれさせる」は、ちょうど容器に水をあふれるほど注ぐようなふるまいを言います。例えば、私たちはペットボトルに水を入れるとき、あふれないように加減して一杯になったら注ぐのを止めます。つまり、あふれさせるというのは自分の判断で愛の行いを止めないことなのです。相手の様子を見て「これぐらいでいいか」というのは、相手よりも自分の判断を優先しているのであり、神の愛とは違います。

 

 しかも、「あなたがたの互いに対する愛を、またすべての人に対する愛を」とあるように、信者同志に加えて信者ではない人にもあふれさせるようにと、パウロは祈っています。このことはイエスも弟子たちに言っています。「また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。(マタイ5:47)」神からすれば人はご自身に敵対するものであり、怒りの対象です。けれども神はそんな人のために我が子イエスを犠牲にしました。信仰における人への愛は、自分を大切にすることよりも他者を大切にする方が優っているのです。キリストを信じる者はキリストと結ばれているので神の愛を発揮できます。しかし、依然として自分を最優先にしたい心があるから、完全に発揮できません。これが「信仰で不足しているもの(3:10)」だからパウロは、神が人に対する愛をあふれさせるように祈るのです。

 

 パウロは人への愛に続いて、テサロニケの信者の信仰について祈ります。「私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で(13節)」とあるように、パウロはイエスの再臨における神の審判に焦点を当てています。人にとって何よりも大事なのは、最後まで信仰を貫いた者に与えられる神からの栄冠です。この世でどれほど財産を築いても、どれほど高い地位にあっても、この栄冠に勝るものはないからです。

 

 ただし、前回扱ったように、信者への苦難が信仰を揺るがし、キリストを疑わせ、キリスト以外に頼ろうとさせ、キリストから離れさせます。目の前のことばかりにとらわれてしまうと、「キリストを信じたばかりに/キリストを信じて何になるのか」という誘惑に引き込まれます。だから、ゴールでもらえる神の栄冠を目指すのです。そして、信仰が揺れないように互いに愛を持って支え励ましながらこの世を生きるのです。パウロは「神が愛を増し加える願い」のあとに「神が信仰を強める願い」を祈っています。神の愛を持って支えあう仲間がいるから、私たちは世の終わりまで信仰を保つことができるのです。

 

■おわりに

 「信仰を持つのも、信仰を維持するのも、信仰を強めるのも」神の働きだとパウロは確信しています。そしてその通り、神は愛ゆえに私たちに働いています。大きな苦難の真っただ中にあるとき、神は祈りの中で私たちに平安の確信を与えます。ある時は聖書や誰かの証しを読んでいるときに「神がおられるから」という安心を与えられます。その一方、神は人の行いを通してご自身の愛を明らかにします。神は人を肉体と心を持つ生き物に造りました。これは、目に見えない神の愛を人を通して目に見えるようにするためです。その頂点がキリストの十字架です。キリストが十字架で死んだからこそ、私たちは神がどれほど私たちを愛してくださっているのかがわかるのです。私たちが誰かのために骨折りしているとき、神は私たちを通して向き合っている人にご自身の愛を届けているのです。

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